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横断歩道を渡った二人は、駅へ抜ける近道となっている脇道へ入った。通りの両側には、年季の入った小さな雑居ビルやマンションが並んでいた。その一階には小さな店がぽつぽつと入っていたが、どこもすでにシャッターを下ろしていた。
道幅はさほど狭くない。だが、この時間帯は人通りがほとんどなく、表通りから外れているため、観光客がわざわざ足を踏み入れるような場所でもない。二人の足音だけが、静かな通りにやけにはっきりと響いていた。
「……つけられています」
ふいに、柊音無が声を潜めた。
「は? 今?」
泉上光は振り向きかけたが、音無にわずかに袖を引かれ、すぐに動きを止めた。
「……何人だ?」
「二人。十一時の方向、路地の入口に一人。もう一人は右後方、四時の方向です。店を出てからずっと、一定の距離を保ったままついてきています。途中で一度、前後を入れ替えました」
「……くそ。よりによって、なんで今なんだよ」
「先ほどまでは小林主任が同行していたので、公安も別に監視役をつけてはいません。井上さんも、首輪の位置情報から僕がどこにいるかは把握できても、ここで何が起きているかまでは分からない可能性があります」
そう言って、音無は前方へ目をやった。
「この道を抜ければ駅です。彼らが仕掛けてくるなら、人目が少なく、防犯カメラの目も避けられる場所は、ここが最後でしょう」
「要するに、墓地のときとまったく同じってわけか」
光は深く息を吸った。その口元には、かえって薄い笑みが浮かんでいた。恐怖はなかった。相手がここで動いたことで、胸の奥に眠っていた闘争心に火がついた。
「大場の人間関係を洗おうとすると、必ず見張られる。そういうことだろ?」
「彼らが僕たちを尾行してきたというより、最初からいくつかの場所に見張りを置いていたのでしょう。末端の人間は、自分たちが何を守っているのかさえ知らされていないかもしれません。受けている命令は、おそらく――泉上とMyosotisが現れたら、何一つ持ち出させるな。次の調査対象にも接触させるな。せいぜいその程度でしょう」
「命令は雑でも、俺たちが正しい方向に進んでる証拠にはなる」
光は、周囲の建物と路地の位置関係を素早く確認した。
「で、どうする? おまえは銃を持ってない。俺も丸腰だ。このままTrigonotisへ向かうのは危険すぎる。いったん警視庁へ戻るか?」
「本来なら、そうすべきでしょう」
「だが?」
「……今は、彼らが大場の手の者なのか、それともRacingが差し向けた人間なのかを確かめたい」
「それで?」
「ですから……」
そこで、音無は足を止めた。
光は二歩ほど進んだところで、音無がついてきていないことに気づいた。訝しげに振り返ると、音無は街路樹の陰に立ち尽くしていた。
「光さんは、そんなに僕のことが嫌いなんですか」
「……は?」
音無はうつむき、右腕を抱くように左手を添えていた。柔らかな黒髪が顔の半分を覆っている。枝葉の隙間からこぼれる木漏れ日が、音無の身体にまだらな光を落としていた。
なぜ突然、痴話喧嘩じみた展開になったのか。光がまだ理解できずにいると、音無の声が再び飛んできた。
「……僕はただ、光さんにあんなところへ行ってほしくないだけです。それの何がいけないんですか!」
音無の声が、静かな通りに響き渡った。少し離れたところで犬を散歩させていた老人が、何事かと怪訝そうに振り返ったものの、そのまま足早に遠ざかっていった。
音無はすぐに顔を背けた。肩だけが、かすかに震えていた。
光は音無をじっと見つめ、その左手へ視線を落とした。しばし黙ったあと、半ば呆れたように息をついた。苛立たしげに頭を掻き、わざと語尾を引き延ばす。
「ったく、おまえさあ。店を出てからずっと説明してるだろ。まだ機嫌直らねえのか?」
「でも! いくら捜査のためだと言われても、真っ昼間からあんな店へ行って、それで僕が納得できると、本気で思っているんですか?」
光の顔から笑みが消えた。表情を消して音無を見据え、一語ずつ突きつけるように告げる。
「――俺たちは、もうとっくに終わってる。十六歳のおまえが、自分の手で終わらせたんだ。今さら何をごちゃごちゃ言ってんだよ」
頭から冷水を浴びせられたように、音無の左手から力が抜けた。指先は右腕をゆっくりと滑り落ち、手首の腕時計にかかったところでぴたりと止まった。
音無はうつむいたままだった。夕方の風に、前髪だけがかすかに揺れている。重苦しい沈黙のなか、場違いなほど穏やかな風だけが吹き抜け、二人の髪と服の裾を揺らした。
「……本当に、そうなんですか」
音無が、かすかな声で尋ねた。
「そういうことだ。首輪をつけたくらいで、俺の信用を取り戻せると思ってるなら大間違いだ。俺には俺で調べることがある。駅はこの先だ。井上先輩のところまで送ってやる。そこから先は別行動だ」
そう言って、光は音無に背を向け、歩き出した。
その瞬間、音無の左手が右手首を強く握り込んだ。
二人の距離が七、八歩まで開いたとき、そのあいだに、あからさまなほど無防備な隙が生まれた。右後方を一定の距離でついてきていた男が、突然足を速めた。同時に、斜め前方の路地の入口にいた男も物陰から飛び出し、光の行く手を塞いだ。
二人は前後から挟み込むように、一気に距離を詰めた。光の正面に立った男は右手を上着の内側へ差し入れ、サプレッサーを装着したグロックを抜いた。
もう一人は、すでに音無の背後まで迫っていた。その手には、黒い樹脂製の拘束バンドが一本握られていた。
何しろ、音無は丸腰で、隙だらけに見えた。Myosotisの象徴ともいえる、あの黒いヴァイオリンケースさえ背負っていない。
――少なくとも、男の目にはそう映っていた。
男が手を伸ばし、音無の肩に触れようとした、その瞬間――その手は空を切った。
右腕に添えていた左手を、音無はさっと離した。いつの間にか半ば外されていた腕時計のバンドが右手首から垂れ、留め具の細い金属ピンが剥き出しになった。
音無はそのバンドを左手で翻し、蜂の針を思わせる金属ピンを、男の親指と人差し指のあいだへ突き立てた。
不意の激痛に、男は反射的に手を引いた。音無は振り向きざまにその手首をつかみ、外側へひねり上げる。同時に腰を落とし、男の腕を肩越しに引き込んだ。
男は踏ん張る間もなく前へ引き崩され、その身体が音無の肩越しに宙を舞った。次の瞬間には、背中から路面へ叩きつけられていた。鈍い音が通りに響く。
その音に、光の正面で銃を構えていた男が、反射的にわずかに視線を向けた。
光は、その一瞬を逃さなかった。大きく一歩踏み込み、左手で銃を握った手首を外へ払った。右手で男の前腕をつかみ、右肩をその肘の内側へ叩き込む。
銃口は光の肩先ぎりぎりを横切り、傍らの壁へ押しつけられた。
男は腕を引き戻しながら半歩退き、間合いを取り直そうとした。だが、光も逃がさない。すぐさま一歩追い、両手で男の右腕をつかみ直すと、銃口を再び壁へ押さえつけた。
「光さん、屈んで!」
光は銃口を押さえ込んだまま、即座に身を屈めた。
音無は背後から駆け込み、屈んだ光の背を踏み台にして宙へ跳んだ。空中で身体を横へひねり、片脚を男の肩越しに首へ回し、もう一方の脚で銃を握る右腕を挟み込んだ。
光が銃口を壁へ押さえつけている間に、音無は前進の勢いを殺すことなく、男の肩口を軸に身体をさらに反転させた。腰を大きく跳ね上げ、頭を下へ向ける。次の瞬間には、男の肩へ絡みついたまま、ほとんど逆さ吊りになっていた。
片膝で男の肘を押さえ、もう一方の脚をその手首へ絡めた。銃を持つ右腕は完全に引き伸ばされ、男の上体が大きく崩れた。
音無は男に体勢を立て直す隙を与えなかった。腕を極めたまま全体重を預け、身体をひねりながら一気に落下した。
男は引きずられるように上体から路面へ倒れ込み、遅れて両膝を強く打ちつけた。極められた腕の痛みと路面へ叩きつけられた衝撃に男の指が開き、グロックが路面へこぼれ落ちる。
音無は男に絡めていた両脚を解くと、勢いを逃がすように身を翻し、片膝をついて着地した。片手で、なおも抵抗しようとする男を路面へ押さえ込み、もう一方の手でグロックを拾い上げた。
「こんな至近距離で腕を伸ばしきるなんて。今のStyxには、C.A.R.システムを教えられる人間すら残っていないんですか。それから――」
音無が銃口を上げると、光は即座に射線から身を外した。その向こうでは、最初に投げられた男が起き上がろうとしていた。
「あなたも、その場にしゃがんで、両手を頭の後ろへ。いいですね?」
光は、音無が押さえ込んでいる男の上着を手早く探った。ポケットからもう一本の拘束バンドを引っ張り出し、思わず笑った。
「へえ。こいつ、俺たち二人とも縛るつもりだったらしいな」
「そうとは限りません。二本とも僕に使うつもりだったのかもしれません」
「ああ。確かに、おまえ相手なら二本くらい要るな。それにしても、今のはマジで肝が冷えたぞ。いきなりあんな無茶すんなよ。何なんだよ、あの技……めちゃくちゃだろ」
そう言いながら、光はまず、音無が押さえていた男の両手首を手際よく拘束した。続いて、銃口を向けられていたもう一人の男も路面へ伏せさせ、その両手首を拘束する。
音無は、その手元を見つめていた。
「……光さん。さっきは、話を合わせてくれてありがとうございました」
「十四の頃からおまえを知ってんだぞ。あれくらい息が合わなきゃ、さすがに情けねえだろ」
光は拘束を確かめながら、呆れたように続けた。
「しかし、よくもまあ、あんな見え透いた芝居に引っかかったもんだな」
「芝居ですか? 光さんの台詞には、ずいぶん本音が混じっていたように聞こえましたが」
「それは……」
だが、音無は先を言わせなかった。
「とはいえ、小林主任や公安の人間がそばにいない隙を狙い、丸腰のMyosotisに喧嘩を売ってきたのは事実です。彼らにしてみれば、銃を持たないMyosotisなど、どうにでもできる相手なのでしょう」
そう言って、奪ったグロックを慣れた手つきで腰の後ろへ差し込もうとした。
「ですが、銃なら、持っている相手から奪えばいいだけです。大した問題ではありません」
光は無言で、音無へ片手を差し出した。
音無は一瞬だけ間を置いてから、素直にグロックをその手へ返した。
「……すみません。つい、癖で」
光はグロックを受け取ると、まずマガジンを抜き、スライドを引いて薬室内の弾丸を排出した。安全を確認すると、銃口を地面へ向けたままスマートフォンを取り出した。現在地と状況を手短に伝えて応援を要請してから、拘束した二人を見下ろし、にこやかに笑った。
「よく聞け。これから楽しいお話の時間だ」
「もっとも、あなたたちが何か話してくれるとは、最初から期待していませんが」
音無は二人の前にしゃがみ込み、柔らかく微笑んだ。
「僕はこれから、あの人に直接会いに行きます。今回の失敗について、あの人が少しでもあなたたちを庇ってくれるよう、せいぜい祈っていてください」




