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Myosotis 〜 過去は、まだ引き金を握っている 〜  作者: Bpch


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54

靴を脱いで部屋へ上がると、江沫はいつもの癖なのか、室内をひととおり見回した。


たしかに狭く、家具も必要最低限のものしかない。小さなちゃぶ台に数枚の座布団、古いテレビ。壁際には小さな本棚があり、法律関係の本や捜査資料が隙間なく詰め込まれている。棚の端には、写真立てが一つ置かれていた。


「思っていた以上に……質素ですね」


「おまえ、マジでデリカシーねえな。人んちに入って最初に言うことか? 気に入らねえなら帰れ」


泉上光は不機嫌そうに流し台へ向かい、コップに水を注いだ。


「見たところ、この部屋は泉上さんの収入と釣り合っていません。僕の知るかぎり、泉上さんはキャリア組です。勤続年数のわりに階級も高い。もう少し条件のいい単身者向けマンションを借りられるはずです」


江沫は、いつもの妙に素直そうな顔で小首を傾げながら、さらりと続けた。


「――それに以前から、世田谷区内で防音室つきの一戸建てを探して、何度も内見に行き、価格交渉までしていましたよね。正直、横領でもしているのか、それとも実は億単位の資産を持っているのかと思っていました」


室内が静まり返った。


次の瞬間、光は口に含んでいた水を盛大に噴き出した。


「おまえ……っ、ふざけんな! 違う! あれは、その、俺はただ――!」


柊音無は信じられないものを見るように、光を振り返っていた。


「光さん……まさか……」


「くそ、黙れ! そういうんじゃねえ! ちょっと聞いてみただけで、別に――」


「まさか、横領を……」


「そこを拾うのかよ!? 誰が横領なんかするか! 俺が本当に横領してたら、こんなボロ家に住んでまで、ちまちま金を貯める必要なんか――くそ、違う! 今のは違う!」


光は頭を抱えながら音無を振り返った。


だが、音無の顔はすでに耳まで真っ赤になっていた。


当の江沫は、自分が何を暴露したのか、まるで理解していないらしい。何食わぬ顔でちゃぶ台の前へ腰を下ろすと、鞄から連絡用端末を取り出し、操作を始めた。


端末からぶら下がったクロミのチャームが、柔らかな照明を受け、いたずらっぽく笑っていた。


やがて、音無が諦めたようにため息をついた。


「……江、手を洗って、それから米を研いでくれ」


そう言って流し台へ向き直り、再び鮭の下ごしらえを始める。


「はい」


江沫はすぐさま立ち上がり、流し台へ向かった。


光は不機嫌そうにちゃぶ台の前へ座り直し、コンロの前に立つ音無へ目を向けた。


SSS級のスナイパーが鮭を焼き、SS級のスナイパーが米を研いでいる。そして本来なら、そんな二人をまとめて逮捕する側にいるはずの自分は、ちゃぶ台の前に座って、二人の働く姿を眺めていた。


どういう状況だ、これは。


光は立ち上がり、そのまま風呂場へ向かった。ほどなくして、浴室からシャワーの音が聞こえ始めた。


浴室のドアが閉まると、音無はわずかに息を吐いた。ずっと強張っていた肩から、ようやく力が抜けた。


江沫は研ぎ終えた米を、炊飯器の内釜へ移していた。


「ずいぶん手慣れているな」


「大学へ入ってから、ずっとアルバイトをしています」


「おまえのポイントなら、わざわざ働かなくても、それなりに暮らせるだろう」


「……ですが、Riyaは等級が低く、持っているポイントも少ない。外へ出る機会も、ほとんどありませんでした。時々、たこ焼きやうどんを食べたがることがあって」


江沫の声が、わずかに低くなった。


「アルバイト先で売れ残ったものをもらえた日は、彼女に持っていくこともありました。売れ残りでも、Styxで出される食事よりずっとおいしいと言っていました」


「……心配か?」


「心配しているだけでは、判断を誤るだけです。今できることを一つずつ片づけるしかありません」


江沫は炊飯器の蓋を閉め、スイッチを押した。


「先輩は、これからどうするつもりですか」


音無はわずかに目を瞬かせた。


「……『93.7パーセントの僕』が、こんなに遠慮のない人間だったとは知らなかったよ」


「泉上さんは、態度に出しているほど先輩を憎んではいません。僕はずっと、二人を観察していました。スコープ越しに」


「覗き魔め。よくもまあ堂々と言えたものだな」


「……ただ先輩が、一方的に自分を憎み続けているだけです」


そのとき、浴室のドアが開いた。


白い湯気とともに、濡れた髪をタオルで拭きながら光が出てきた。二人のいる台所へ目をやる。風呂で少しはほぐれたはずの緊張が、なぜかまた戻ってきた。


「音無、今度はおまえが入れ。鮭なら俺が焼いとく」


「大丈夫です。光さんは休んでいてください。もうすぐできますから」


音無はフライパンの火加減を丁寧に調整していた。


江沫が無表情のまま風呂場へ向かう。


「では、僕が先に入ります」


「ふざけんな!」


光は間髪を容れずに怒鳴った。


「おまえ、どれだけ遠慮がねえんだよ! 少しは年上を立てろ!」


「効率を優先しただけです」


「この野郎――」


「分かりました、分かりました。僕が入りますから」


音無が慌てて割って入った。


「二人とも、喧嘩しないでください。また隣から苦情が来ますよ」


そう言って、音無は手の甲で額をこすり、苦笑した。


「以前は気づきませんでしたが、この部屋も三人になると、ずいぶん賑やかになるんですね」


光に不機嫌そうに睨まれながら、江沫はコンロの前を引き継いだ。


江沫はフライパンの中の鮭を真剣に見つめ、頃合いを見て裏返した。やがて皮目がこんがりときつね色になり、焼けた鮭の香ばしい匂いが、小さなアパートいっぱいに広がっていく。


「……前に、夜中に俺の車を襲ったとき、わざわざカーナビを狙って撃っただろ。あれ、わざとか?」


江沫は火を止め、鮭をフライパンに残した。余熱で中まで火を通すつもりらしい。そのまま光の向かいへきちんと正座した。


ちゃぶ台に置かれていた煎餅を一枚つまみ、遠慮なくかじった。


「わざとです。そういう命令でしたから」


「俺を殺すのが目的じゃなかったのか?」


「泉上さんを殺し、同時にカーナビも破壊する。それが命令でした」


江沫はもう一口、煎餅をかじった。


「ただ、先輩が僕の端末に細工をして、あれほど早く居場所を突き止めるとは思いませんでした」


「ふん。じゃあ、おまえはナビに何かあると知ってたのか?」


「知りません。実働要員に事前に開示される情報は、必要最低限に限られています。任務に必要な情報だけを与え、正確に遂行させるためでもあり、捕まって尋問された場合に漏れる情報を最小限に抑えるためでもあります」


「……大場については、どこまで知ってる?」


「大場さんはStyx東アジア地区のLeaderです。内部コードはLoser。資金の調達と配分を担い、組織の事業転換にも一部関わっていました」


「事業転換? ああ、あの何とかいう……MP-5計画か?」


光が眉を寄せる。


「MP-5計画が大場さんの主導で進められていたかどうかは、僕にもまだ分かりません。ただ、MP-5で蓄積された情動制御、神経刺激、行動矯正のデータは、精神医療技術として商品化しやすい。Styxは、これまで組織内でしか利用してこなかった研究成果を、医療技術として外部へ売り出そうとしているようです」


江沫は煎餅をちゃぶ台へ置いた。


「世界的な景気低迷が続くなか、精神医療に対する需要は――」


そのとき、低い振動音が言葉を遮った。


連絡用端末が突然震え始めた。


そこへ、光から借りたTシャツ姿の音無が浴室から出てきた。


「江、今度はおまえが入れ。鮭は僕が――」


江沫は連絡用端末を引っつかむと、電源ボタンを激しく連打した。


だが、振動は止まらない。まるで端末そのものが抵抗しているかのように、低い振動音がしつこく鳴り続ける。


続いて、強制接続を告げる電子音が響いた。画面が切り替わり、通話中の表示が現れた。


江沫は勢いよく立ち上がった。


壁際まで駆け寄り、持ってきた黒いヴァイオリンケースを引っ張り出す。ケースが畳の上に倒れ、ドスンと鈍い音を立てた。


江沫は構うことなく蓋を開いた。


内部には、WA2000が専用の緩衝材に固定されていた。


次の瞬間、連絡用端末のスピーカーから、耳をつんざくような泣き声が迸った。


「ああああああああああああああああああ――!」


あまりに突然の甲高い声に、光は耳の奥を針で刺されたような痛みを覚え、目を見開いた。


江沫は端末をケースの空いた隙間へ押し込み、蓋を叩きつけるように閉じた。声はたちまちくぐもったものの、完全には消えなかった。箱の中へ閉じ込められた亡霊のような、くぐもった嗚咽へ変わった。


端末についたクロミのチャームだけが、蓋の隙間から外へ垂れ下がり、怯えたように細かく震えていた。


江沫は何も言わず、再びちゃぶ台の前へ座った。


食べかけの煎餅を手に取り、ぱりっと一口かじる。


「……今後も増えていくと見られています。ですから、Styxも医療分野への進出を模索している。国際的にも――」


光は呆然と江沫を見つめた。


江沫はなおも淀みなく話し続けていた。自分でヴァイオリンケースへ閉じ込めた泣き声など、まるで耳に入っていないかのようだった。


だが――。


江沫の黒い瞳から、涙が一粒こぼれた。


続いて、二粒目。


三粒目。


音無はゆっくりと江沫へ歩み寄った。江沫の前にしゃがみ込み、肩にそっと手を置く。


「……江」


江沫は、それきり何も言わなくなった。


ただクロミのチャームだけが、ヴァイオリンケースの縁でかすかに揺れていた。

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