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アパートへ戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。共用廊下のセンサー灯が、二人の足音を追うように一つずつ点き、通り過ぎたそばから背後で順に消えていく。まるで、足音に合わせて浮かび上がった音符の列が、夜の闇にひとつずつ呑み込まれていくようだった。
鍵がカチリと鳴った。泉上光はドアを開けるなり、片方の革靴を蹴るように脱ぎ、続けざまにもう片方も飛ばした。片方は下駄箱の脇へ転がり、もう片方は危うく壁際の傘立てを倒しかけた。
柊音無は自分の靴をきちんと脱いで揃えると、光の靴も拾い、下駄箱の前へ並べ直した。
光は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「……ったく、勘弁してくれよ」
何を指しているのか、音無には分かっていた。
一件も片づかないうちに、また別の問題が持ち上がった。大場と光の父親とのあいだに、かつていったい何があったのか。その真相すら明らかになっていないところへ、今度はRacingとRiyaの件まで加わった。しかもRiyaの件にはStyxが絡んでいる。通常の誘拐事件として扱えるはずもなかった。
だが、Riyaを救い出す。それだけで、動く理由としては十分だった。さらにこの一件を追えば、警察が介入した際、Styxが実際にどう動くのかも見えてくるかもしれない。連絡手段、移送経路、緊急時の対応――どれも今後Styxを追ううえで極めて貴重な情報になる。
そんなことをあれこれ考えながら、光は部屋着のTシャツに着替えた。襟ぐりから頭を出すと、「ふう」と息を吐いた。ただでさえ乱れていた髪が、さらにあちこちへ跳ねた。手櫛で二、三度無造作に撫でつけてみたものの、ほとんど変わらない。光はあっさり諦めた。
音無は流し台の前に立ち、買い物袋から鮭の切り身を取り出した。
「先にお風呂へ入ってください。夕食は僕が作ります」
光は畳の上にあぐらをかき、両手を膝に載せたまま、ぼんやりと天井を眺めていた。音無の声を聞くと、反射的に片手を振った。
「俺はいい。おまえの分だけ作れ。夜はあんまり食わねえんだ」
「駄目ですよ」
そう言いながら、音無はすでにキッチンペーパーを手に取り、鮭の表面を軽く押さえていた。
「いつもそうやって、思い出したときにだけ食べて、面倒になったら何も口にしないでしょう。そんな食生活をしているから、胃が痛くなるんです。若いうちはまだ無理が利いても、年を取ったらどうするんですか」
光は思わず天井から視線を外し、音無を見た。
音無は光に背を向け、小さなキッチンで手を動かしていた。脱いだのは上着だけで、まだ白いシャツを着たままだった。作業の邪魔にならないよう、袖を肘までまくり上げている。頭上の明かりが、白いシャツの背に柔らかく落ちていた。
ついさっき路上で宙を舞い、飛びつき腕十字じみた、わけの分からない大技を繰り出していた男と同じ人間とは思えなかった。
家賃相応に古びたアパートだけあって、ガスコンロも旧式だった。もちろん魚焼きグリルなど付いていない。鮭を焼くなら、フライパンを使うしかなかった。音無はキッチンペーパーで鮭の表面を押さえながら、空いた手の親指でスマートフォンの画面をスクロールしていた。
その後ろ姿を眺めていた光は、ふと思いついたように尋ねた。
「おまえ、逆に何ならできねえんだ?」
「……はい?」
音無が驚いたように振り返った。緑の瞳には、素の困惑が浮かんでいた。
「銃は使える。情報官の仕事もできる。近接戦闘までこなす。何だか知らねえが、やたら派手な技も使いやがる。そのうえ、レシピを見ながらとはいえ、料理までできる」
音無は苦笑した。
「狙撃と情報収集は、もともと僕の仕事です。近接戦闘は、十六歳の頃に必死で鍛え直しました。料理については……」
音無は塩の容器を開けた。親指と人差し指で塩をつまみ、指先を擦り合わせながら、鮭の表面へ均等に振った。
「レシピは、料理のできない人間でも作れるように書いてあるものでしょう? 今作っているのも、大した料理ではありませんし。光さんに頼まれても、手の込んだものまでは作れませんよ」
「おまえ、あれを十六のときに慌てて覚えたのか? そうは見えなかったけどな」
「付け焼き刃というわけではありません。基礎訓練そのものは、それ以前からずっと受けていました。ただ、十六歳以降は、近接戦闘の訓練に割く時間を増やしたんです。どうしても接近戦を避けられない場面もありますから」
光はしばらく黙っていた。
音無はスマートフォンのタイマーをセットすると、もう一度手を洗ってから振り返った。
「本当にお風呂へ入らないんですか? 光さんが入らないのなら、僕が先に入ります。今日はずいぶん汗もかきましたし――」
不意に光が動いた。
畳に手をついて立ち上がり、音無へ向かって歩き出す。もともと広い部屋ではない。音無が背後の気配を察して振り向いたときには、光はすでに目の前まで来ていた。
光が腕を伸ばした。その手が、音無の肩に触れかけた瞬間――
音無は反射的に光の腕を払いのけた。
乾いた音が、狭い室内に響いた。
光は払いのけられた腕を宙に浮かせたまま、動きを止めた。
「……何をするつもりですか」
音無の声には、隠しきれない戸惑いが滲んでいた。
「俺でも駄目か?」
「……違います。せめて声をかけて、正面から近づいてくだされば、僕だって何もしません。僕は殺し屋ですから、背後から間合いに入られるのは……その、何よりも警戒しなければならない。万が一に備えて、切り札を残しておく必要が……格闘術は、そのための……」
音無の声は次第に小さくなり、最後の数語はほとんど聞き取れない呟きに変わった。
「本当に、それだけか?」
「それだけです」
「でも、今はもう向かい合ってるぞ」
そう言って、光は一歩前へ出た。二人の距離が、さらに縮まる。
「……分かっています。ですから、今はこうして……平静に……」
「――それがおまえの切り札か? 俺には盾にしか見えねえけどな。十六のときから今まで、誰かに近づかれるたび、おまえが反射的に構えてきた盾にしか」
光は音無の目を見たまま、もう一歩だけ踏み込んだ。音無の睫毛の一本一本まで見えるほど、距離が縮まった。
音無より背の高い光は、わずかに顔を伏せ、緑の瞳を覗き込んだ。
「それで、おまえは近づいてくる人間を全員叩き伏せるつもりなのか。――俺も含めて?」
あとほんの少し身を寄せれば、音無に触れてしまうほど近かった。
その瞬間、音無は調理台の上にあった包丁をつかみ取った。
反射的に二人のあいだへ突き出し、刃先を光の喉元へ向けた。だが、寸前のところで動きが止まった。
空気が凍りついた。
刃先は、光の喉元から指一本分も離れていなかった。
我に返ったように、音無は手首を返した。刃先を光の喉元から外し、そのまま自分の首筋へ押し当てた。
「……来ないでください」
音無の声は震えていた。空いた手で黒い首輪を押さえた。指先まで震えていた。
「……お願いします」
光は黙って音無を見つめた。
やがて両手をゆっくりと上げ、そのまま数歩後退した。玄関の上がり框ぎりぎりまで下がって、ようやく足を止める。
光は、この馬鹿げた光景を目に焼きつけるように、音無を見据えた。緑の瞳は絶え間なく揺れていた。
そして腹の底から、深く長いため息を吐いた。
「……分かった。とにかく、おまえのことは、もう一度きちんと考える。だから包丁を置け」
「何を考えるんですか」
「先に包丁を置け。どうすればおまえがこれを乗り越えられるか、考えるって言ってんだ。それ、もうただの癖じゃねえ。病気なんだぞ。自分じゃ分からねえのか?」
「ですが、僕は光さんに何かしてほしいなんて、一度も――」
そのとき、玄関の外からノックの音がした。
光と音無は同時に動きを止め、顔を見合わせた。
二人が反応するより先に、ドアの向こうから、金属同士が擦れ合うような小さな音が聞こえてきた。
光が目を見開いた。
鍵穴の奥で、カチリと乾いた音がした。続いて、ドアが廊下側へわずかに開いた。
ゆっくりと開いていくドアの隙間から、まず黒い短髪が見えた。長い前髪は、暗い瞳を覆い隠しかけている。続いて、実年齢より何歳も幼く見える顔が、無表情のまま覗いた。
Racing――江沫だった。
江沫は針金のように細い工具を手にしたまま、室内の光景を眺めていた。
玄関には、両手を上げた泉上光。流し台の前には、首筋へ包丁を当てている柊音無。
しばらく沈黙したあと、江沫は静かに後ずさった。そのまま何事もなかったかのように、ドアを閉めようとした。
「待て! おい、何してんだ!」
真っ先に我に返った光が声を上げた。
音無も弾かれたように、慌てて包丁を首筋から離した。
片足を室内に、もう片足を廊下に残した江沫は、ひどく中途半端な姿勢で動きを止めた。それでも表情だけは、いつもと変わらない。
「……泉上さんを訪ねてきました」
「見りゃ分かる! 普通は勝手に鍵を開けて入ってこねえんだよ!」
光は苛立たしげに歩み寄ると、ドアノブをつかんでドアを全開にした。
「それは訪問じゃなくて住居侵入だ! あと、その針金みてえなのは何なんだよ!」
「常備しています。便利なので」
「そういうときに便利さを優先すんな!」
「……江、何をしに来たんだ?」
音無は表面上、すでにいつもの落ち着きを取り戻していたが、片手はまだ黒い首輪に触れていた。
「さっき、何か言い忘れたことでもあったのか?」
「ひとまず先輩を信用すると決めた以上、今夜のうちに、MP-5について分かっていることを整理しておいたほうがいいと思いまして。先輩一人でもできるでしょうが、二人でやったほうが多少は早い。それに――」
江沫は背負っていた大荷物を肩から下ろした。
巨大な黒いヴァイオリンケース。角張った輪郭も、艶を抑えた塗装も、音無が使っているものと瓜二つだった。
「装備を回収してきました」
そのケースを眺め、音無は思わず笑いを漏らした。
「そんなものまで、僕と同じにしたのか?」
「そうです。これも僕のトレードマークの一つですが、先輩は聞いたことがないんですか」
音無は肩をすくめた。
「ないな。僕が使い始めてから、Styxでは一時期、この手の収納方法が流行ったらしい。真似をしたかったのか、箔でもつけたかったのか。僕はいちいち気にするのも面倒で、聞く気にもならなかった」
そこで一度言葉を切ると、珍しく拗ねたように付け加えた。
「そもそも、ろくにヴァイオリンも弾けないくせに、何のためにケースなんか使うんだか」
誰も何も言わなかった。
しばらくして、光が頭を掻き、微妙な空気を打ち破った。
「もういい。とりあえず入れ。この狭いアパートで、三人も寝られるかどうか知らねえけどな」
江沫はきちんと頭を下げた。
「お邪魔します」




