第7話 獅子前澄夏は悪魔です
「星那ちゃん、今日の予定は?」
リビングに降りると、莉々華さんがトーストを焼きながら聞いてきた。
「特にないんですけど、近くを色々見て回ろうかなと思ってます」
「じゃあ、近所の案内しようか? スーパーとか、コンビニとか、色々教えてあげる。今日お休みだし」
「あ、ありがたいです。正直どこに何があるか全然分からなくて」
「決まりだね! じゃあご飯食べたら行こっか」
トーストと目玉焼きという最高の朝食がテーブルに並ぶ。そういえば炊事の当番はどうなってるんだろうか。僕も料理を作ったりするのかな。
「朝ごはん、ありがとうございます」
「いいのいいの。私、誰かの世話を焼くの好きだから」
にこにこしながらコーヒーを淹れる莉々華さん。この人は天使か何かだろうか。東京の人は冷たいと聞いていたいけど、全然そんなことないじゃないか。
「あたしも行こっかな」
食パンをかじりながら澄夏さんが言った。寝起きなのか気だるげな表情だけど、それすら様になっているのが驚いた。
「澄夏さんも?」
「星那に東京の歩き方ってやつ、教えてあげる」
東京の歩き方。何だかバックパッカー向けのガイドブックみたいだ。
「琴も参ります」
当然のように琴が手を挙げる。トーストを上品にかじりながら、真っ直ぐに僕を見つめている。さっき三十分も寝顔を見つめていた人とは思えないすましっぷりだ。
「……全員で行くんですか?」
「何、不満?」
「いえ……ありがたいですけど。大袈裟だなって」
「近所の案内くらいでガタガタ言わない。ほら、さっさと食べな」
澄夏さんにぶっきらぼうに言われて、僕は素直にトーストを口に運んだ。
……この人、言い方はキツいけど根は優しいんだろうな。昨日だって、散々「男って感じしない」と言いながら、一番冷静に僕を受け入れてくれたのは澄夏さんだった。
「星那ちゃん、マヨネーズいる?」
「あ、いただきます」
「お姉さま、こちらのバターもどうぞ」
「ありがとう、琴」
四人でテーブルを囲んで朝ご飯を食べる。
昨日の歓迎パーティとは違う、日常の食卓。何気ないやり取りが何だかくすぐったかった。これから毎日、この朝を迎えるのか。
「……美味しいです」
「ふふ、よかった~」
莉々華さんが嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て──やっぱりここにいてよかった、としみじみ思った。
ことを、僕はいずれ後悔することになる。
◆
「うっわ、暑い……」
外に出た瞬間、春の日差しが容赦なく降り注ぐ。三月の終わりとはいえ、東京の陽気は地元とは段違いだった。今日は特別暑いとは聞いていたけど、これほどとは。
「暑い? これで? 夏になったら死ぬよ星那」
澄夏さんがサングラスをかけながら呆れたように言う。オフの日でもお洒落を欠かさないのはアパレル店員の性なのか、ラフな格好でもどこか決まっている。
「まずはスーパーね。一番近いのはここを真っ直ぐ行った所にあるの」
莉々華さんが先頭に立って歩き出す。
その後ろを僕と琴が並んで歩き、澄夏さんが最後尾。四人で連なって住宅街を歩く様は、傍から見たらどう映っているんだろう。仲良し女の子四人組に見えてたり……するのかなあ、やっぱり。
「お姉さま」
「ん?」
「お手を」
琴が当然のように手を差し出してきた。
「え……手を繋ぐの?」
「はい。琴は東京の道に不慣れですので」
「琴、ここもう三年くらい住んでるんだよね……?」
「不慣れです」
嘘だ。絶対嘘だ。でも琴は平然と手を差し出し続けている。断る理由を探している間に、琴は勝手に僕の手を握ってしまった。
小さくて、冷たい手だった。
「お姉さまの手、温かいです」
「そりゃ、外暑いからね……」
琴は満足そうに僕の手を握りしめている。いつもはキュッと引き締められている横顔が、ほんの少しだけ緩んでいるように見えた。
「──ねえ星那ちゃん、この辺のドラッグストアも教えておくね。日用品はだいたいここで揃うから」
莉々華さんが道沿いの店を指差す。
「あと、この先にいい感じの雑貨屋さんもあるの。可愛いアロマキャンドルとか置いてて──」
「いや莉々華、星那が知りたいのはそういうんじゃないでしょ。コンビニとスーパーと美味いラーメン屋の場所が分かれば男は生きていけんの」
「でも星那ちゃんは可愛いインテリアに興味あると思うなあ」
「ないです」
「えー」
莉々華さんが残念そうにしょぼんとする。この人は僕を何だと思っているんだろう。答えは分かっているけど。
住宅街を抜けると、少し開けた通りに出た。スーパー、クリーニング店、ファーストフード、百円ショップ──生活に必要な店が一通り揃っている。地元とは比べものにならない便利さだ。
「すごい……こんなに近くに色々あるんですね」
「東京の便利な所はこういう所だよねー。でも家賃が高いんだけど」
莉々華さんがため息混じりに笑う。看護師の給料でも東京の家賃は厳しいのだろうか。シェアハウスに住んでいるのもそういう理由があるのかもしれない。
「お姉さま、あちらに和菓子のお店がございます」
琴が空いている方の手で通りの向こうを指した。昔ながらの佇まいの和菓子屋が、チェーン店に挟まれてひっそりと建っている。
「琴、あそこの常連なの?」
「はい。あちらの練り切りは絶品です。今度お姉さまにもお持ちいたします」
「ありがとう。楽しみにしてるね」
琴がこくりと頷く。手を繋いだまま、嬉しそうに僅かだけ口角が上がった。
「スーパー着いたよー。ここがメインで使うとこ」
莉々華さんが指差した先には、中規模のスーパーマーケットがあった。
「中も見ていこっか。星那ちゃん、自炊する?」
「一応、するつもりです。料理はそんなに得意じゃないですけど」
「そうなんだ。偉いね~」
「そうですか?」
「私たちって基本的にご飯は各自なんだけど、ちゃんと作ってるのは琴ちゃんくらいだから」
「澄夏さんは?」
「コンビニ」
澄夏さんが即答する。
「莉々華さんは?」
「……ここのお惣菜」
「看護師さんなのに食生活それでいいんですか」
「う……星那ちゃん、意外とキツいこと言うね……? 一応、たまに目玉焼きくらいは作るんだよ……? ほら、今日だって!」
「ハハッ、もっと言ってやれ星那」
澄夏さんがニヤニヤしている。
「澄夏さんもコンビニって言ってましたよね」
「……」
澄夏さんが目を逸らした。
「ほら~、澄夏ちゃんだって人のこと言えないじゃん!」
「うるさい、あたしはビールに合えば何でもいいの」
「それを食生活が終わってるって言うんですよ」
「なに、入居二日目にして先輩にそういうこと言う?」
澄夏さんがサングラスをずらして、こっちを覗き込んでくる。怒ってるのかと思ったら口元が笑っていた。
「嫌いじゃないけどね、そういうの」
……ずるい。こういう仕草がさらっと出てくるから、この人はかっこいいんだ。
スーパーの中に入ると、莉々華さんが売り場のレイアウトを丁寧に教えてくれた。 どこに何があるか、安い曜日はいつか、ポイントカードの作り方まで。
「お姉さま、こちらの豆腐は絹ごしがおすすめです」
「琴、詳しいね」
「藤花様に教えていただきました。湯豆腐にすると美味しいのです」
琴が豆腐を一丁手に取って、大事そうに抱えている。お嬢様が豆腐を品定めしている姿はなかなかシュールだった。
売り場を回るうちに、シャンプーのコーナーが目に入った。……そうだ、昨日の夜に誓ったんだった。自分のシャンプーを買うって。
棚の前で適当に手頃なのを選んでいると、横から手が伸びてきて止められた。
「ちょっと待ちな」
澄夏さんだった。僕が手に取ったボトルをちらっと見て、眉をひそめている。
「それはないわ」
「え、何がですか?」
澄夏さんは答えず、僕の前に回り込むと、いきなり僕の髪を手に取った。
「え、あの──」
「黙って」
指先で毛束をすくうように持ち上げて、光に透かすように見ている。サングラスを頭の上にずらした澄夏さんの目が、真剣そのものだった。
近い。スーパーの蛍光灯の下で、かっこいい人に至近距離で髪を触られている。状況がおかしい。でも澄夏さんの手つきがあまりにも自然で、振り払うタイミングが見つからない。
「……柔らかいし、毛先も傷んでない。ケアなしでこれって、ちょっとありえないんだけど」
さらっと言いながら、僕の髪を離した。
「素材がいいのにもったいない。そんな安いの使ったら台無しになるよ」
「でも、お財布的に──」
澄夏さんが一歩踏み込んできた。僕の後ろの棚に手をついて、顔が目の前に迫る。
──キスされる。
そんなわけないのに、そう思ってしまった。吐息がかかるくらい近くに澄夏さんの顔があって、頭が真っ白になって、体が固まって──
──壁ドン?
そう身構えた瞬間、澄夏さんの手は僕の頭の横を通り過ぎて、上の段のボトルを掴んだ。そのまま自分のカゴに入れる。
「え、澄夏さん──」
「おごり。生意気な後輩には、貸し作っとかないとね」
それだけ言って、澄夏さんはさっさとレジの方に歩いていった。
……ずるいな、この人。かっこよすぎる。どうしてこんなかっこいい女性がいるんだろう。僕が女の子だったら、間違いなく今ので惚れていた。
……いや、男の僕でも今ちょっとときめいた。男らしくなりたいのに、何やってるんだ僕は。




