5.【夜】〜進まない秒針の音〜
【夜】
夕食を終える頃には、時計の針が午後七時を指していた。
「あら、もうこんな時間」
母は食器を流しへ運びながら時計を見上げ、手際よくエプロンを外す。
「ちょっと着替えてくるね」
「うん」
一度、自分の部屋へ戻った母は、数分後には黒いワンピース姿で戻ってきた。
昼間のエプロン姿とは、まるで別人だった。
艶のある黒髪は丁寧にまとめられ、薄く引いた口紅が白い肌を引き立てている。
本来なら和装の方が映えそうな顔立ちなのに、黒いドレスまで自然に着こなしてしまう。
小さい頃、参観日で母が来たとき、友達に「環ちゃんのお母さん、美人だね」と言われる度に、少しだけ誇らしかった。
母が近づくと、ほのかに甘い香水の香りがした。
お父さんが亡くなってから、母は夜になると仕事へ出るようになった。
私を育てるための仕事。
小学校六年生の頃、一度だけそう聞かされた。
それ以来、詳しいことは何も聞いていない。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん」
「戸締まり、お願いね」
「任せて」
母は玄関でパンプスに履き替えている。
「……環」
「何?」
「夜更かししないでね」
「分かってる」
「眠れそう?」
「……え?」
一瞬だけ母を見る。
「最近、何か考え込んでる顔をしている日が多いから」
「受験のことだよ」
咄嗟にそう答えた自分の声は、自分でわかるほど少しだけ上ずっていた。
「そう」
母は、それ以上は聞いてこなかった。
「じゃあ、信じる」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
玄関の扉が閉まる。
廊下を歩く足音が少しずつ遠ざかり、やがて静かになった。
家には、私一人だけが残された。
◇
食器を洗い終え、私は自分の部屋へ戻った。
制服を脱ぎ、部屋着へ着替える。
鏡の前で結んでいた髪をほどくと、黒髪が肩へさらりと落ちた。
シャワーの栓をひねる。
温かな湯が頭から肩へ流れ落ちる。
昼間の汗も、図書館の冷房で冷えた身体も、少しずつほぐれていく。
鏡の向こうには、濡れた髪をかき上げる自分がいた。
肩まで伸びた黒髪が肌に張りつき、水滴が鎖骨を伝って落ちていく。
鏡の中の私は、母と同じ顔立ちでも十五歳にしか見えなかった。
お母さんみたいな大人の綺麗さなんて、少しもない。
肩へ流れる湯をぼんやり眺める。
熱いはずなのに、胸の奥は冷たいままだった。
棺の中を父の顔を見ていない。
シャワーの湯も、その事実を流してはくれなかった。
◇
髪を乾かし終える頃には、時計は午後十時を回っていた。
自室の机には、教科書と参考書がきれいに揃えて積まれていた。
色分けされた付箋。
きちんと立てられたペン。
参考書の横には、夢の国のキャラクターのマスコットがちょこんと座っている。
来週には模試がある。第一志望は都内でも上位の進学校だ。
今日は、数学を一章は進めるつもりだった。
参考書を開いて、問題文を目で追う。
しかし、方程式の文章問題の内容が頭に入ってこない。
「A地点を出た列車が……」という文章の途中で、文字がぼやけて見える。
東都中央病院。
転院。
警察。
『覚えていない』
母の声が、問題文の上に重なる。
「……だめだ」
参考書を閉じた。
最近、机に向かっても前みたいに集中できない日が増えていた。
そう思っても、焦りだけが残る。
受験は待ってくれない。
それなのに、今日の私は父のことで頭がいっぱいだった。
◇
ベッドへ潜り込む。
部屋の電気を消した。
カーテンの隙間から街灯の明かりが細く差し込み、天井へ白い線を描いている。
枕元には、小さい頃から一緒に寝ている茶色のクマのぬいぐるみ。
抱き寄せると、少しくたびれた綿の感触が腕に馴染んだ。
目を閉じて眠ろうとするが、母の言葉が何度も頭に浮かんだ。
お母さんが、お父さんのことで嘘をつくはずがない。
そう信じようとする。
なのに、信じようとすればするほど、胸の奥の違和感が小さく鳴り続けた。
時計の秒針だけが、静かな部屋で時を刻んでいる。
二十三時四十七分。
……まだ、夜は長かった。
私は布団の中で、体を丸めた。
指先が左耳に触れる。
そのまま私は、重たくもならない瞼を閉じた。




