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Myosotis 〜 過去は、まだ引き金を握っている 〜  作者: Bpch


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7

手首の傷跡についてはまだ聞きたいことがあったが、柊音無はもうひどく疲れているように見えた。

これ以上追及するのも気が引ける。

二人とも、さっきまで炎天下に立ちっぱなしだったのだ。喉はからからで、体も重い。


自然と足は松屋へ向かった。


光が傘をたたむと、音無はいつものようにその後ろについた。


中学で出会った頃から、音無はいつも光の後ろを歩いていた。

ひとつ後ろを、当たり前のようについてくる。まるで影のように。


だが、十五歳の春、その関係は少しだけ形を変えた。


光は音無に告白した。


――もっとも、告白というよりは強引な宣言に近かったが。


「桜咲高校、俺と一緒に受けろ、柊!」


光の言葉は、静かな水面に落ちた石のように、音無の心に波紋を広げた。


黒いヴァイオリンケースを背負ったまま、音無は両手でストラップをぎゅっと握りしめていた。

顔は真っ赤だった。


やがて、音無は笑った。泣き出してしまいそうなほど嬉しそうに。


そして、こくりと頷く。


「……はい。約束します」


それからは、音無が光の隣を歩くことも増えた。


もっとも、相変わらずあのヴァイオリンケースは背負ったままだった。歩くたびにケースの端が光の肩に当たる。

光は当時、それを音楽をやっている人間特有のこだわりか何かだと思っていた。「僕はヴァイオリン弾きます」とでも言いたげな、そんな自己主張なのだろう、と。


結局、どの部活にも入らなかったというのに。


――今思えば、あれは何かの前触れだったのかもしれない。


嫌な考えを振り払うように、光は券売機の前に立った。


音無も当然のようにその隣に並ぶ。


光が手早く牛丼を注文すると、音無も続いて同じセットを選んだ。


そして、期待に満ちた目で光を見る。


「はあ?」


「お願いします」


「金はどうした?」


「お金、ないんです。監視措置の一環でして」


光は「まったく」と呟きながら、自分の分と一緒に音無の分も支払った。


「後で返せよ」と言おうかとも思ったが、父親を殺した相手に金を返せと言うのも、なんだか変な話だった。


結局、その言葉は飲み込む。


二人は席に着いた。


光は前のめりになって肘をテーブルにつき、手元のレシートを指先でもてあそんでいた。

一方の音無は、こんな何もすることのない時間でも背筋をぴんと伸ばしている。


十四の頃からずっとそうだ。

昔は、ただ真面目なやつなんだと思っていた。

だが、今ならわかる。


おそらく、こいつの過去と関係している。


まるで訓練された兵士みたいじゃないか。


音無はまた首輪に触れ、眉をひそめた。

本当に不快そうだった。吐き気か。それとも精神的な嫌悪感か。あるいは別の何かか。


そこまで考えて、光はまだこいつを気にかけている自分に腹が立った。


自分は警察で、音無は殺し屋だ。光はもう一度、自分にそう言い聞かせた。


「……光さんが本当に捜査一課に入るとは思いませんでした」


「どういう意味だ」


「だって、光さんはキャリア組でしょう。キャリア組の人間がずっと現場に残るなんて、想像がつかなくて。所轄で研修されていた頃に、僕が連絡したのを覚えていますか」


「覚えてるよ。パソコンがハッキングされたかと思った。 よく俺を見つけられたな。ずっと俺のことをこっそり見てたのか」


「……まあ、そうですね。ほかに連絡できる相手もいませんでしたから。公安はあくまでプランB。本命は光さんです」


「口がうまいな。でも、当時の俺はMyosotisがお前だとは知らなかった。通報してたらどうするつもりだったんだ」


「そのための対処案も用意していました。大人しく捕まるつもりはありませんでした。

でも、光さんならそうしないと信じていました。

光さんは、お父さんの事件を追うために警察になった。

上を目指すための手がかりになるなら、たとえ偽物でも自分で確かめずにはいられない。

あの頃の光さんなら、きっとそうしたでしょう」


「だったら最初から言えばよかっただろ。『僕は柊音無だ。お前の父親を殺した』ってな」


「わざわざ僕が言わなくても、心当たりはあったでしょう。

光さんのお父さんを殺せと命じたのは、僕じゃない。Styxです」


音無は少しだけ背筋を伸ばした。


「でも、弁解するつもりはありません。引き金を引いたのは僕です。それだけは絶対に否定しません」


「だから聞いてるんだ。誰がお前にその命令を下したんだ」


音無は答えなかった。


店内は静かだった。


箸が器に触れる音だけが、かすかに響いている。


光は音無をじっと見つめた。


だが音無はその問いには答えず、まるで話を切り替えるように口を開く。


「ずっと光さんの動向は追っていましたが……正直、光さんがキャリアになるとは思いませんでした。 高校を出たら、そのまま警察になるものだと」


「はあ?」


「だって、光さんはせっかちでしょう。十四のときの借り物競走だって、僕の手を引いて走り出したじゃないですか。どんなお題かと思ったら、『ほしいもの』ですよ。

今思い返しても、よくあんなことができましたね」


光は音無から視線を逸らした。


「……違う。十四の俺と十六の俺は同じじゃない。そもそも、俺は警察官になるつもりなんてなかった。桜咲に入った頃は理系に進みたかったんだ。お前も知ってるだろ」


そこで言葉を切る。


「それが文学に変わって、警察になって、どうしても捜査一課を目指さなきゃならなくなった」


光はまっすぐ音無を見据えた。


「――親父が死んだからだ。

お前はStyxの命令で親父をWA2000で撃った。」


「……」


「俺たちは今、その話をしてるんだ。なのにお前は、あの手この手で話を逸らそうとする」


音無はうつむく。

「……ごめんなさい」


「そうやって誤魔化すのが気に入らねえんだよ」


音無はびくりと肩を震わせ、さらに深くうつむいた。


重苦しい沈黙が二人の間に落ちた。


ちょうどそのとき、呼び出し音が鳴る。


音無ははっとしたように立ち上がり、料理を受け取りに行こうとした。


「座ってろ」


光はそう言い捨てると、振り返りもせず受け取り口へ向かった。


握り締めた拳の関節から、また血が滲んでいた。

その血を見て、音無はそっと顔を背けた。


二人は無言で食事をした。


音無の食べる速さは相変わらずだった。学生の頃から何も変わっていない。

ほとんど噛まずに口へ運び、牛肉、サラダ、味噌汁――何を口にするかまで決まっているかのようだった。

味わうためではない。ただ栄養を補給するための食事。


そもそも、なぜこいつはあの頃、山吹中学に来たのか。

わざと自分に近づいたのか。親父の情報を探るために――。


いや、それは違う。

当時の自分は親父が何をしているのかも知らなかったし、音無に話したこともない。


気づけば、また刑事の悪い癖が顔を出していた。

小さな違和感を見つけると、そこから考えが止まらなくなる。


無意識のうちに、光も音無に張り合うように食べる速度を上げていた。

そんなことで張り合う意味なんてないのに。


昨夜の感情の揺れと、午前中ずっと怒りを押し殺していたせいだろうか。

光は思わず胃のあたりに手を当てた。


「どうかしましたか」


音無はすぐに気づいた。


「お前に関係ない」


「早食いしすぎましたか。それなら僕もゆっくり食べます。光さんも無理に急がなくていいんですよ」


自分の幼稚な対抗心を見抜かれ、光はかっと顔が熱くなる。


「……だから、お前には関係ないって言ってるだろ」


「光さん。僕みたいな奴のために無理をしないでください。現場の警察官は食事も睡眠も不規則で、ただでさえ胃を壊しやすいんですから」


音無は一度言葉を切った。


「それでも気が済まないなら、僕は公安に戻ります。もう光さんの前には現れません。それか、今夜帰ったら僕を殴ってください。それで気が済むなら」


顔には懇願の色が浮かんでいた。


「お願いです……どうか、自分を傷つけないでください」


その視線は光の指の関節へ移り、次いで手で押さえた胃のあたりへ落ちた。


緑の瞳に作った様子は欠片もない。

そこにあるのは、心配と痛みだけだった。


もしこれが演技なら、日本中の役者が廃業するしかない。


「まだ殴られたいのかよ。お前、本当にMなんだな。Myosotisなんて名前まで付けて。

お前に執着してたあいつも、そういうことをしてたのか。

十五の頃、俺と付き合いながら、そいつとも関係を続けてたってわけか」


言った瞬間、後悔した。

崖へ向かう馬を、自分でさらに走らせているようなものだった。

だが、もう止められなかった。


すべてを晒すくせに、肝心なことだけは隠す。

そんな音無の在り方が、光にはたまらなく腹立たしかった。


案の定、音無は目を見開いた。


「……ありません」


「は?」


音無の唇が震える。声もかすかに揺れていた。


「光さんと恋人だったあの二年間、僕は……そんな奴と、一度だって……」


「だったら、なんでそいつを殺したんだ」


「…………」


音無は光にすがるような目を向けた。


その目は今にも壊れてしまいそうだった。


だが、光はうつむいていた。


見ていない。いや、見たくなかった。

今のこいつの顔を。


店内に呼び出しのアナウンスが響く。


それでも二人の間の沈黙は崩れなかった。


九年ぶりに再会した恋人たちの間には、血の仇という深い溝が横たわっている。

手を伸ばしても届かないほどに。


音無は右手首の時計をぎゅっと握りしめた。

首輪が小さく震える。筋弛緩剤が体内へ送り込まれた。


左手がわずかに震え、やがて力なく垂れ下がる。

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