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第6話 ラッキーとは言うまいね

 風呂から上がって髪を乾かし、部屋に戻ろうと廊下を歩いていた時だった。


「──あ、同じ匂いがする~」


 背後から、ふわっと抱きしめられた。


「り、莉々華さっ──!?」


 莉々華さんだった。柔らかい感触が背中に押し付けられて、頭の中が真っ白になる。


「えへへ、星那ちゃんと私、お揃いだね」


 顔のすぐ横で、莉々華さんの嬉しそうな囁きが聞こえる。近い。近すぎる。耳に息がかかっているんですけど。


「あの、離れて、もらえると……!」

「あ、ごめんね? つい嬉しくて」


 つい、で人を背後から抱きしめないでほしい。それで恋に落ちる人だって沢山いるんだから。ただでさえ莉々華さんはめちゃくちゃ綺麗なんだから。


 ……莉々華さん、謝ったのに全然離れてくれないんですけど。


「あの、莉々華さん……?」

「ねえ星那ちゃん、まだ眠くない? よかったらちょっとお話しない?」


 背中にくっついたまま、莉々華さんが耳元で囁く。断れる雰囲気じゃなかった。断れる性格でもなかった。そして冷静に考えれば、断る理由もなかった。これから同じ場所に住むんだから、早く仲良くなるに越したことはない。


 気がつけば、リビングのソファに二人で座っていた。


「はい、ホットミルク」

「あ、ありがとうございます」


 莉々華さんが淹れてくれたホットミルクを両手で包む。じんわりと温かい。


「どうだった、初日?」

「……正直、めちゃくちゃ疲れました」

「あはは、だよね。ごめんね、テンション高くて」

「いえ、楽しかったです。本当に」


 お世辞じゃなかった。疲れたのは事実だけど、同じくらい楽しかったのも事実だ。莉々華さんがいなかったら僕はたぶんもっとオロオロしていたと思う。こうやってさりげなく気を配ってくれる人がいるだけで、知らない場所でも何とかやれそうな気がしてくるんだ。


「……よかった」


 莉々華さんはマグカップに口をつけながら、ふっと笑った。パーティの時のテンションとは違う、静かな笑顔だった。


「星那ちゃんがいい子で安心した。実はね、私もちょっと緊張してたんだ。新しい人が来るって聞いて」

「莉々華さんが緊張ですか? 全然そうは見えなかったですけど……」

「してたよ〜。でも星那ちゃんの顔見たら全部吹っ飛んじゃった」


 ……それは僕の顔が女っぽいからですか、とは聞かないでおいた。

 だって、絶対そうだから。莉々華さんの僕への距離感は、完全に同性に向けるものだ。


「なんか変な家だって思ったでしょ?」

「……ちょっとだけ」

「ちょっとだけ?」

「……結構」


 莉々華さんがくすくすと笑う。


「でもね、居心地はいいと思う──少なくとも私はそう思ってる」


 その言葉に、嘘はなさそうだった。

 ホットミルクを一口飲む。甘くて、温かくて、どこか懐かしい味がした。


「……僕もそう思います」

「ん?」

「居心地、いいです。ここ」


 莉々華さんは一瞬きょとんとして、それからふわっと顔をほころばせた。


「……そっか。えへへ」


 それから、僕たちは色々なことを話し合った。

 莉々華さんは二十四歳で、総合病院で看護師をしていること。澄夏さんとは同い年で、このシェアハウスではもう三年目になること。琴は高校生の頃からここに住んでいること。僕の地元の話。東京で行っておくべき場所の話。洗濯機の使い方。ゴミ出しの曜日。


 すっかり話し込んでしまい、時計を見るともう日付が変わりそうだった。


「そろそろ寝よっか。明日も忙しそうだしね」

「はい。──おやすみなさい、莉々華さん」

「おやすみ、星那ちゃん」


 僕は空になったマグカップを流しに置いて、二階への階段を上った。部屋に入りベッドに倒れこむ。初めてのベッドだけど、不思議と熟睡できる気がした。



 ──何か、おかしい。

 それが、意識が浮上した時の最初の感覚だった。


 まだ目は開いていない。身体は布団の中で、頭はぼんやりとしている。昨日の疲れが残っているのか、瞼が重い。


 でも、何かが引っかかる。

 ……気配だ。

 すぐ近くに、誰かがいる。


 息遣いが聞こえる。静かで、規則正しくて、確実に近い。枕元の辺りから。


 ──まさか、泥棒?

 いやいや、シェアハウスで泥棒はさすがにない。じゃあ何だ。何がいる。

 恐る恐る、薄目を開けた。


「……っ!!!」


 ……琴の顔があった。

 至近距離に。


 息がかかるくらいの距離で、琴がじっと僕の顔を覗き込んでいた。重たい姫カットの隙間から覗く瞳は真っ直ぐに僕を見つめていて、その表情は──なんというか、美術館で絵画を鑑賞しているような真剣さだった。


「おはようございます、お姉さま」


 僕は反射的に飛び起きた。布団を盾のように胸の前に抱える。心臓がバクバクいっている。昨日の夜に続いて、今日の朝もこれか。


「こ、琴……!? なんで僕の部屋に……!」

「起こしに参りました」

「起こしに来たなら起こしてよ!?」

「……はい」


 琴は少しだけ目を伏せた。


「起こそうと思ったのですが、あまりにも安らかな寝顔でしたので。つい」


 つい。

 昨日の夜も同じ言葉を聞いた気がする。この家の住人は「つい」で色々やりすぎだ。


「どれくらいいたの!?」

「三十分ほど」

「長いよ!?」


 三十分も寝顔を見つめられていたのか。僕はその間、何も知らずにぐうぐう寝ていたのか。背筋がぞわっとした。いや、怖いとかじゃなくて、恥ずかしいというか──寝顔って、見られたくないじゃないですか。


「お姉さまの寝顔はとても綺麗でした。まるで──」

「感想はいいから!」


 琴は不思議そうに首を傾げている。悪いと思っていないのが一番怖い。


「あの、琴。僕の部屋に勝手に入るのは──」


 琴はすっとドアを指さした。


「鍵をかけていらっしゃらなかったので」


 かけ忘れた僕が悪いみたいな言い方をされた。いや、確かにかけ忘れたのは僕だけど。


「今度から鍵、かけるね」

「……残念です」


 本気で残念そうな顔をしないでほしい。

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