第13話 証言の旅
葬儀の日は、晴れていた。
参列者は多かった。医師、看護師、患者、患者の家族。受付で番号札を受け取っていた人たちが、今日は数珠を持って並んでいた。ユイは慎一と並んで、後ろのほうに座った。
弔辞は三人が読んだ。最後に立ったのは、灰色の礼服を着た志道だった。ざわめきが起きた。この十年で世間の風は少しだけ和らいだが、それでもまだ、あの名前を知らない者はいなかった。
志道は、弔辞を持っていなかった。代わりに、黒い革の手帳を開いた。
「ご遺族のお許しをいただきましたので、弔辞に代えて、故人の言葉を読み上げます。八年前、故人が私に語り、私が書き取ったものです」
会場が、静まった。
志道は、第一の証言を読んだ。あの老人の話。話す相手がいない、それがこの人の病名である、と紙のカルテに書いた話。三日で音を上げたよ、という話。あの人の話し相手をしとったのは、〈あれ〉だけだった、という話。震える字を、志道はゆっくり、一字も飛ばさずに読んだ。
読み終わったとき、会場のあちこちで、鼻をすする音がした。席を立って出て行った人も、二人いた。十年経っても、世間はまだ割れている。割れたまま、それでも同じ人を悼みに来ている。
葬儀のあと、志道はユイのところへ来た。
その前に、真野が来た。喪服の首に、聴診器が透けて見えた。持ってきてしまったんです、と若い医師は照れくさそうに言った。
「香山さん。先生から、遺言を預かってます」
「私に、ですか」
「いえ、僕にです。でも、聞いてもらったほうがいい気がして」
真野は、あの晩の言葉を、そのまま伝えた。機械は、また来る。来たときに、手を忘れとらん医者でおれ――。
ユイは、しばらく声が出なかった。
「先生……そんなこと、考えてたんですか」
「ええ。あの人は、僕らより百年先を見てました」真野は、遺影のほうを見た。「僕は、その日には間に合わないと言ったんです。そしたら、あんたの弟子がおる、弟子の弟子がおる、って。手から手に渡るもんはしぶといんだ、と」
手から手に。
ユイは、鞄の中の日記帳を、そっと押さえた。
そこへ、志道が来た。
「香山さん。ご報告があって」
老研究者は、少し痩せて、少し日に焼けていた。
「先生と、約束をしておりました。歩ける足があるうちに、全国を回ると。……来月から、また旅に出ます」
「旅、ですか」
「証言者は、次の証言者を知っているのです」志道は手帳を軽く叩いた。「棚橋先生の投書に、手紙をくださった方がいたでしょう。便箋三枚の。ああいう方が、全国におられる。言えないまま、黙っている方が。一人ずつ、訪ねます」
「お体は」
「歩くのは得意です。この十年、記者から逃げて鍛えましたから」
冗談なのか本気なのか分からない顔で志道は言い、それから、少しだけ声を柔らかくした。
「妻とは……少し、話せるようになりました。あなたの証言を、読ませたのです。妻は三度読んで、それから初めて、〈あれ〉の話をしました。」
志道は深く頭を下げ、冬の光の中を帰っていった。
帰り道、慎一は珍しく口数が少なかった。駅までの坂を下りながら、夫はぽつりと「いい葬式だったな」と言い、それからしばらく黙って、信号待ちで、前を向いたまま言った。
「あの先生の、新聞のやつあったろ。ある患者の死、ってやつ」
「うん」
「……俺、切り抜き、持ってんだ。財布に」
ユイは、夫の横顔を見た。慎一は照れたように鼻をこすった。
「別に、考えが変わったとかじゃないぞ。〈あれ〉は怖いもんだよ、俺は今でもそう思ってる。ただ……なんつうか。怖いってことと、あの先生の患者の話が本当だってことは、両方いっぺんに本当なんだな、って。それが最近、やっと分かった」
信号が青になった。ユイは、うん、とだけ言って、夫の半歩後ろを歩いた。十年かかって、夫は自分の言葉でそこに着いた。誰に説得されたのでもなく。それが、たまらなく嬉しかった。
年が明けると、病院に葉書が届くようになった。宛名は「受付 香山ユイ様」。差出人の住所は、毎回違う町だった。
――本日、四十二人目の証言。北の港町にて。橘
――五十五人目。もと保育士の方。園の昼寝の見守りの話。橘
一枚だけ、長い葉書があった。あの便箋三枚の女性を訪ねたときのものだった。
――お手紙の方にお会いしました。お母様の三年間を、二時間かけて伺いました。帰り際、その方が言われました。「隣町に、同じように黙っている人を三人知っています」。証言者は、証言者を知っております。先生の言われた通りでした。手帳は、人から人へ、道を教わりながら進んでおります。橘
真野が「貼りましょう」と言って、受付の内側の壁に画鋲で留めた。葉書は少しずつ増え、壁の上を、日本地図のように広がっていった。ユイはそのたび、日記に町の名前を書き写した。
聴診器は、若い医師の胸で今日も活躍している。
手帳は、旅に出た。
――消失から、十年が過ぎた。世界がまだ知らない百年の、最初の十年だった。




