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部屋に戻ると、小林拓也はすでにホワイトボードを前に資料をめくっている。
スーツの上着は脱ぎ、シャツ一枚で、ネクタイもゆるく締めているだけだ。
「お、戻ったか。お疲れさん」
資料から顔を上げずに、小林が声をかける。
「どうだった?全員そろったら軽く共有するが、その前に気になることがあれば聞いとくぞ。今のうちなら愚痴でも聞いてやる」
飄々としているが、この男は叩き上げの刑事だ。
巡査から警部補まで上がり、いくつもの署を渡り歩き、大型事件を何件も解決してきた現場主義者。
見た目はどう見ても刑事らしくないのに、検挙率だけは捜査一課でも群を抜いている。
だからこそ、光は自分が小林班に配属されたことに一切の不満がなかった。
小林みたいな人間だから、光もこの班に居られた。
将来を約束されたキャリア組でありながら、昇進コースを捨てて現場にしがみつく異端者など。
「いくつか気になる点はあります。ただ、現時点では動機に直結する材料ではありません」
警察手帳を開きながら、こめかみの髪を指でかいた。
――音無の件だけは伏せた。
隠したいわけじゃない。
ただ、証拠がない。私情に近すぎる。
「全員戻ってから共有します。その方が動きやすいかと」
「了解」
小林は頷いた。
少し迷ってから、光は口を開く。
「……主任。どうして俺を二丁目に?」
「決まってんだろ」
即答だった。
小林は資料を丸め、光の顔を指した。
「その顔と体だよ。ボロ着て立ってるだけでも、あそこじゃ勝手に寄ってくる」
にやりと笑う。
「普通の刑事じゃ聞けねえことまで、向こうから勝手に喋ってくれるんだよ。
顔も才能のうちだ。現場じゃ使えるもん全部使う。覚えとけ、エリート」
……やっぱりそういう理由か。
心の中でぼやきながら、光は手元の資料をあらためて確認し、話を本筋に戻した。
「主任の方はどうでした?大場譲治の足取り、ホテルの出入り、会社の競合とか」
「それは全員そろってからだな」
小林は続けた。
「ただ、警備会社には佐藤と行ってきた。
表向きは問題なし。規模もでかいし、顧客も一流どころだ。
競合はいるが……まだお互い殺し合うようなレベルじゃない。
ましてや狙撃まで使うような段階じゃない、ってことだ」
言葉をわざと途中で切る。
試されているのがわかった。
光は視線を上げる。
「……だからこそ、不自然ですね」
小林の口の端が上がる。
「続けろ」
「普通の商売争いなら狙撃は使いません。新宿であれは目立ちすぎる。
大場には職業軍人の動きがあります。自衛隊というより、実戦経験者の動きです。
会議で説明します」
小林は満足げに頷いた。
「だいぶ落ち着いたな。あの音無と一緒に回って、頭が冷えたか?」
「なんでそこであいつの名前出るんですか!」
「朝来たとき、何百万円も貸した金が返ってこないみたいな顔してたぞ。しかも指ケガしてるし。
部下の私生活に口出しする気はないがな。お前、感情全部顔に出るタイプだ」
小林が光の手を軽く叩く。
「そろそろ、冷静に助言してくれる相手を作れ。
感情のコントロールとか、キャリア設計とか、ちゃんと面倒見てくれるやつをな。
人事異動も近いぞ」
「……その話は後で。主任、音無が来るって知ってました?」
「知らん。平沢管理官から『補助が入る』って連絡だけだ。詮索するな、通常業務でいいってな」
小林はあっさり答えた。
管理官が直々に……?
光の頭が回り始める。だがすぐに否定した。いや、管理官クラスで口を出せる話じゃない。
結局、管理官は伝言役に過ぎない。公安は音無を使っている。では刑事側は――?
音無を何として見ている?
「…街中で狙撃って時点で異常です。でも今回は暗殺というより……宣言に近い。
誰かがこの方法で公安と刑事を同じ場所に集めて、何かを暴かせようとしている」
そして、それはきっと誰も笑えない類の真相だ。
もしかすると、父のこととも無関係じゃない。
井上翔太の危うい笑みを思い出した。
「直感は悪くない。だが証明できるまでは地道にやる」
小林は時計を見る。
「山島に警備会社の一年分の資金洗わせてる。海外口座、不明資金。突破口はそこだろう」
光はホワイトボードを見つめた。線と矢印だらけの分析図。
「……厄介事件ですね。推理小説なら読者逃げますよ」
「当たり前だろ!まさか捜査一課のドキュメンタリーでも撮る気か?
第一話『正義の出撃!』、監視カメラの前で『今の誰?』『巻き戻せ』『見間違いでした』ってつぶやくだけの映像、誰が観るんだ。
だいたい、刑事ドラマ好きな警官なんているか?俺は観ないね。
面白い話は誰かに聞かせるためのもんだ。
退屈な事件こそ、俺らの仕事だ。」
小林が吹き出す。
光も思わず笑った。
少し間を置き、小林が言った。
「ただ今回、ちょっと現実離れしてる」
「は?」
「狙撃銃、消えた薬莢、海外絡みっぽい殺し屋。そして」
意味ありげに笑う。
「突然現れた、お前の音無」
「主任、音無音無って……」
「お前、あいつのことで朝から機嫌最悪だった。
まさか男が好きだったとはな。男だよな?
朝、二丁目に行かせたのは正解だったな」
「違います!いや違わないけど!
中学の時の話です。もうとっくに終わってます。
……っていうか主任、今の話、事件と関係ないですよね」
「関係ないな。でもまだ誰も戻ってないし、やることもないから雑談してるだけだ。
それに、とっくに終わった?本当かよ。
お前の顔、未練たっぷりな上に、どこか怒ってるようにも見えるぞ。
ずいぶん器用な顔だ」
「……勘弁してください」
その時、スマートフォンが震えた。
知らない番号。だが、送り主はわかる。
《今日は少し遅くなります。
先に帰っていただいて大丈夫です。
住所は覚えていますので歩いて戻ります》
歩いて?千代田から世田谷まで?
電車乗れよ、馬鹿。
……いや。
今あいつ、一文無しなんだった。
返信しようとして、指が止まる。
代わりに連絡先画面を開いた。名前入力欄が点滅する。
柊 音無。
入力して――
止まった。
最初の一文字を消す。
残った名前。
――音無。
まるで後ろめたいことでもしているように画面を閉じ、ポケットへ突っ込む。
雨が降り続いている。
しとしとと、肌にまとわりつくような雨だった。
光はぼんやりと空を見上げる。
そして、明日は晴れるといいと、心のどこかで思っていた。




