3.【夕】〜シュレディンガーの棺〜
【夕】
駅前へ向かう人の流れから外れ、私は交差点を左へ曲がる。
あっちの道の先では今頃、みんながガスタで和栗のパフェを食べているのだろう。
……やっぱり、行けばよかったかな。
だめだめ。
頭を横に振り、歩く速度を少しだけ上げる。
歩き慣れた道を足早に進むと、やがてコミュニティセンターが見えてきた。
最近の九月は、夕方になっても暑い。黙って歩いているだけなのに、制服の背中がじんわりと汗ばんでいた。
自動ドアが開く。
足元を撫でる冷房の風が気持ちよくて、私は小さく息を吐いた。
図書館は、今日も静かだった。
カウンターの女性が、私に気づいて顔を上げる。
「こんにちは」
私は軽く会釈だけを返し、そのまま奥の閲覧用パソコンへ向かった。
空いていたのは、いつもの席だった。
椅子へ腰を下ろし、周りに人の目がないことを確認すると、汗ばんだセーラー服の襟元を指でつまんで、ぱたぱたと風を送り込む。冷房の空気が背中まで通り抜けて、ようやく人心地がついた。
パソコンの電源を入れる。
セーラー服って、夏は本当に暑い。一枚脱ぐわけにもいかないし……。
画面が立ち上がるまでの間に、鞄からタイトルのないノートとクリアファイルを取り出した。
開き癖のついた最初のページには、三年前から変わらない一文が残っている。
『十二月十八日、午後七時十二分。市道八号線、宮坂交差点』
父が事故に遭った場所と時刻だった。
勤め先から自宅へ帰るなら、駅の東口へ向かえばいい。宮坂交差点は反対の西口側なのだから。
母に聞いても、近くに用事があったのだろうと言うだけだった。警察から返された鞄にも、理由を示すものは残っていない。
私は何度も入力した父の名前と日付を、今日も検索欄へ打ち込んだ。
表示されたのは、見慣れた短い記事だった。
『市内の交差点で、電気工事士の雨宮直哉さん(二十九)が車にはねられた。病院へ搬送されたが、その後、死亡が確認された。』
場所、時刻、父の名前。
書かれているのは、それだけだ。
関連記事も、事故当時の記録も、三年間で調べられるものは一通り調べた。それでも、父がなぜあの交差点にいたのかは分からない。
今日も収穫はなかった。
記事を閉じようとして、指が止まる。
――病院へ搬送されたが、その後、死亡が確認された。
何度も読んだ一文だった。
病院へ運ばれた。
母が連絡を受けた。
葬儀が行われた。
線香の匂いも、読経の声も覚えている。
火葬場で棺が運ばれていくところも。
けれど。
「……あれ」
棺の中にいる父の顔が、思い出せない。
違う。
忘れたんじゃない。
私は、見ていない。
冷房で乾きかけていた背中の汗が、急に冷たくなった。
事故の傷がひどかった。
そう説明されて、十二歳の私は納得したのかもしれない。
でも、誰に説明された?
母に。
親戚に。
葬儀場の人に。
何も思い出せなかった。
私は三年間、父が事故現場にいた理由を調べてきた。
事故そのものを疑ったことはない。
新聞に名前が載っていた。
葬儀も行われた。
母も、父は死んだと言っていた。
それなのに私は、父の死を一度も自分の目で確かめていない。
胸の奥で、これまでとは違う疑問が形を持った。
あの日、父はなぜ宮坂交差点にいたのか。
それだけではない。
あの日、事故で死んだのは、本当に父だったのか。
私は記事を印刷した。
手元を見なくてもできる作業なのに、用紙を取り出す指が一度滑った。
帰り際、カウンターの前を通る。
「……お疲れさまでした」
女性が、いつものように声をかけてくれた。
私はまた、軽く頭を下げるだけで図書館を出た。
外はもう暗くなり始めていた。
帰り道、ガスタの前を通る。
大きなガラス窓の向こうでは、制服姿の学生たちがテーブルを囲んでいる。
女子たちが運ばれてきたパフェを見て声を上げ、一斉にスマートフォンを向けていた。
細く絞られた栗のクリーム。
真ん中に乗った、大きな渋皮煮。
……おいしそう。
足が止まりかけた。
けれど、クリアファイルを抱く腕に力を入れ、そのまま通り過ぎた。
窓の向こうへ一度だけ目をやり、私は家への道を歩き出した。
◇




