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午後の陽射しが新宿二丁目の通りをとろりと溶かしている。
照りつける日差しに炙られた土の匂いを含んだ熱気が、二人の顔にまとわりついてきた。
泉上光は買ったばかりの烏龍茶を頬に当てながら、後ろを振り返る。
柊音無が黙ってついてくる。手には黒い長傘。
「……お前、それ何だ」
「傘です」
「見りゃわかる」
日傘代わりか。
首にあんなものぶら下げてるくせに、日焼けなんか気にする気になるとはな——。
そう思うと、光はあらためて音無を見た。
昨夜はあれだけ滅茶苦茶だったというのに。いまだ腹の底で苛立ちを燻らせている光とは対照的に、音無はまるで何事もなかったような顔をしている。
顔の傷はまだ生々しいというのに、本人はやけに落ち着き払っていて、のんきに街並みを眺めていた。
さすがは一流の殺し屋。面の皮の厚さだけは本物らしい。昨日あれだけぶん殴られておきながら、こうも平然と影みたいについてくるなんざな——。
また苛立ちがぶり返してきたが、ここで爆発させるわけにはいかない。
刑事としてそれくらいの自制は利く。
「なんでてめえみたいな奴と組まなきゃならないんだ」
「仕事の一環です。大場譲治の事件捜査に協力することが、公安から任された最初の任務です」
「だったら他を当たれ。つうか、新宿署の刑事はどうした。お前のWA2000で全員始末したのか?」
「他の方には僕の事情を説明するのが面倒ですので。それに、少々話が飛躍しすぎです。WA2000の弾倉は六発ですので」
「で?」
「全員は無理ですね」
「……」
真顔でブラックジョークをかますこの男を一発ぶん殴ってやりたくなった。
だが、この件については主任さえ何も言わなかったし、井上先輩もはっきりしたことを口にしない。
柊音無が絡むと、何もかもが曖昧になる。輪郭がぼやけていくような感覚。
どうにも落ち着かなかった。
何より、こいつは父親を殺した犯人だ。それをどうやって許せというのか。
さっさとこの事件を片付け、先輩にこいつの身柄を回収させる。そして、のうのうと歩き回っているこの殺人犯を法の裁きにかける。
そう心に決め、光は自分を奮い立たせた。
ふと、音無が隣に並ぶ。うっすらと笑みまで浮かべていた。
まるで隣を歩けることが嬉しいみたいな顔をしている。
「そういえば、光さんはここがどういう場所かご存じなんですか。」
「知らねえわけじゃねえよ。昔、所轄に回されたときに来たことがある」
まだ日は高く、派手なネオンも灯っていない。
地下へ続く細い階段がいくつも伸びていた。
その入り口はシャッターで閉ざされていた。
外では煙草をふかしながらスマホをいじる男たちがちらほら見える。
まるでまだ眠っているようだった。
この街が花開くのはもう少し先の時間だ。
「こうして見ると、ちょっと分からないものですね」
「はあ? 一目でゲイの楽園だって分かるだろ」
「どうしてですか」
光はレインボーフラッグや店先の装飾を指さした。
すると店の奥にいた店員の一人があからさまに目を輝かせる。
どうやらこの通りでは、光みたいな男は相当目を引くらしい。
ぞわりと背筋が粟立ち、光は慌てて指を引っ込めた。
勘違いされてねえだろうな……。
いや、別に誤解でもない。
そもそも十五の頃、この隣にいるクソ野郎に告白したのは自分だ。
少なくとも、あの頃はそういう関係だった。
「この旗、ゲイの象徴なんですか? ただ綺麗だから飾ってるんだとばかり」
「全部が全部そうってわけじゃねえ。LGBTのシンボルみたいなもんだな……つうか、お前、一般常識ってもんがねえのか」
光はちらりと音無を見る。
こいつは本当に世間知らずの殺し屋を装って同情でも引こうとしているのか、それともただの雑談だったのか。
一時的に同行するにしても、そのあたりは見極めておきたい。
なにせ音無は、何を言われてもつい信じてしまいそうな顔をしている。
柔らかな黒髪に、人懐こそうな緑の目。二十五にもなって、どこか真面目な大学生のように見える。
殺し屋だなんて思えない。
ヴァイオリンケースに狙撃銃を隠している男だなんて、十四の頃も思わなかったし、二十五になった今でもそうだ。
音無は視線に気づいたらしかったが、何も言わなかった。
「光さんのほうが詳しいんですね。少し意外でした。成人してから色々経験されたんですか」
「違うわ!」
そんなやり取りをしているうちに、目的の店へ辿り着く。
「閉まってますね」
「こういう店は予約で動いてんだよ。アプリで指名もできるしな。暇を持て余した連中を舐めるなよ。昼間でも客は来る」
今度こそ、音無は本気で驚いた顔をした。
「へえ……ずいぶん詳しいんですね」
「仕事柄な」
「だったら安心しました」
「何が」
「光さんが、こういう店に慣れてなくて」
「……」
「正直、嫌だったので」
店へ入ると、冷房の風と香水、それからどこか作り物めいた爽やかな香りが身体を包み込んだ。
受付らしい男がすぐに寄ってくる。
警察手帳を見せた途端、空気がぴりついた。
奥の休憩スペースから若い男が顔を覗かせる。
だが驚いた様子はない。どちらかと言えば、「またか」と言いたげな顔だった。
「ああ、この人ですか。KNって名乗ってましたね」
店長は写真を見ながら何度も頷く。
「かなりの常連でしたから。毎回ちゃんと払ってくれて助かってましたよ。男同士でも、金の話になると面倒なのはいますからね」
そう言ってノートPCをこちらへ向けた。画面には予約表とキャストのシフト。
その中で、「KN」の名前だけが妙に規則正しく現れていた。
「……KN?何か特別な意味が?」
「うち、全部匿名制でして。特に意味はないと思いますよ、みんな適当ですから。あいうえお111みたいな方もいますしね」
月に四回。五週ある月だけ、一度休む。
指名する相手は毎回同じ——「Trigonotis」。
驚くほど一途だった。
音無は黙ったままだった。
Trigonotisという名前をじっと見つめている。
「トリゴノティス?」
光が首を傾げると、
「キュウリグサです。花の名前ですよ」
音無が静かに答えた。
「花か」
光は再び画面へ視線を落とす。
「その子、今いる?」
「出張中ですねぇ。あと二十分くらいで戻ると思いますよ」
「出張?」
「外で会うやつですよ」
店長がにやりと笑った。
「Trigonotisくん、緊縛が得意なんです」
「緊縛?」
光は意味が分からず眉をひそめる。
だが音無は理解したらしい。身体がわずかに強張り、思わず視線を逸らした。
「最近、そういうの好きなお客さん多いんですよぉ。縛られると落ち着くらしいです」
「……へえ」
光はまだよく分かっていなかった。
店長は明らかに光へ好意的だった。
百八十五センチ近い長身に、広い肩と引き締まった体つき。黒い短髪に青みがかった瞳。
小林拓也に「キャリア組のお前は刑事なんかやってないで広報のポスターでも撮ってこい」と嫌味を言われるのも無理はない。
もっとも、光自身はそういう視線に慣れていた。
「じゃあ、ここで待つか」
椅子に腰を下ろし、光は音無を見る。
こいつはさっきから黙ったままだ。
ただ、画面の「Trigonotis」という名前をじっと見つめている。
知り合いなのか。それとも、また何か隠しているのか。
「どうした」
「……いえ、別に」
「さっきからそればっか見てるだろ」
「…気になるというか、少し引っかかることがあるんです。でも、まだ確信が持てません」
「その子が戻れば分かるのか?」
「ええ。ただ――少し待つことになると思います」
「どういうことだ」
音無は窓の外へ目を向けた。
「もうすぐ雨になります」
「雨? まだ晴れてるだろ」
「ええ。でも、すぐに降り出します」
「根拠?」
音無は自分の服を指した。
「傷がかゆいんです」
光は気まずそうに頬を掻く。
音無は手にした黒い傘を軽く揺らした。
「でも大丈夫です。傘はありますから」
「そこじゃねえよ。つうか、それ雨傘だったのか。てっきり日傘かと」
「日傘なんて柄じゃありません。日に当たるのは体にいいですけど、雨に濡れるのはよくないので」
「そうかよ」
店長は二人の関係を特に疑っていないようだった。
音無の首輪はかなり目立つ。
だが本人が妙に堂々としているせいか、誰も気にしていないようだった。
「ああ、その首輪、なかなか趣味がいいですねぇ」
突然、店長が手を叩いた。
光みたいな男を前にすると、つい口も軽くなるらしい。
「KNさんもそういうのがお好きでねぇ。Trigonotisくんによく贈ってましたよ」
珍しく、音無は居心地の悪そうな顔をした。
「なるほど。参考になります」
光はにこやかに頷き、さりげなく話を切る。
音無へ視線を向けた。
「メモ」
「……はい」
小さく頷き、音無は手帳を開いた。
だがペン先がうまく滑らない。インクが途切れ、三度目でようやく文字になる。
その手はわずかに震えていた。
——ちょっと待て。
昨日できたばかりの傷が、雨でかゆくなるなんてことがあるか?
そう思った瞬間、光の視線は音無の右手へ落ちた。
手首には腕時計。黒い文字盤。
十二時の位置には、小さな金色の点。
窓の外が少し暗くなる。
いつの間にか、空には灰色の雲が広がっていた。




