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Myosotis 〜 過去は、まだ引き金を握っている 〜  作者: Bpch


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5

豪雨が叩きつけるように降っている。


扉越しでも、大粒の雨が看板を打つ音がはっきりと聞こえた。雨音はみるみる勢いを増し、やがて辺り一面を覆い尽くした。

ガラス窓を幾筋もの水筋が伝い落ち、通りはあっという間に白い水煙に沈んでいった。


「うわぁ……これじゃ予約、全部ずれちゃうなぁ……」


店長のそんなぼやきを聞きながら、泉上光と柊音無は店内のソファに腰かけ、これまでに集めた資料を広げて整理していた。


「さっきまで晴れてたのにな」


「そうそう。でも、お二人ともゆっくりしていってください。雨宿り歓迎ですから」


返ってきたのは、どこか弾んだ店長の声だった。視線も明らかに光へ向いている。


光が気まずそうな顔をするのを横目に、音無は思わず口元を押さえた。


なにしろ光は、口を閉じていれば絵になる男だ。

中学の頃から変わらない。

音無のように、付き合いが長くなるほど魅力が見えてくるタイプとは根本的に違う。


その含み笑いに気づき、光の苛立ちはじわりとぶり返した。


理由はそれだけじゃない。


よくもまあ、平然と俺について回れるものだ。


公安は何を考えているんだ。

こんな危険人物を組織に取り込んで、井上先輩の好きにさせた挙げ句、よりにもよって俺の隣に寄越すなんて。


そもそも、音無と本当に情報を共有できるのか。


いや、仮に向こうにその気があったとしても、こっちは事件の詳細を話す気にはなれない。


こいつは殺人犯だ。

それに、俺はこいつを監視する立場だ。

何を企んでいるか分かったものじゃない。


今夜こそ、絶対に問い詰める。


……今は目の前のことに集中だ。


そう考えるうちに、嫌悪感よりも刑事としての好奇心のほうが勝っていた。

何か聞こうとしたそのとき、音無が壁際の飾りをじっと見つめているのに気づく。


羽根飾りに光沢のあるロープ、小さな鈴。

それらは一見すると可愛らしく組み合わされ、「WELCOME」の文字を形作っていた。


だが、よく見ればどれも人に使うための道具だ。


サディズムか、それともマゾヒズムか。

光は頭の片隅にそれを留めた。

そのあたりは、あの少年に聞いてみなければ分からない。


一方の音無は、その中の首輪に視線を留めていた。


革の首輪は「WELCOME」の最後の e を形作っている。

バックルに通された余りの革が、小さな尻尾のようにぴょこんと飛び出していた。


光もその視線を追った。


目を凝らしてみて、初めてそこに小さく「K.N.」の署名があることに気づいた。

音無はとっくに気づいていたらしい。


「……大場譲治、つまりKNがTrigonotisに贈ったものだろう」


音無は感情の読めない声で言った。


「だが、妙じゃないか? KNがM側だったなら、首輪をつけるのは自分のほうのはずだ。なんでわざわざ贈るんだ?」


光が眉をひそめる。


「うわぁ、光さんは現場経験が長いから詳しいのか、それともプライベートでそっち方面にやたら詳しいのか、本当に見分けがつきませんね。実は常連だったりしません?」


「今まさに首輪をつけて大手を振って歩いてる奴に、そんなことを言う資格があるのか」


「でしょうね。光さんには聞こえないかもしれませんが、これ、首元でずっとピピピって鳴っていて、本当にうっとうしいんです。いっそ外してもらえませんか?」


「甘いこと抜かすな。一生つけてろ」


光は容赦なく言い放つ。


「……それも、そうですね」


音無の声が再び柔らかくなる。

光の前で不満を口にする資格などないと思ったのか、先ほど見せた棘はもう消えていた。まるで最初からなかったかのように。


しばらくして、一人の青年が雨の中を駆け戻ってきた。


「うわっ、最悪……びしょ濡れ……!」


店に出ているのは彼一人ではないはずだ。


それでも光は一目見た瞬間に確信した。


――Trigonotisだ。


艶のある黒髪に、丸い大きな瞳。

目尻は音無よりも少し下がっていて、どこか幼く、人懐こい印象を与える。


音無によく似ていた。


違うのは目の色だけだ。


青年は黒。

音無の瞳は、湖を思わせる青緑色だった。


「着替えてこないと――え?」


顔を上げた青年の前に、光は警察手帳を差し出した。


「こんにちは。警察です。KNさんについて、少しお話を伺いたいのですが」


     ◇


Trigonotisはクッションを抱え、ソファにどっかりと沈み込んだ。


「え? あの人、なんかあったんすか? めっちゃいいおじさんだったのに……」


そう言いながら、視線はちらりと音無へ流れる。

自分と音無が似ていることに、彼も気づいたのだろう。


似ている。

だが、まるで別物だった。


Trigonotisは、この店という水の中を泳ぐ魚のように、すっかり場に馴染んでいる。


対して音無は、なぜか閉じられたヴァイオリンケースを思わせた。

そこにあること自体は自然なのに、どこか目を引く。

周囲の光さえ吸い込んでしまいそうで、感情も思考もまるで読めない。

ヴァイオリンケースの中に狙撃銃でも隠していそうな男だ。

何をしでかしても不思議ではなかった。


「いい人?」


光はその言葉を拾った。


音無は無表情のまま記録を取っている。


「そうっす。いろいろ抱えてそうなのに、すごく優しい感じで。

ほら、ああやってぎゅっと縛られたいって思う人ほど、根っこは悪い人じゃないっていうか」


Trigonotisの視線が、音無の首の黒い首輪から光へ移る。


「つまり君は、縛る側のプレイが得意なのか?」


「んー、そういうわけでもないんすけどね。最初はどっちかって言うと、あたしM寄りだったし。たまに無茶苦茶な客もいますけど……最後はスッキリするんで♪」


……この顔でその話をするな。


内心では頭を抱えながらも、光は表情を崩さなかった。


「なぜその依頼を受けた?」


今度は音無が口を開いた。


「簡単ですよ」


Trigonotisは親指と人差し指で金のマークを作る。


「お金。めちゃくちゃ払ってくれたんです。金払い良くて面倒くさくない客、つまり神客です。しかも指導までしてくれましたし」


「縛り方を?」


「そう!」


Trigonotisは勢いよく頷いた。


「そしたらマジでびっくりしたんすよ。超~おっきなホワイトボードを持ち出してきて! お兄さん方、想像できます? ラブホですよ!?

あたし、てっきり手順を口頭で説明されるくらいかと思ってたんです。

なのにそのおじさん、専用のホワイトボードペンまで出してきて、赤青黒の三色を使って人体図を描き始めたんすよ!」


その言葉を聞いた瞬間、光と音無の視線が同時に上がった。


――誰の目もない場所で、思わず出た職業病。


二人は言葉もなく察する。


視線がぶつかり、そしてすぐに逸れた。


Trigonotisはまだ興奮気味に続ける。


「でも、その図のおかげで本当に上達したんすよ。今じゃネットでもかなり評判いいですし。あたしも、ちょっとSの楽しさが分かってきたっていうか。

正直、最初はお兄さんたちがあたしを捕まえに来たのかと思いましたもん。

ほら、待ちきれなくて店まで来ちゃう客とかいるじゃないですか」


KN、大場譲治、民間警備顧問会社の社長。

ならば戦術訓練の経験があっても不思議ではない。

だとしても、それだけじゃ何の手がかりにもならない。

肩書きが何であれ、性癖そのものは別に珍しくもない。


これだけでは、とても手がかりにはならなかった。


光はさらにいくつか定型的な質問を重ねた。


トラブルはなかったか。

何か気になる話はしていなかったか。


だが、これといった収穫はない。


出てくる話はどれも断片的で、何かを隠している。

そう思わせる話は出てこない。

電話で重要な情報をやり取りしていた形跡もなかった。


もちろん、Trigonotis自身が気に留めていなかった可能性もある。


いずれにせよ、聴取はここまでだ。


これ以上続ければ、事情聴取というより私生活と性癖の聞き取りになってしまう。


それに、Trigonotisの興味は事件そのものより、すっかり光の鼻筋へ移っていた。


確かに目を引く場所ではある。


だが、その熱っぽい視線と二丁目という土地柄、そして店内に漂う曖昧な空気が合わさると、どうにも落ち着かない。


とっくに慣れているはずの香水の匂いが、なぜか急に鼻についた。


――この店に長く居すぎたらしい。


「……お店で使う名前は、皆さん源氏名ですか」


音無が不意にそんな質問を挟んだ。


「もちろん。夢の一時を過ごす相手が『佐藤太郎』なんて嫌でしょ?」


「では、あなたの源氏名は?」


「KNさんがじきじきに付けてくれたんですよ」


光が鋭く顔を上げる。

音無のペンも一瞬止まった。


「Trigonotis。キュウリグサっていう花です。

ほら、Myosotis――勿忘草によく似てるでしょ?

青い花びらに、真ん中が黄色くて」


無邪気な声が続く。


「たぶん、あのおじさん、忘れたくない誰かがいたんじゃないかなぁって」


気づけば雨は止んでいた。


雲が割れ、真夏の光が二丁目へ戻る。


蝉の声が長く響いた。



     ◇



店を出ても、音無はまだ黒い傘を手にしたままだった。


雨が上がった以上、今度は日除けにでも使おうかと、本気で考えていそうな顔だった。


妙に落ち着き払った顔をしている。


光は店を出るなり、すぐに音無へ視線を向けた。


「お前さ、何か隠してるんじゃないのか」


「十四のとき、ただの中学生だと騙した件でしょうか。それは申し訳ありません」


「とぼけるな」


光の声が低くなった。


「お前は公安の特別顧問だろうが、そんなみっともないもん首につけてる以上、自分の立場くらい分かってるはずだ。

特別な理由でもなきゃ、公安がお前みたいな危険な奴を俺のところへ寄越すわけがない。捜査なら足のついた奴なんていくらでもいる」


音無は何も言わない。


「そして今は、俺がお前の監督官だ。俺に信頼してほしいなら、知ってることは全部話せ。それくらい分かってるな」


音無は傘の石突きを地面につけ、その柄に両手を重ねた。


「もちろんです。何を知りたいですか?」


光は指を一本立てる。


「まず一つ。KNを知ってるか――じゃない」


もう曖昧な聞き方はやめる。


一歩踏み込む。


「柊音無……いや、StyxのMyosotis。

KNを名乗っていた被害者――大場譲治。お前、あいつを知っているな?」

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