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Myosotis 〜 過去は、まだ引き金を握っている 〜  作者: Bpch


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8

嫌がらせのように、結局雨は二人の上にも降り出した。


光は車で来ていなかった。

二人は一本の傘を差し、白く煙る雨の中を歩いていく。


傘を持つのはいつものように光だった。背が高いから――それだけの理由だ。


そのときだった。


シルバーのクラウンが静かに二人の前へと滑り込んできた。


運転席の窓が下がる。


井上翔太は二人を見やり、顎をしゃくった。


「――乗れ」


……そういうことか。


この余裕たっぷりの登場――答えは一つしかない。

結局、自分も音無も最初から尾行されていたんだ。

逃亡しようとしていないか見張っているのか。

それとも、どの程度信頼できるか見極めようってのか。


心の中で舌打ちしながらも、光は何食わぬ顔で助手席に乗り込んだ。


音無は当然のように後部座席へ乗り込んだ。


驚きも不満も見せない。

文句を言える立場ではないとでも思っているのか。


車内は冷房が効きすぎている。

雨音はガラスに遮られ、三人の沈黙ばかりが際立った。

音楽も流れていない。


井上はバックミラー越しに光を見て、ふっと笑った。


「怒ってる? ずっと尾行してた」


「別に。公安の尾行技術でも勉強させてもらおうと思って」


光の皮肉にも、井上は気にした様子を見せなかった。


音無みたいな存在を公安が野放しにするはずがない。

そんなことは最初から分かっている。


「それにしても、なんで毎回先輩なんですか。他に誰かいないんですか。後ろのこいつ、他の誰かに任せられないんですか」


「それ、本人の前でする話かな」


井上がわざとらしく困った顔で首をかしげた。


後部座席では、音無が何も言わずノートをめくっている。


午前中からずっと使っていたノートだ。


どうせそれも後で確認されるんだろう。

首輪にだって監視なり盗聴なりの機能はついているはずだ。


ここまで徹底して管理される状況を、あいつは受け入れている。


それが反省を示すためのものなのか、それとも別の理由があるのか。


ただ――本気で償おうとしているのだとしても。

それを素直に信じる気にはなれなかった。


車はやがて霞が関二丁目へ入った。


待機していた職員たちがすぐに駆け寄る。


音無は何も言わず車を降りた。


光は思わずその背中を目で追う。


少なくとも乱暴に扱われている様子はない。

そこでふと、バックミラー越しに井上の視線とぶつかった。


――見られた。


そう思った瞬間、光は無愛想に前を向く。


「ほら、降りろ」


「班長との面談までは、まだ少し時間があります」


「なるほど」


少し間を置いて、井上が言った。


「で。午前中、柊と回ってみて、何か掴めたか?」


「とぼけないでください。モニタリングしてたんでしょう。音無が言ってましたよ。首輪がずっと振動してたって」


「してないよ」


即答だった。


「振動は生体データの測定。心拍とか血圧とかね。録音機能はついてるけど、普段はそこまで広く拾わない。


キーワードを拾ったり、生体データに異常が出たりしたときだけ、周囲の音も全部記録するようになってる。 君たちのために、ちゃんとプライバシーは残してあるよ。」


「……」


「尾行は悪かった。でも理解してほしい。自由にはさせる。でも野放しにはしない。それがこっちのルールなんだよ」


雨雲は重く垂れ込めたままだ。


気づけば、光はまだ音無の傘を握ったままだった。


車内には送風音だけが響いている。


窓の外の空は、さっきよりもさらに暗くなっていた。


「最初の質問に戻りますけど。どうしていつも先輩が音無を担当してるんですか。今はあいつの監督役みたいな立場なんですか」


「そうだな。ずっと昔、柊音無はMyosotisという名義で、俺にいくつもの情報を流してきていた。

正直、最初はどうやって俺を見つけたのか不思議だったよ。俺が使っていたのは、公安内部でもごく限られた人間しか知らない最優先案件用の暗号回線だったからな。

しかも情報の渡し方は極めてプロフェッショナルで、痕跡らしい痕跡を何ひとつ残さなかった」


光は思わず息を詰めた。


——音無は二十三歳のとき、すでに自分にも接触してきていた。

同じMyosotisの名で、担当事件の手がかりを何度となく流し、おかげで実習中から結果を出せた。

地方実習を終えて捜査一課に配属されたのも、それがきっかけのひとつだ。

もっとも、それは本人の希望でもあったのだが。


だが、まさか井上にまで情報を送っていたとは。


「情報の質は抜群だった。ただ、どれも絶妙に核心は外していた。

だからStyx側にも気づかれなかったんだろうな。 それでも価値は十分だった。

東南アジアの薬物製造ライン、マネロン用のダミー会社、資金の流れ――。

あいつの情報で潰せた案件は少なくない」


井上は声を落とした。


「……そして、Styxに取り込まれているか、あるいは何らかの協力関係にある内部の人間」


光の目が見開かれる。

喉仏が上下した。


「……警視庁内部に?」


「それ以上は言えない」


井上は笑う。


「でも気づいてるだろ。なんで公安が大場譲治事件にここまで関わるのか。

組対が主導してもおかしくない案件だ、なのに動いてるのはお前たち捜査一課だろ」


そして軽く付け加えた。


「前の合同捜査本部、山葉課長直轄だったらしいな?」


光は唾を飲み込んだ。


井上は笑っていた。

どこか危うい期待を滲ませた笑みだった。


まるで名探偵だ。幾重にも積み重なった謎を解き明かし、ようやく最悪の真実へ辿り着こうとしている。


その先にあるのが救いか破滅かは関係ない。

蓋を開ける瞬間の高揚感だけは、どうしたって抗えないのだ。


光も事件を追う中で、似た感覚を覚えたことはある。


だが、それでも敵わない。


日がな一日、情報と数字を相手にしながら、真相へ至る最後の一歩を延々と引き延ばして楽しんでいるような連中――。


公安の人間というのは、そういう生き物だった。


いや、それより――。


「……おかしい」


「何が?」


「音無はスナイパーですよね。東南アジアの薬物製造ラインや、マネロン用のダミー会社の情報なんて、どうやって掴んだんです?」


光は、自分にも情報が流れていたことには触れなかった。

手札を見せる必要はない。

真相が見えるまでは、誰も信用しない。

そんな警戒心が、ようやく芽生え始めていた。


井上はハンドルから手を離し、こめかみを軽く叩く。


「それが俺も知りたい。向こうで任務についていた可能性はある。

でも情報分析や追跡は、本来スナイパーの専門じゃないからな。

本人は何も話さなかった」


——なるほど。


だから音無を俺のそばに置いたのか。


俺を使って、その答えを探るために。


「だからさ。もう少し優しくしてやれよ。せめて人前では普通にしてやれ」


「は?」


「お前、結構あいつのこと心配してるだろ。

傷つくようなこと言っときながら、俺に話すときはずっと『音無』って呼んでるしな」


「モニタリングしてないんじゃなかったんですか」


「してないよ。ただ、ああいうこと言われたときに、あいつの心拍数が跳ね上がったんだ。

今日の午前中で、あいつの心拍が明確に変化したのはあれだけだったな。

おまけに、お前の暴言までしっかり拾ってしまった」


井上は苦笑した。


「スナイパーってのはな、心拍制御が基本だ。

心拍と心拍のあいだで引き金を引く、なんて言われるくらいだからな。

柊はSSS級だ。そういうことに関しては、とっくに極めてるだろう」


井上は肩をすくめる。


「だから、お前に疑われて傷ついたのは本当だと思うぞ。

怒る気持ちはわかるが、ああいう人格攻撃は必要なかった」


「……」


「なんていうか、下世話な感じだったな。復讐劇っていうより恋人同士の喧嘩みたいだったな」


「ずいぶんあいつの肩を持つんですね」


「事実を言っただけだ」


「そんなに気になるなら、先輩が引き取ればいいでしょう。俺のところに置かないでください」


「勘違いするな、泉上」


井上の表情が変わる。


「俺はどうでもいいと思ってるから、中立でいられるだけだ。

だがお前は取り乱して、あれこれ感情的に詰め寄って、自分がみんなから置いていかれていることに気づいていない」


ドアを開けながら、井上は言った。


「落ち着いたら追いつけよ、警部」


光はドアを強く閉めた。


「……余計なお世話だ」

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