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一連の後始末がようやく一段落し、泉上光と柊音無がカフェへたどり着いた頃には、入口の札はすでに「CLOSED」に裏返されていた。
店長はカウンターの奥でレジを締めていた。再び現れた音無を見るなり、ぱっと顔を輝かせた。だが、また代金を受け取れない羽目になるのでは、とでも警戒したのか、歓迎半分、困惑半分といった様子で揉み手をしながら、「いらっしゃいませ」と声をかけた。
Racingは、音無が光を連れて戻ってきたことを、さほど意外には思っていないようだった。エプロンを畳んで片づけると、無表情のまま二人を見つめた。
その顔は、すでにアルバイト中の江沫から、Racingのものへと戻っていた。
「江くんと少し話がしたいだけです。僕たちは……友人ですから。少しのあいだ、こちらにいさせていただいてもよろしいでしょうか」
音無はそう言ってから、穏やかな声で付け加えた。
「今回は、きちんとお支払いしますので」
店長は一度うなずいたかと思えば、すぐさま慌てて手を振った。すっかり混乱した様子ながら、それでも三人を店のいちばん奥の席へ案内した。
店長を安心させようと、音無はさっそくメニューを光の前へ差し出した。
「光さんは、何にしますか?」
「……アメリカーノでいい。いや、やっぱりやめた。今から飲んだら眠れねえ。最近、寝るたびに夢ばっかり見て、全然疲れが取れねえんだよ……」
結局、光はレモンスカッシュを注文した。
店長は三人分の飲み物を手際よく運んでくると、そのままカウンターへ戻り、レジ締めを再開した。
だが、しばらくすると、三人のあいだに漂うただならぬ空気を察したらしい。帳簿を抱え、そそくさと奥の倉庫へ引っ込んでいった。
客席に残ったのは、三人だけだった。やがて製氷機の作動音まで止まり、店内は耳鳴りがしそうなほど静まり返った。
長い沈黙の末、音無は片方の手のひらを上へ向けた。
「次からは、挑発するにせよ、試すにせよ、自分で来てくれ。このままでは、Styxというのは雑魚を代わる代わるけしかけるしか能のない、そこらのチンピラ集団なのかと勘違いしそうになる」
「……あの二人は、僕が差し向けたわけではありません」
「だが、誤った情報を流したのはおまえだ」
「何を根拠に、そうおっしゃるんです?」
「銃さえ持っていなければ、Myosotisなど何の脅威にもならない――あの二人は、どういうわけかそう信じ込んでいた。いったい誰が、そんな誤認を植えつけたのか」
音無の声が、すっと冷えた。
「いい度胸だな、Racing。自分が何を試しているのか、分かっているのか?」
Racingは黙っていた。
「黙ってねえで答えろ」
そう言いながら、光はわずかに身を乗り出した。
「これまで二度も俺を殺さずに見逃したかと思えば、今度は音無の弱点をStyxの情報網へ流して、実銃を持った馬鹿二人に俺たちを試させた。おまえ、俺たちの命を使って性能試験でもしてんのか?」
「――先輩こそ僕に、命を懸けて先輩を信じろと求めているのでしょう?」
Racingは、心外だとでも言いたげに聞き返した。
「確かに、情報を流したのは僕です。ただし、あの二人に直接連絡したわけではありませんし、彼らが何者なのかも知りません。Styxの末端にいる実働要員には、必要な部分だけ抜粋された標的情報を閲覧する権限があります。僕は、そこへ一項目追記しただけです。――Myosotisは銃器を失えば、その近接戦闘能力は狙撃能力に比べて著しく劣る、と」
そう言って、Racingはわずかに首を傾げた。
「この程度の『テスト』すら切り抜けられないのなら、僕と組んだところで何ができるというんです? 僕とRiyaの命を預けろと?」
「――おまえが不安になるのは分かる。僕を疑うなら、気の済むまで試せばいい。ただし――」
音無は目を上げた。
「次に光さんを巻き込めば、もうこうして座って話せるとは思うな」
重い沈黙が落ちた。
「……僕には、分からないんです」
「何が?」
「先輩はSSS級のスナイパーで、僕はSS級です。確かにStyxは、作戦序列ごとに一つの分野へ特化した殺し屋を育ててきました。ですが、SSS級にまで達した人間が、いくら近接戦闘が不得手だったとしても、情報潜入序列の情報官一人に、力だけでねじ伏せられるはずがない」
Racingは、答えを求めるように音無を見た。
「では、どうしてあのとき、あんなことになったんです? そんな先輩が、FYIに――」
「Racing!」
光の表情が険しくなった。
「いいんです、光さん」
音無は二人を遮った。
「江。MP-5の被験者にされたのは、何歳のときだ?」
「……十三歳です」
「十三歳……そうか。自分がどういう人間なのかさえ分からないうちに、僕の反応パターンを無理やり頭へ押し込まれたんだな」
「音無、もういい――」
音無は光を一瞥すると、再び江沫の黒い瞳を真っ直ぐに見た。
「たとえ僕の反応パターンを九三・七パーセント再現できたとしても、十六歳の子供が、いちばん大切な人を傷つけたあと、どれほど非合理な行動に出るかまでは再現できない」
音無の声が、さらに低くなる。
「それとも、あのときの柊音無はMyosotisではなく、ただの十六歳のガキだったと聞けば満足か? 復讐するつもりで威勢よく乗り込んではみたものの、心のどこかでは、最初から生きて帰る気などなかった――と」
光はそれ以上、何も言わなかった。目の前のレモンスカッシュを手に取ると、一気にあおった。
「……分からねえからって、何をしてもいいわけじゃねえぞ」
光はグラスをテーブルへ戻し、低く吐き捨てた。
「嫌がらせのつもりではありません。少なくとも、先輩が僕の想像していた人間とは違うことは分かりました」
「想像と違う? Racing、おまえは何を見て、僕を知ったつもりになっていた? Styxから与えられた情報か。それとも、同僚たちが口にするくだらない噂か?」
「先輩についての馬鹿げた噂なら、とうに聞き飽きました。あんなものの真偽を確かめる必要もありません。僕にはただ――」
Racingは、自分のこめかみを指さした。
「――ここへ無理やり刻み込まれた、Myosotisを基にした行動モデルだけで、十分に判断できます」
その声に、冷えた怒りが滲んだ。
「MP-5に対する拒絶反応が最もひどかった頃は、先輩自身が、わざと懲罰室へ送られるよう仕向けたのではないかとさえ疑いました。Styxにあのデータを残し、自分よりも強いスナイパーを造らせるために」
「ふざけんな――」
光は今にもテーブルを叩きそうになった。
「――八つ当たりだということは分かっています。ただ、先輩が何も知らない顔をしているのを見ると、どうしても腹が立つ。先輩のデータを核にした実験だったのに、情報官になってから、いったい何をしていたんです?」
音無は目を閉じた。
「……すまない」
長い間を置いて、小さく言った。
「あのとき、僕がもう少し長く耐えられていれば……もしかしたら……」
「いいえ。先輩があれ以上耐え抜けるほど強くなかったことを、むしろ幸運に思うべきです。先輩は実験台の上で、すでに限界寸前だった。もし、どんな苦痛を与えられても決して屈しないMyosotisのデータまで採取されていたら、Styxが最後にどんな思考回路を僕の頭へ押し込み、僕が何にされていたのか、想像もつきません」
「――もういい」
光はグラスをテーブルへ置いた。
「結局、おまえらは二人とも被害者だろ。Styxは音無から採ったデータでおまえを造り、おまえはStyxの連中を利用して音無を試した。本来なら同じ敵を見てるはずのおまえらが、ここで勝手に潰し合ってる。俺がStyxの人間なら、笑いが止まらねえよ」
そう言うと、光は腕を組み、椅子の背へ身体を預けた。
「おまえらがいつまで揉めようと、俺の知ったことじゃねえ。今、知りたいのは一つだけだ。Racing、どうすれば、おまえは腹を括って俺たちの側につく?」
「敵が同じというだけでは、足りません」
「何が足りねえ?」
「先輩にRiyaをStyxから逃がす力があると信じるには、まだ足りません」
音無はため息をついた。
「その件については、確かに証明できない。今ここで、絶対に救い出せると言えば、それこそおまえを騙すことになる」
「……」
「だが、僕にはStyxにいた頃に集めた内部資料がある。公安に働きかけることもできる。光さんには、刑事部側から捜査を進める術がある。そしておまえは、僕以上にMP-5の実態を知っている。Styxが今も使っている連絡経路まで押さえている」
音無は両手の指を組み、テーブルの上へ置いた。
「僕たちの誰一人として、単独ではRiyaを救い出せない。だが、それぞれが持つ情報と手段を組み合わせれば、少なくとも、おまえが独りで待ち続けるよりは、救い出せる可能性が高まる」
それでも、Racingはすぐには答えなかった。長い沈黙のあと、低い声で尋ねた。
「先輩は、どうしてRiyaを知っているんです?」
「何?」
「確かにRiyaは、短いあいだ、先輩の配下で下級情報員をしていました。ですが、先輩は僕を知らず、MP-5の詳細も知らなかった。いったい、どうやって彼女と僕を結びつけたんです?」
音無はしばらく黙っていた。やがて意外そうに目を瞬かせ、困ったように首を振った。
「おまえが疑っていたのは……そこだったのか? いっそ、僕にStyxと渡り合うだけの手札が本当に残っているのかと疑われたほうが、まだ言葉に詰まっただろうな。実際、そこまで確信があるわけじゃないからな」
「……先輩が以前からMP-5計画も僕の存在も知っていながら見て見ぬふりをし、僕が必要になった今になってRiyaを交渉材料に持ち出したのなら、僕には先輩を信じる理由がありません」
「分かった。互いの知っていることを明かさないままでは、協力関係など、いつ一方的な利用に変わってもおかしくない」
音無はうなずき、組んでいた指を解いた。
「僕は本当に、おまえを知らなかった。Styxの構成員が一堂に会することなどないからな。それに、十六歳のあの一件以降、僕は遠距離打撃序列に関する情報を意識的に避けてきた」
Racingは黙ったままだった。
「StyxがMP-5の名のもとに、おまえたちへ何をしたのか。それも、つい最近になって、ようやく断片をつなぎ合わせたばかりだ。ただ、想像はつく。Styxは大勢の子供を、MP-5の実験台にしたはずだ。その中でMyosotisとの類似率が九三・七パーセントに達したのは、おそらくおまえ一人だろう」
しばし黙ったあと、音無はRacingを見た。
「……Riyaという少女なら、確かに知っていた。対象に近づく、いわゆる『スワロー』の役目を担わされていた子だ。もちろん、それは聞こえのいい呼び方にすぎない。実際には――」
光が音無へ目を向けた。だが、音無はそのまま続けた。
「その子は頭部に負った傷が原因で言語障害が残り、読み書きも満足にできなくなった。それまでの『仕事』も続けられず、任務でポイントを稼ぐこともできない。ほどなくE級へ落とされた。E級が何を意味するかは――」
いったん言葉を切った。
「……ちょうどその頃、誰かがRiyaの能力評価を書き換え、とうに使用停止になっていた管理アカウントを使って、彼女をこっそり僕の情報班へ異動させた」
Racingの黒い瞳を見つめた。
「そいつは、自分の技量では、この異動の痕跡を完全には消せないと分かっていた。だから、多少不自然な点が残っても深追いしそうにない情報官の配下へ、あの子を押し込む必要があったんだ。
僕も僕で、詰めの甘い小僧が残した穴を埋め、Riyaを情報班に残すための手続きを済ませた。文字情報の処理には向かなかったため、画像資料の分類やタグ付けを任せた。閉所や男性との接触を極端に怖がっていたことから、ときどき警戒区域の最外縁で、形だけの見張りをさせたこともある。
とはいっても、特に何かをさせるわけではなかった。ただ外へ出て空気を吸わせれば、少しは気が楽になるかもしれないと思っただけだ。ところが――」
音無は、どこかおかしそうに頬を掻いた。
「僕が彼女を外へ出す前の晩、また誰かがあの停止済みのアカウントを使い、射撃訓練場とVSSの一時使用許可を申請していた。その『誰か』は、一晩中、あの子にVSSの扱いを教えていた。
僕が、役に立たなくなったRiyaを、見張りの任務にかこつけて処分するつもりだとでも思ったんだろう。どうやら、おまえの中にいる『九三・七パーセントの僕』は、本物の僕を、ずいぶん冷酷な人間だと見誤っていたらしいな」
「……何が言いたいんです?」
「それでも、おまえは賭けたんだ。Riyaの身に何があったのかを知れば、おまえと同じように、彼女を何の価値もない廃棄物として切り捨てることはできない、と。
おまえと僕が根本からまるで違う人間なら、僕のデータだけで、おまえがMyosotisを九三・七パーセントも再現できるはずがないからな」
音無も、自分のこめかみを指先で軽く叩いた。
「そして、Styxを抜けたあと、組織から最後に引き出せたあの情報を流したのも、おまえだった。なぜ面識もないおまえが、僕にあれを渡したのか。ずっと不思議に思っていたが……今なら、よく分かる。
おまえは、あのときすでに僕を信じてみようとしていた。そうだろう?」
Racingは音無をじっと見つめていた。
カフェは再び、完全な沈黙に包まれた。
やがてRacingは、ポケットから連絡用端末を取り出し、テーブルの上へ置いた。
音無が光に渡したものとよく似た黒い端末だった。ただし、その下部には、紫と黒を基調にしたクロミのチャームがいくつも連なってぶら下がっていた。
光は眉をひそめた。
画面には、送信者名のない暗号化通信の履歴が表示されていた。最後の文字メッセージは昨日で途切れていた。それ以降に届いたのは、今日送られてきた音声ファイル一つだけだった。
「それなら、まずは一度、証明してみせてください」
Racingは、ひどく小さな声で言った。
「昨日から、Riyaと連絡が取れていません。今日になって届いたのは、この音声ファイルだけです」
Racingは自分の腕を強くつかんだ。
「僕に残された猶予は、あと三日しかありません。その間に僕が泉上さんを殺し、MyosotisをStyxへ連れ戻せなければ――Riyaは処分されます」




