6
柊音無はその問いにすぐ答えようとはしなかった。
もったいぶっているわけではない。その目はどこまでも澄んでいた。
問いをどう誤魔化すかではなく、どうすれば筋道立てて、漏れなく説明できるか――そんなことを考えているようだった。
尋問される側とは思えないほど落ち着いていた。
むしろ、この場を支配しているのは音無の方に見える。
「他にもありますか?」
「二つ目だ。お前はずっとMyosotisとして情報を届けてくれた。
その情報のおかげで、いくつもの事件の捜査を進められた。
お前の手がかりがあったからこそ、捜査一課に異動できたんだ。
だから今も、お前を切り捨てずにいる。 少なくとも……」
自分の犯した罪を自覚していると信じたい――だが、それを口にしても意味はない。
光は音無から視線を逸らした。
この瞬間、見透かされているのはむしろ自分のほうなのではないか――そんな気がした。
声が低くなる。
「なぜ急に公安と接触した? 俺以外にも、誰かと繋がっているのか?」
「なるほど。どちらも重要な話ですね」
音無は頷き、指先で傘の柄を軽く叩く。
「でも、ここでは話せません。通り沿いです。
何を言っても誰かに聞かれて、話が漏れてしまいます。
特に二つ目の質問は、ここで話すには不適切です」
「じゃあ、最初の質問に答えろ」
「わかりました。簡単に言えば、TrigonotisはStyxとは無関係かもしれません。
一方で、大場譲治がStyxの人間である可能性は極めて高い。ただ、断定はできません」
「断定できない? 大場譲治の写真は見せたはずだ」
「Styxはあまりにも規模が大きいんです。いちいち顔を合わせてはいられないんですよ。 ですから、写真の人物に見覚えはありません。しかし…」
「しかし?」
「しかし、協力したことがないとは限りません。
任務のやり取りや書類で、接点はあったかもしれません。
ですから、彼と接触していたTrigonotisに話を聞きたいんです。
今日僕が同行を決めた理由の一つでもあります」
「協力した人中で、縛りに興味がある奴はいたか?」
音無はほんの一瞬だけ黙り込んだ。
今日二度目だ。
一度目は首輪の話のとき。そして今度、SMの話だった。
優しいお兄ちゃんという仮面にひびが入った。
その隙間から、本当の音無がほんの一瞬だけ顔を覗かせた。
ひどく嫌な予感が光の脳裏をよぎる。
「…いました。ですが…」
「その連中の中に、お前――Myosotisに執着していた奴はいなかったのか」
光は音無の「ですが」を遮った。
今は話を逸らされるわけにはいかない。
「……」
「嘘はつくな」
「…います」
音無は完全に息が抜けたように見えたが、体をさらに引き締めた。
「ですが、その男は大場譲治ではありません」
「なぜだ」
「……その男はもう死んでいます。九年前に」
九年前。また九年前だ。
父が死んだ年と同じ――。
豪雨の後の空には、一片の雲すらなかった。
両脇のビルだけが、二人の顔に影を落としていた。
光はふと、今さらのように気づいた。
音無が、あの黒いヴァイオリンケースを背負っていない。
いつも影のように寄り添っていたあのケース。
十四の頃に出会ってからずっと、音無の一部みたいなものだった。
今朝だって、光に手錠をかけられ車へ押し込まれながらも、音無はあのケースだけは公安へ持っていくと言って譲らなかった。
音無がケースを手放せないのか。それとも、ケースが音無を縛っているのか。
二つは表裏一体で、Myosotisという謎そのもののようだった。
今、音無の背中には何もない。
その手には黒い傘。
斜めに伸びた影を見ているうちに、光は妙な錯覚を覚えた。
――音無が握っているのは傘ではなく、銃なのではないかと。
「……その男は、どう死んだ」
「僕が殺しました。WA2000で」
やはりか。
これほど恐ろしいことを口にしながら、音無の表情は再び凪いでいた。
昨日、ヴァイオリンケースの秘密を光にさらけ出した時と同じだ。
自暴自棄にも見える。
それでいて、どこか相手に委ねているようでもあった。
まるで中身を暴かれるのを待つ箱のようだった。
言い訳をするつもりも、取り繕うつもりもない。
ただ自分をさらけ出し、相手の前に差し出している。
そして光は、不幸にもその相手に選ばれてしまった。
――本当に、ずるい男だ。
「九年前に死んだ男が大場譲治であるはずがないでしょう。
状況はさらに複雑になってきたようですが。正直、僕にも何がどうなっているのか分からないんです」
「……」
まだ何も繋がっていない。
それでも、背筋に冷たいものが走った。
光は思わず背筋を伸ばす。
「何か見えてきましたか、光さん」
音無は小首を傾げた。
「少なくとも最初の質問には、僕の知っている限りのことを話しました。
この情報で大場譲治がStyxの人間か、どの部署でどの役割か分かれば、僕も楽になります。
何か思い当たることがあれば、ぜひ教えてください。
公安に協力する意味にもなりますし、今までどおりの協力関係の延長です」
「……」
「まあ、名探偵・光さんの推理がまとまる前に、まず食事にしましょう」
「食事?」
光はそのあまりに飛躍した話題転換に面食らった。
「お腹空いていませんか?僕らまだ何も食べていませんよ。
昨夜は散々殴ったでしょう。僕も相当痛い目を見ましたし、お互い消耗しているはずです。
何か腹に入れておきましょう。 今夜もまた殴りたくなった時に備えて」
「馬鹿なことを……」
指の関節が少し痛み、光は思わず親指でさすった。
どういうわけか、音無が父親だけでなく、その男も殺したと聞いても、強い嫌悪感は湧かなかった。
胸に引っかかったのは、別のことだった。
相手がプロの殺し屋だと知っていたから、ある程度の覚悟ができていたのか。
それとも――音無に興味を持っていたその男が、すでに……
「……行こう」
光は考えるのをやめ、まず腹を満たすことにした。
これだけの情報では何も見えてこない。
午後には小林主任たちとも合流する。
捜査とは何度も往復し、一見関係のない手掛かりを追い続けるもの。
光は現場で二年ほど勤務し、この現実をよく知っていた。
「よかった」
音無はほっとしたように傘を片側にしまった。
「正直、僕もそろそろ限界です」
「限界だと?スナイパーなら、標的を待つために何時間も同じ場所に潜んで、ろくに飲み食いもしないのが当たり前なんじゃないのか」
「そうなのですが、なにせStyxはこんなものを僕に付けたりしませんからね」
音無は再び苛立たしげに、電子首輪をぐいと引っ張った。
「問題を起こさなくても、定期的に身体が動かなくなる薬を打たれるんです。筋弛緩剤か何かで。人体には無害だそうですが、殺人犯の身体なんて気にする価値もないんでしょう。」
光は足を止め、音無を見た。
「そこまでするのか」
「当然でしょう?
一緒に行動していて突然暴れたら、あなた、泉上光警部を殺してしまうかもしれません。
僕はStyxのMyosotis。SSS級のスナイパーで殺し屋です。前歴もあります。
光さんの父、泉上一警視正にも手をかけました」
音無の口から父親の話が出た瞬間、光の目尻がぴくりと引き攣った。
「それにしたって……人道的じゃないだろ。
お前は今、司法取引の対象みたいな立場じゃないのか。
そうじゃなかったとしても、最低限の人権くらい――」
音無は何も返さなかった。
この話を続けても意味がないと思っているようだった。
「だから聞いてるんだ。なぜわざわざ自分をこんな立場に追い込んだ?
俺の前に現れて殴られ、身体を制御される首輪。」
「僕は取り返しのつかないことをしました。罰せられるのは当然でしょう」
「だが、九年前の事件は未解決のままだ。
お前が身を隠していれば、Styxで十分やっていけたはずだ。
それとも、Styxにいられなくなったのか?
SSS級なんて呼ばれてる男が、組織でやっていけなくなるとは思えないがな」
音無は光を見た。
「…それで?」
「九年前、父が死んだあの日、何があった?
Styxはお前にどんな命令を下した?誰がやらせた? お前は今――」
――まさか、俺に償うためにここへ来たのか。
それ以外に説明がつかなかった。
「それは、今追っている大場譲治の件と関係があるんですか」
「あります。必ず関係している」
音無はようやく笑った。
今日初めて見せる、心からの笑みだった。
その笑みに、光の心臓がほんの一瞬だけ止まった気がした。
――あまりにも似ていたのだ。
十五の時だ。
音無が光の告白を受け入れた、あの日。
あの時も、凪いだ氷の殻がほんの少しだけ溶けた。
その下から覗いたのは、驚きと――今にも泣き出しそうな優しさだった。
「質問が増えてきましたね。一度にそんなに聞かれても困りますよ。 まずは食事にしましょう」
「ごまかすな」
「本当ですよ。もう歩くのもきついんです。朝から二回も打たれてますし。
Styxで鍛えられて耐性はありますが、それでもさすがにこたえます」
「……つらいのか」
「痛くはありません。ただ……気持ち悪いんです」
音無の声が沈んだ。
傘を広げ、腕を伸ばして光の頭上まで差しかけた。
「何をする」
「日除けです。随分熱心に話していましたからね。
汗をかいていますよ。ハンカチは持っていませんが」
光はひったくるように傘を奪い取り、今度は音無の頭上へ差しかける。
その時だった。
腕時計の革ベルトの下に隠れていたものが、ふと目に入った。
汗で蒸れた皮膚の上を走る、一本の白い傷跡。
自分が付けたものではない。
誰が縫ったのかも分からない、真っ直ぐな古い傷だった。




