4.【夕】〜止まった時間〜
◇
自宅マンションのエントランスの前に立つ。
顔認証のセンサーが私を認識すると、小さな電子音とともにガラス扉が静かに開いた。
エレベーターに乗り込み、十一階のボタンを押す。
扉が閉まる。
密閉された箱の中で、さっきまでの喧騒が少しずつ遠ざかっていく。
十一階で降り、廊下の突き当たりにある部屋へ向かう。
鞄から鍵を取り出した。
父が作ってくれた、小さな木製のキーホルダー。
二つの輪を繋げたような形で、「失くしにくいだろ」と渡してくれたものだ。
何度も触れた角は丸くなり、表面の艶も少しだけ薄れている。
鍵を回して玄関の扉を開けると、醤油と生姜の匂いがふわりと鼻をくすぐった。
照明の灯ったリビングには、いつもの夜があった。
四人掛けのダイニングテーブル。
窓際には母が育てている観葉植物。
テレビの横には、父が直した壁掛け時計が今もゆっくりと時を刻み続けている。
「ただいま」
「おかえりなさい」
キッチンから返ってきたのは、いつもと変わらない母の声だった。
母――雨宮綾乃は、エプロン姿でフライパンを振っている。
艶のある黒髪を後ろでまとめた横顔は、昔から私によく似ていると言われた。
でも、同じ顔立ちでも母の方がずっときれいだった。
ジュッ、と肉が焼ける音が響き、生姜の香りが立ちのぼる。
鍋では味噌汁が小さく湯気を立て、まな板の上には千切りにされたキャベツが白い山になっていた。
「今日は生姜焼きよ」
「うん。いい匂い」
廊下を進むと、最初に私の部屋。その隣が母の部屋。
一番奥のドアだけは、三年前から時間が動いていない。
見ないように歩くのは、もう癖だった。
自分の部屋に入って、鞄を机の横へ置く。
制服のリボンへ手を伸ばしかけて、動きが止まった。
鞄の口から、クリアファイルが少しだけ覗いている。
図書館で覚えた違和感が、また胸の奥で疼いた。
……聞くなら、今しかない。
クリアファイルを抱え、私はリビングへ戻る。
母に聞けば、昔のことを思い出させてしまうかもしれない。
またお母さんを泣かせるかもしれない。
それでも。
あの疑問だけはどうしても頭から離れてくれなかった。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「お父さんの事故のことなんだけど」
菜箸が止まる。
ほんの一瞬だけ。
「急にどうしたの?」
「今日も図書館で調べてたら、気になって」
「……そう」
フライパンの中で肉を返す。
ジュッ、と油が弾ける音が、短い沈黙を埋めた。
「私、葬式のときに、お父さんの顔を見てないよね」
母は味噌汁の鍋へ視線を落としたまま、小さく息を吐く。
「見てない、と思う」
「どうして?」
「事故の怪我がひどかったから」
返事はよどみなかった。
私はクリアファイルを抱え直す。
「お母さんは見たの?」
「ええ。病院で」
「どこの病院?」
「東都中央病院だったと思う。でも、そこから別の病院へ移されたの。警察にも何度も呼ばれて……あの頃は、どこへ何をしに行ったのかも曖昧で」
母の目元が、わずかに潤んだように見えた。
「……ごめんね。そこまでは、もう覚えてないの」
そう言って味噌汁の蓋を開ける。
白い湯気が立ちのぼり、母の横顔を静かに隠した。
「警察の人とも話したし、病院の人にもいろいろ聞かれて。お葬式の準備もしなきゃいけなかったでしょう?」
味噌汁を椀へよそぎながら、母は少し笑った。
「あの頃は、環にちゃんとご飯を食べさせることだけで精いっぱいだったの」
胸が詰まった。
父を亡くしたばかりなのに、母は私を育てることだけを考えていた。
私は自分の疑問ばかりに夢中になって、そんな当たり前のことを忘れていた。
「……ごめん」
「どうして環が謝るの?」
母は笑って、私の頭をそっと撫でる。
「環がお父さんのことを忘れてないの、嬉しいわよ」
その手は、昔と変わらず温かかった。
胸の奥に残っていた違和感が、少しだけ遠ざかる。
そうだ。
お母さんが、お父さんのことで嘘をつくはずがない。
私は小さくうなずいた。
それ以上、聞くことはできなかった。




