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いととり  作者: AtoRei
第一章 十五・秋

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5.【夜】〜進まない秒針の音〜

【夜】


 夕食を終える頃には、時計の針が午後七時を指していた。


「あら、もうこんな時間」


 母は食器を流しへ運びながら時計を見上げ、手際よくエプロンを外す。


「ちょっと着替えてくるね」

「うん」


 一度、自分の部屋へ戻った母は、数分後には黒いワンピース姿で戻ってきた。


 昼間のエプロン姿とは、まるで別人だった。


 艶のある黒髪は丁寧にまとめられ、薄く引いた口紅が白い肌を引き立てている。

 本来なら和装の方が映えそうな顔立ちなのに、黒いドレスまで自然に着こなしてしまう。

 

 小さい頃、参観日で母が来たとき、友達に「環ちゃんのお母さん、美人だね」と言われる度に、少しだけ誇らしかった。


 母が近づくと、ほのかに甘い香水の香りがした。

 お父さんが亡くなってから、母は夜になると仕事へ出るようになった。


 私を育てるための仕事。


 小学校六年生の頃、一度だけそう聞かされた。

 それ以来、詳しいことは何も聞いていない。


「じゃあ、行ってくるね」

「うん」

「戸締まり、お願いね」

「任せて」


 母は玄関でパンプスに履き替えている。


「……環」

「何?」

「夜更かししないでね」

「分かってる」

「眠れそう?」

「……え?」


 一瞬だけ母を見る。


「最近、何か考え込んでる顔をしている日が多いから」

「受験のことだよ」


 咄嗟にそう答えた自分の声は、自分でわかるほど少しだけ上ずっていた。


「そう」


 母は、それ以上は聞いてこなかった。


「じゃあ、信じる」

「いってらっしゃい」

「いってきます」


 玄関の扉が閉まる。

 廊下を歩く足音が少しずつ遠ざかり、やがて静かになった。

 家には、私一人だけが残された。



 食器を洗い終え、私は自分の部屋へ戻った。  

 制服を脱ぎ、部屋着へ着替える。


 鏡の前で結んでいた髪をほどくと、黒髪が肩へさらりと落ちた。


 シャワーの栓をひねる。

 温かな湯が頭から肩へ流れ落ちる。

 昼間の汗も、図書館の冷房で冷えた身体も、少しずつほぐれていく。


 鏡の向こうには、濡れた髪をかき上げる自分がいた。

 肩まで伸びた黒髪が肌に張りつき、水滴が鎖骨を伝って落ちていく。


 鏡の中の私は、母と同じ顔立ちでも十五歳にしか見えなかった。

 お母さんみたいな大人の綺麗さなんて、少しもない。


 肩へ流れる湯をぼんやり眺める。

 熱いはずなのに、胸の奥は冷たいままだった。


 棺の中を父の顔を見ていない。


 シャワーの湯も、その事実を流してはくれなかった。



 髪を乾かし終える頃には、時計は午後十時を回っていた。


 自室の机には、教科書と参考書がきれいに揃えて積まれていた。

 色分けされた付箋。

 きちんと立てられたペン。

 参考書の横には、夢の国のキャラクターのマスコットがちょこんと座っている。


 来週には模試がある。第一志望は都内でも上位の進学校だ。

 今日は、数学を一章は進めるつもりだった。


 参考書を開いて、問題文を目で追う。

 しかし、方程式の文章問題の内容が頭に入ってこない。

 「A地点を出た列車が……」という文章の途中で、文字がぼやけて見える。


 東都中央病院。

 転院。

 警察。


 『覚えていない』


 母の声が、問題文の上に重なる。


「……だめだ」


 参考書を閉じた。

 最近、机に向かっても前みたいに集中できない日が増えていた。


 そう思っても、焦りだけが残る。

 受験は待ってくれない。

 それなのに、今日の私は父のことで頭がいっぱいだった。



 ベッドへ潜り込む。

 部屋の電気を消した。


 カーテンの隙間から街灯の明かりが細く差し込み、天井へ白い線を描いている。


 枕元には、小さい頃から一緒に寝ている茶色のクマのぬいぐるみ。

 抱き寄せると、少しくたびれた綿の感触が腕に馴染んだ。


 目を閉じて眠ろうとするが、母の言葉が何度も頭に浮かんだ。

 お母さんが、お父さんのことで嘘をつくはずがない。

 そう信じようとする。

 なのに、信じようとすればするほど、胸の奥の違和感が小さく鳴り続けた。


 時計の秒針だけが、静かな部屋で時を刻んでいる。


 二十三時四十七分。


 ……まだ、夜は長かった。


 私は布団の中で、体を丸めた。

 指先が左耳に触れる。


 そのまま私は、重たくもならない瞼を閉じた。



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