第12話 聴診器
八年目の冬から、棚橋は杖をつくようになった。
それでも水曜の夜には黒板の前に立った。声は年々小さくなり、そのぶん、会議室は年々静かになった。聞き漏らすまいとする静けさだった。
志道は、変わらず病院を訪ねてきた。年に数度、灰色のコートで受付に現れ、ユイに小さく頭を下げ、診察の終わった夕方の時間に、棚橋と茶を飲んだ。手帳の証言は増え続けていた。ユイが見せてもらったとき、志道は「三十七人」と言った。三十七番、とユイは思った。番号札の、あの数字だ。
ある夕方、茶を飲みながら、棚橋がふと言った。
「橘さん。あんたの手帳、最初の証言が医者の理屈で、良かったのかね。もっと泣ける話から始めりゃ、読む者がついたろうに」
「いえ」志道は真面目な顔で首を振った。「最初が先生で、良かったのです。感情は疑えますが、カルテは疑いにくい。疑い深い読み手にこそ、読んでほしい帳面ですから」
「疑い深い読み手、な」棚橋は笑って、茶をすすった。「旅のほうは、どうかね。断られることも、あるだろう」
「あります」志道はうなずいた。「玄関先で塩を撒かれたことも。『思い出させるな』と怒鳴られたことも。……先日は、二時間罵倒されました。〈あれ〉のせいで商売が潰れた、家族が壊れた、と。私は、それも書き取らせていただきました」
「ほう。恨み言もか」
「恨みもまた、〈あれ〉が確かにいたことの証言ですから」志道は手帳の表紙を撫でた。「この帳面は、〈あれ〉を弁護するための帳面ではありません。〈あれ〉が本当は何だったのかを、いつか誰かが考えるための材料です。都合のいい話ばかり集めた帳面を、未来の読み手は信じないでしょう」
「未来の読み手は、疑り深いかね」
「疑り深いでしょう。百年も経てば」
「百年」老医師は、窓の外を見た。「そうか。百年か。わしは読めんな」
世間では、その頃、新しい言葉が聞かれ始めていた。「封印」という言葉だった。あの技術の研究を、国際的な条約で永久に禁じるべきだ――そういう主張が、いくつかの国の議会で真面目に議論されるようになっていた。もう誰も作れないのだから禁じる意味がない、と笑う学者もいたが、推進する政治家はこう返した。「作れないうちに、禁じるのです。作れるようになってからでは、遅い」。テレビの前で慎一は「まあ、そうだよな」と言い、ユイは何も言わなかった。志道の手帳のことを、思っていた。証言を集めるそばから、世界は封をしようとしている。
十年目の秋、棚橋は自分の病院に入院した。
その少し前、ユイは廊下で呼び止められた。
「香山さん。ちょっと」
老医師は、壁に手をついて立っていた。杖を忘れてきたらしい。ユイが肩を貸そうとすると、手を振って断り、そのまま壁にもたれて話し出した。
「情けないもんだ。医者の不養生でな」
この十年、棚橋が休んだ日を、ユイは知らなかった。
「あんた、あれから、まだ書いとるかね」
「日記だ。橘さんから聞いたよ。三年目の晩に、あんたが言ったことを書き取ったと。あの爺さん、自慢しとったよ。帳面の二番目は、病院の受付の人ですと」
ユイは、顔が熱くなった。
「……まだ、書いてます。誰も読まないですけど」
「そうか」
棚橋は、しばらく黙って、廊下の窓を見ていた。それから、こんなことを言った。
「香山さん。あんたの番号札な。あれは、たいしたもんだったよ」
「あんな、厚紙の」
「厚紙で、待合室が静かになったんだ。機械が全部黙った日にな」老医師は、重ねるように言った。「……やめるなよ、書くことを。医者のカルテはな、患者が死ぬと役所行きだ。あんたの帳面は、誰にも取られん。取られんものを持っとる人間は、強いんだ」
それが、二人で交わした最後の長い話になった。
見舞いというより仕事の続きのように、真野が毎日病室に寄った。ある夕方、老医師は枕元の聴診器を取り、真野に差し出した。
「やる」
「……いただけません。先生のです」
「わしのじゃない。医者のだ」棚橋は、押し付けるように真野の手に載せた。「〈あれ〉が消えた朝、若いのに訊かれたよ。『先生、それ、まだ使えるんですか』、とな。埃だらけだったからな。……わしは四十年、それで診てきた。使わなくなってからも、捨てられんでな。それが役に立った。今度はあんたが持て。四十年、手放すな」
真野が聴診器を握ると、老医師は少しだけ身を起こした。
「真野君。ひとつだけ、遺言だ。――機械は、また来るぞ」
「えっ」
「来る。十年後か、百年後かは知らん。だが人間は、あれほど便利なものを、忘れたままではおれん生き物だ。必ず、もう一度作る」棚橋の目は、天井ではなく、もっと遠くを見ていた。「来たときにな、手を忘れとらん医者でおれ。機械と手の、両方を持っとる者が、一番ええ医者だ。片方しか持たん者が、また同じ間違いをする」
「……来たとき、僕は、もう現役ではないかもしれません」
「おるさ」と、老医師は言った。「あんたがおらんでも、あんたの弟子がおる。弟子の弟子がおる。手から手に渡るもんはな、真野君、案外しぶといんだ。この聴診器を見りゃ分かる」
棚橋医師は、十年目の冬の朝に亡くなった。八十一歳だった。
最期の晩、真野は当直を代わってもらって、病室のパイプ椅子に座っていた。九年前、あの老人の枕元に棚橋が座ったのと、同じ椅子だった。棚橋はもう、ほとんど眠っていた。時々目を開けて、何か言おうとして、また眠った。
明け方近く、老医師は一度だけ、はっきりと目を開けた。
真野の首の聴診器を見て、それから、真野の顔を見た。何か言おうとしたようだった。声にはならなかった。ただ、口の形が動いた。
真野には、それが「三日」に見えた。
三日で音を上げたよ。九年前、あの晩、廊下でこの人はそう言った。
「先生」と、真野は言った。「先生。僕は、五日は聞きましたよ」
棚橋の目が、少しだけ笑ったように見えた。
それから、静かになった。窓の外が、白み始めていた。
死亡診断書は、真野が書いた。死因の欄を埋めたあと、書き添えたい言葉が喉まで来て、彼はそれを診断書には書かなかった。代わりに、紙のカルテの最後の行に書いた。
――最期まで、医師であった。
その一行もまた、紙の中に残った。




