第8話 知らぬが仏
三日目にして、僕は一人で外に出た。
東京というものをもう少しちゃんと見てみたかったんだ。シェアハウスの周辺は昨日の案内でだいたい分かったけど、あの辺は「東京」というより「ちょっと便利な住宅街」って感じで、僕が見たい東京は、もっとこう──ビルがばーっと並んでて、人がわーっといて、テレビで見るようなやつだった。語彙力がないのは自覚している。
最寄り駅まで歩いて、電車に乗る。
二十分。
たった二十分電車に揺られただけで、窓の外の景色が一変した。
──新宿。
「……すご」
改札を出た瞬間、人の波に飲み込まれそうになった。
見上げれば空を埋め尽くすビル群。上にも下にも右にも左にも無数の人、人、人。誰もが早足で、誰もが目的地を持っていて、立ち止まっているのは僕だけだ。
電車で二十分。たった二十分でこの世界に来られるなんて、東京に住むって本当に凄い。
何を買うでもなく、ただ歩いた。大きな家電量販店。何階建てか分からないデパート。路地に並ぶ小さな飲食店。全部が新鮮で、全部が眩しくて、気づいたら口元が緩んでいた。
……男らしくなりたいとか、変わりたいとか、そういう事は一旦置いておいて。純粋に、ここに来てよかったと思った。
問題が起きたのは、駅前の広場でスマホの地図を見ていた時だった。
「ねえねえ、一人? 今ヒマ?」
声をかけてきたのは、大学生くらいの男が二人。チャラい。服装も髪型も、地元では見なかったタイプだ。都会ではこういうのが流行っているのかもしれない。
「え……あ、いえ、大丈夫です」
「えー、そんなこと言わないでさ。可愛いね、モデルとかやってる?」
またか。
またこのパターンだ。
「あの、僕──」
「見た感じこの辺詳しくないっしょ? いい店知ってるからさ、案内してあげるよ」
僕、と言ったのに全く引っかからなかった。一人称で判断してもらえないのは慣れている。慣れたくなかったけど、慣れている。
「本当に大丈夫なので……」
「まあまあ、そう言わないでさ」
腕を掴まれた。
──ダメだ。こういう時、僕は強く言えない。嫌だと思っているのに、体が固まって声が出ない。「男らしくなりたい」って、こういう場面でちゃんと断れる事も含めてのはずなのに。
「あ、ごめん。その子、俺の連れなんだけど」
横から、さらっと声が入ってきた。
見知らぬ男の人が、自然な動きで僕とナンパ男の間に入ってくる。さっぱりした短髪に、日焼けした肌。ラフなTシャツ姿だけど、背が高くてがっしりしていて、隣に立たれるとナンパ男二人が急にしょぼく見えた。
「えっ、連れ……?」
「うん。待ち合わせしてたんだよね?」
僕に視線を向けてくる。目が「話を合わせろ」と言っていた。
「あ……う、うん。待ってた」
「ごめんな、遅れて──じゃ、行こっか」
僕の肩にぽんと手を置いて、さっさと歩き出す。ナンパ男二人は何か言いたそうにしていたけど、結局何も言わずに去っていった。
……助かった。
「大丈夫だった?」
少し歩いたところで、その人が振り返った。爽やかな笑顔だった。これが本当のシティボーイという奴に違いない。
「は、はい。ありがとうございます……」
「ああいうの、新宿だと多いから気をつけた方がいいよ。特に君みたいな──えっと、可愛い子は」
……君みたいな可愛い子。
この人も、僕を女の子だと思っている。
訂正すべきだと頭では分かっている。分かっているんだけど、助けてもらった直後に「実は男です」と言うのはなんというか……タイミングが。
「俺、杉崎直斗。この春から大学生なんだ。君は?」
「蘇羽鷹、星那です。僕も今年から大学生で……」
「お、同い年じゃん。大学どこ?」
大学名を言うと、杉崎さんが目を丸くした。
「マジで? 俺もそこなんだけど」
「えっ、本当ですか」
「うわ、すごい偶然。じゃあ入学式で会うかもね」
杉崎さんはからっと笑った。変に気取らない、風通しのいい笑い方だった。
「引っ越してきたばっかり? 一人暮らし?」
「シェアハウスです。親戚がやってるところに……」
「へー、シェアハウスか。それはそれで楽しそうだな」
楽しいかどうかは置いておいて、退屈ではないのは確かだ。毎日、心臓に悪いけど。
「良かったら連絡先、交換しない? 同じ大学なら何かと助けあえるだろうし」
「あ、はい。ぜひ」
スマホを取り出して連絡先を交換する。杉崎さんの対応は最初から最後まで自然体で、変に距離を詰めてこない。ナンパ男とは根本的に何かが違う。
……でも、この人も僕を女の子だと思ってるんだよな。
言わなきゃ。今言わなきゃ、後で気まずくなる。
「あの、杉崎さん」
「直斗でいいよ」
「じゃあ直斗。あのさ、僕──」
スマホが鳴った。画面に表示されたのは『莉々華さん』の文字と、怒涛のメッセージ。
『星那ちゃん大丈夫?』
『迷子になってない?』
『お腹空いてない?』
『帰りにプリン買ってきて?』
……最後のは普通に頼み事じゃないですか。
「彼氏?」
直斗が画面をちらっと見て聞いてきた。
「いえ、同居人です」
「へー」
何か言いたそうな顔をしたけど、それ以上は聞いてこなかった。
「じゃあ俺、そろそろ行くわ。入学式で会おうな、蘇羽鷹」
「うん。今日は本当にありがとう」
「いいって。──あ、一人で帰れる? 駅まで送ろうか?」
「大丈夫です。方向音痴じゃないので」
「はは、しっかりしてんな」
直斗は手を振って、人混みの中に消えていった。
……結局、男だって言えなかった。
きっと、入学式で気づくだろう。その時のリアクションを想像すると、ちょっとだけ申し訳ない気持ちになった。
心の中で謝ります。本当にごめんなさい。




