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いととり  作者: AtoRei
第一章 十五・秋

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4/11

4.【夕】〜止まった時間〜


 自宅マンションのエントランスの前に立つ。

 顔認証のセンサーが私を認識すると、小さな電子音とともにガラス扉が静かに開いた。


 エレベーターに乗り込み、十一階のボタンを押す。

 扉が閉まる。

 密閉された箱の中で、さっきまでの喧騒が少しずつ遠ざかっていく。


 十一階で降り、廊下の突き当たりにある部屋へ向かう。


 鞄から鍵を取り出した。

 父が作ってくれた、小さな木製のキーホルダー。

 二つの輪を繋げたような形で、「失くしにくいだろ」と渡してくれたものだ。

 何度も触れた角は丸くなり、表面の艶も少しだけ薄れている。


 鍵を回して玄関の扉を開けると、醤油と生姜の匂いがふわりと鼻をくすぐった。


 照明の灯ったリビングには、いつもの夜があった。


 四人掛けのダイニングテーブル。

 窓際には母が育てている観葉植物。

 テレビの横には、父が直した壁掛け時計が今もゆっくりと時を刻み続けている。


「ただいま」

「おかえりなさい」


 キッチンから返ってきたのは、いつもと変わらない母の声だった。


 母――雨宮(あめみや)綾乃(あやの)は、エプロン姿でフライパンを振っている。

 艶のある黒髪を後ろでまとめた横顔は、昔から私によく似ていると言われた。

 でも、同じ顔立ちでも母の方がずっときれいだった。


 ジュッ、と肉が焼ける音が響き、生姜の香りが立ちのぼる。

 鍋では味噌汁が小さく湯気を立て、まな板の上には千切りにされたキャベツが白い山になっていた。


「今日は生姜焼きよ」

「うん。いい匂い」


 廊下を進むと、最初に私の部屋。その隣が母の部屋。

 一番奥のドアだけは、三年前から時間が動いていない。

 見ないように歩くのは、もう癖だった。


 自分の部屋に入って、鞄を机の横へ置く。

 制服のリボンへ手を伸ばしかけて、動きが止まった。

 鞄の口から、クリアファイルが少しだけ覗いている。

 図書館で覚えた違和感が、また胸の奥で疼いた。


 ……聞くなら、今しかない。


 クリアファイルを抱え、私はリビングへ戻る。

 母に聞けば、昔のことを思い出させてしまうかもしれない。

 またお母さんを泣かせるかもしれない。

 それでも。

 あの疑問だけはどうしても頭から離れてくれなかった。


「ねえ、お母さん」

「なあに?」

「お父さんの事故のことなんだけど」


 菜箸が止まる。

 ほんの一瞬だけ。


「急にどうしたの?」

「今日も図書館で調べてたら、気になって」

「……そう」


 フライパンの中で肉を返す。

 ジュッ、と油が弾ける音が、短い沈黙を埋めた。


「私、葬式のときに、お父さんの顔を見てないよね」


 母は味噌汁の鍋へ視線を落としたまま、小さく息を吐く。


「見てない、と思う」

「どうして?」

「事故の怪我がひどかったから」


 返事はよどみなかった。

 私はクリアファイルを抱え直す。


「お母さんは見たの?」

「ええ。病院で」

「どこの病院?」

「東都中央病院だったと思う。でも、そこから別の病院へ移されたの。警察にも何度も呼ばれて……あの頃は、どこへ何をしに行ったのかも曖昧で」


 母の目元が、わずかに潤んだように見えた。


「……ごめんね。そこまでは、もう覚えてないの」


 そう言って味噌汁の蓋を開ける。

 白い湯気が立ちのぼり、母の横顔を静かに隠した。


「警察の人とも話したし、病院の人にもいろいろ聞かれて。お葬式の準備もしなきゃいけなかったでしょう?」


 味噌汁を椀へよそぎながら、母は少し笑った。


「あの頃は、環にちゃんとご飯を食べさせることだけで精いっぱいだったの」


 胸が詰まった。

 父を亡くしたばかりなのに、母は私を育てることだけを考えていた。

 私は自分の疑問ばかりに夢中になって、そんな当たり前のことを忘れていた。


「……ごめん」

「どうして環が謝るの?」


 母は笑って、私の頭をそっと撫でる。


「環がお父さんのことを忘れてないの、嬉しいわよ」


 その手は、昔と変わらず温かかった。

 胸の奥に残っていた違和感が、少しだけ遠ざかる。

 そうだ。

 お母さんが、お父さんのことで嘘をつくはずがない。

 私は小さくうなずいた。

 それ以上、聞くことはできなかった。



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