10
警察庁を出る頃には、雨はすっかり上がっていた。
雨上がりの湿った空気がまだ街に残っていた。
相変わらず、柊音無はまるで体の一部のようにヴァイオリンケースを背負い、そのショルダーストラップが肩に重く食い込んでいる。
おまけに、首には電子首輪まで装着したままだ。
路肩に停まっている黒のトヨタを見つける。
そして、車にもたれかかり、黒いジャケットのポケットに両手を突っ込んだ泉上光の姿を認めた。
音無の表情が驚きと喜びでぱっと輝き、小走りで光の前まで駆け寄ってくる。
「待っていてくださったんですか?
すみません、会議が長引いてしまって」
光は曖昧な生返事をすると、視線を音無の背中のヴァイオリンケースへ落とした。
「乗れ」
その一言に、音無の口元がいっそう綻ぶ。
もしここでもう少し愛想を見せれば、こいつは当たり前みたいに手を握ってくるんだろうな――と、光はふと思う。
……いや、それももう過去の話か。
光はマイカー通勤を好むタイプだ。
東京の朝夕のラッシュは悪夢そのものだが、それでも彼は、自分の行動をすべて自分で掌握していたかった。
ルートの選択。
時間の見極め。
周囲の状況の直接確認。
ハンドルを握っている間だけは、すべてを支配しているような感覚を得られるのだ。
音無は助手席にきちんと座り、ぎこちなくシートベルトを引き出してカチリと留めた。
黒いベルトが胸元を斜めに横切り、体をシートへ強く押しつける。
その瞬間、わずかに表情が曇った。
だがすぐ、何事もなかったように窓の外へ視線を逃がす。
「マンションへ向かう道じゃないですね」
「ああ。ちょっと寄りたい場所がある」
「どこです?」
ハンドルを指先でトントンと叩きながら、光は微妙な表情を浮かべた。
「……大場譲治の件だ。
SATが弾道と現場の状況から、いくつか狙撃可能ポイントを割り出してる。
連中の仕事だが、結論を聞く前に、お前の意見も聞いておきたくてな」
「なぜ、僕に?」
「は?その質問はトランクの物騒なヴァイオリンケースに聞けよ」
「いいえ、そうではなく。
刑事として、僕が何か関与していると疑っているのか。
それとも、ご自身の検証や反証のために、僕の意見が必要なのかと伺っているんです」
「お前を疑う?大場譲治が殺られた時、てめぇは俺のボロアパートで、俺にぶん殴られて……いや、待って……」
そこまで口にして、光の表情がはたと固まる。
「……アリバイか?」
光の声が低くなる。
「親父の事件と同じ手口だ。そりゃ真っ先にお前が疑われる。
でも、お前はその前に俺のところへ来た。しかも一晩中だ。」
拳の傷。マンションの監視カメラ。殴った跡。
全部残る。
「最初からこれが狙いだったのか。」
そう言いながら、光はハンドルを切った。
車が車線を変更し、滑らかに路肩へ寄っていく。
ハザードランプだけを点滅させ、車内灯は点けない。
時折、対向車のヘッドライトが車内を横切る。
そのたび、闇に浮かぶ二人の横顔が一瞬だけ照らし出され、すぐにまた暗闇へ沈んでいった。
「大場譲治を殺ったのがお前だとは、これっぽっちも疑っちゃいねぇ。
……だが、見事にしてやられたよ。
まったく、良い手札を揃えやがるな。柊音無」
「やはり、光さんが冷静になれば頭の回転は素晴らしく速い。相変わらず勘がいい」
音無はどこか感慨深げに頷いた。
「お世辞はいい。
要するに、誰かがMyosotisの手口を真似て、警察の目をお前に向けさせ、この殺しの罪を着せようとした。
そして、そこまで読めるなら、動いたのはStyxの殺し屋だ。
お前は奴らより先に手を打って、自分の身に保険をかけると同時に、俺へシグナルを送った。……そういうことか?」
「百パーセント断言はできませんが、少なくとも僕はそう考えています」
そう言って頷くと、音無はシートベルトの位置を直そうとした。
少しでも束縛感を和らげたかったのかもしれない。
だが光は完全に推理へ意識を持っていかれており、そんな仕草には気づきもしない。
「だが、なぜだ?
お前が今、組織を抜けた側だからか?」
「素晴らしい着眼点です。ですが、少し考えてみてください。
僕を消したいだけなら、もっと簡単な方法があります。近接戦闘向きの殺し屋を差し向ければ済む話です。」
車が再び車線へ戻る。
「確かにな。
まさか法律でお前を裁こうってわけでもあるまい。冗談だろ、そんなの」
そこまで言って、光は思わず吹き出しかけた。
音無もまた、小さく笑みをこぼす。
「Styxには人を罰する方法など、いくらでもあります。
ただ、法律という選択肢だけは存在しません。
あそこは、法律とは無縁の世界ですから」
その言葉に、光は微かな冷気を覚えた。
バックミラーへ視線を走らせる。
だが音無は、わずかに目を逸らした。
「つまり奴らの目的は、お前だけじゃない。
大場譲治を殺した本当の目的は別にある。
結局お前も、ただの殺し屋に過ぎない。
Styxみたいな組織からすれば、殺し屋なんて貴重ではあっても、所詮は一つの資源だ」
「その通りですが、代わりを用意するのは簡単ではないと思います」
自慢めいた言葉だったが、その声に誇らしさはまるでない。
ただ事実を述べているだけの、淡々とした口調だった。
「殺すよりも、混乱を生み出して追い詰め、僕が自発的に戻る状況を作りたいのでしょう」
「SSS級って、そんなにすごいのか」
「すごいのでしょうね。
少なくとも東アジア圏で、Styx所属のSSS級狙撃手は、僕を含めて三人だけです」
その瞬間、まるで車のほうが驚いたみたいにグラリと揺れた。
――おいおい、このポンコツ。主人は警察官だぞ。もう少しシャキッと走れよ。
光は心の中で盛大に呆れた。




