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Myosotis 〜 過去は、まだ引き金を握っている 〜  作者: Bpch


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9

部屋に戻ると、小林拓也はすでにホワイトボードを前に資料をめくっている。

スーツの上着は脱ぎ、シャツ一枚で、ネクタイもゆるく締めているだけだ。


「お、戻ったか。お疲れさん」


資料から顔を上げずに、小林が声をかける。


「どうだった?全員そろったら軽く共有するが、その前に気になることがあれば聞いとくぞ。今のうちなら愚痴でも聞いてやる」


飄々としているが、この男は叩き上げの刑事だ。

巡査から警部補まで上がり、いくつもの署を渡り歩き、大型事件を何件も解決してきた現場主義者。

見た目はどう見ても刑事らしくないのに、検挙率だけは捜査一課でも群を抜いている。


だからこそ、光は自分が小林班に配属されたことに一切の不満がなかった。


小林みたいな人間だから、光もこの班に居られた。

将来を約束されたキャリア組でありながら、昇進コースを捨てて現場にしがみつく異端者など。


「いくつか気になる点はあります。ただ、現時点では動機に直結する材料ではありません」


警察手帳を開きながら、こめかみの髪を指でかいた。


――音無の件だけは伏せた。


隠したいわけじゃない。

ただ、証拠がない。私情に近すぎる。


「全員戻ってから共有します。その方が動きやすいかと」


「了解」


小林は頷いた。


少し迷ってから、光は口を開く。


「……主任。どうして俺を二丁目に?」


「決まってんだろ」


即答だった。


小林は資料を丸め、光の顔を指した。


「その顔と体だよ。ボロ着て立ってるだけでも、あそこじゃ勝手に寄ってくる」


にやりと笑う。


「普通の刑事じゃ聞けねえことまで、向こうから勝手に喋ってくれるんだよ。

顔も才能のうちだ。現場じゃ使えるもん全部使う。覚えとけ、エリート」


……やっぱりそういう理由か。


心の中でぼやきながら、光は手元の資料をあらためて確認し、話を本筋に戻した。


「主任の方はどうでした?大場譲治の足取り、ホテルの出入り、会社の競合とか」


「それは全員そろってからだな」


小林は続けた。


「ただ、警備会社には佐藤と行ってきた。

表向きは問題なし。規模もでかいし、顧客も一流どころだ。

競合はいるが……まだお互い殺し合うようなレベルじゃない。

ましてや狙撃まで使うような段階じゃない、ってことだ」


言葉をわざと途中で切る。


試されているのがわかった。


光は視線を上げる。


「……だからこそ、不自然ですね」


小林の口の端が上がる。


「続けろ」


「普通の商売争いなら狙撃は使いません。新宿であれは目立ちすぎる。

大場には職業軍人の動きがあります。自衛隊というより、実戦経験者の動きです。

会議で説明します」


小林は満足げに頷いた。


「だいぶ落ち着いたな。あの音無と一緒に回って、頭が冷えたか?」


「なんでそこであいつの名前出るんですか!」


「朝来たとき、何百万円も貸した金が返ってこないみたいな顔してたぞ。しかも指ケガしてるし。

部下の私生活に口出しする気はないがな。お前、感情全部顔に出るタイプだ」


小林が光の手を軽く叩く。


「そろそろ、冷静に助言してくれる相手を作れ。

感情のコントロールとか、キャリア設計とか、ちゃんと面倒見てくれるやつをな。

人事異動も近いぞ」


「……その話は後で。主任、音無が来るって知ってました?」


「知らん。平沢管理官から『補助が入る』って連絡だけだ。詮索するな、通常業務でいいってな」


小林はあっさり答えた。


管理官が直々に……?


光の頭が回り始める。だがすぐに否定した。いや、管理官クラスで口を出せる話じゃない。


結局、管理官は伝言役に過ぎない。公安は音無を使っている。では刑事側は――?


音無を何として見ている?


「…街中で狙撃って時点で異常です。でも今回は暗殺というより……宣言に近い。

誰かがこの方法で公安と刑事を同じ場所に集めて、何かを暴かせようとしている」


そして、それはきっと誰も笑えない類の真相だ。

もしかすると、父のこととも無関係じゃない。


井上翔太の危うい笑みを思い出した。


「直感は悪くない。だが証明できるまでは地道にやる」


小林は時計を見る。


「山島に警備会社の一年分の資金洗わせてる。海外口座、不明資金。突破口はそこだろう」


光はホワイトボードを見つめた。線と矢印だらけの分析図。


「……厄介事件ですね。推理小説なら読者逃げますよ」


「当たり前だろ!まさか捜査一課のドキュメンタリーでも撮る気か?

第一話『正義の出撃!』、監視カメラの前で『今の誰?』『巻き戻せ』『見間違いでした』ってつぶやくだけの映像、誰が観るんだ。

だいたい、刑事ドラマ好きな警官なんているか?俺は観ないね。

面白い話は誰かに聞かせるためのもんだ。

退屈な事件こそ、俺らの仕事だ。」


小林が吹き出す。


光も思わず笑った。


少し間を置き、小林が言った。


「ただ今回、ちょっと現実離れしてる」


「は?」


「狙撃銃、消えた薬莢、海外絡みっぽい殺し屋。そして」


意味ありげに笑う。


「突然現れた、お前の音無」


「主任、音無音無って……」


「お前、あいつのことで朝から機嫌最悪だった。

まさか男が好きだったとはな。男だよな?

朝、二丁目に行かせたのは正解だったな」


「違います!いや違わないけど!

中学の時の話です。もうとっくに終わってます。

……っていうか主任、今の話、事件と関係ないですよね」


「関係ないな。でもまだ誰も戻ってないし、やることもないから雑談してるだけだ。

それに、とっくに終わった?本当かよ。

お前の顔、未練たっぷりな上に、どこか怒ってるようにも見えるぞ。

ずいぶん器用な顔だ」


「……勘弁してください」


その時、スマートフォンが震えた。


知らない番号。だが、送り主はわかる。


《今日は少し遅くなります。

先に帰っていただいて大丈夫です。

住所は覚えていますので歩いて戻ります》


歩いて?千代田から世田谷まで?

電車乗れよ、馬鹿。

……いや。

今あいつ、一文無しなんだった。


返信しようとして、指が止まる。


代わりに連絡先画面を開いた。名前入力欄が点滅する。


柊 音無。


入力して――


止まった。


最初の一文字を消す。


残った名前。


――音無。


まるで後ろめたいことでもしているように画面を閉じ、ポケットへ突っ込む。


雨が降り続いている。

しとしとと、肌にまとわりつくような雨だった。


光はぼんやりと空を見上げる。


そして、明日は晴れるといいと、心のどこかで思っていた。


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