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小林拓也が柊音無を連れて例の風俗店へ駆けつけたとき、二人の目に飛び込んできたのは、何とも形容しがたい光景だった。
泉上光が数人の女に取り囲まれ、ソファの真ん中に埋もれていた。
ひとりは光の腕に絡みつき、もうひとりはソファ脇に片膝をついて、細い革のベルトを光の手首に巻きつけていた。背後から光の肩に腕を回し、どんなプレイが好みなのかと耳元で尋ねている女までいた。
警視庁捜査一課の警部ともあろう男が、女たちに囲まれて身動きも取れず、途方に暮れているのか、それとも内心まんざらでもないのか、どちらともつかない顔をしていた。
音無は無表情のまま、入口に立ち尽くした。
小林はその光景をしばらく眺めたあと、盛大に鼻を鳴らした。呆れているのか、腹を立てているのか、それとも羨ましいのかは分からない。
いずれにせよ、人を殺しても罪に問われないなら、今すぐ拳銃を抜き、ソファに座る男の全身に風穴を開けていたに違いない。
光は顔を上げ、入口に立つ二人に気づいた。途端に、歓喜のあまり泣き出しそうな顔になった。
「うわ、おまえら、やっと――!」
言い終えるより早く、手首に巻かれたベルトをぐいと引かれた。光の身体はぐらりと傾き、そのままソファへ引き戻された。
音無の肩がぴくりと動き、小林はあからさまに天井を仰いだ。
「みんな一度ずつ試してから決めるって、約束したじゃない?」
「いつ俺がそんな約束した!? 一人ずつ話を聞きたいって言っただけだろ!」
「それって、私たち全員に興味があるってことでしょ? 口ではそう言ってても、身体のほうは正直かもしれないわよ?」
女たちがどっと笑った。
光は助けを求めるように音無へ目を向けたが、音無はその視線をきれいに無視した。代わりに、うんざりしきった顔で立っている小林へ丁寧に頭を下げた。
「どうやら、光さんの身に危険はなさそうです。わざわざここまで送っていただいて、申し訳ありませんでした」
光は勢いよくソファから立ち上がり、小林の腕をつかんだ。
「主任! 違うんです、これは!」
小林は容赦なくその手を振り払った。
「井上にはもう連絡した。ここから先は、おまえが柊顧問を見てろ。それから、自宅待機中だからって、こんな生活をしていいわけじゃないぞ」
「主任、本当に俺は――」
「せいぜい楽しめ。来月、交通課に飛ばされても文句は言うなよ」
「ちょ、主任、そりゃないでしょう! 交通課に飛ばされるのはいいとして――いや、よくないですけど、約束した件だけは絶対に調べてくださいよ!」
小林は答えなかった。
そのまま一度も振り返らず、店を出ていった。風俗店の扉が背後で閉まると、光はしばらくその扉を見つめていた。
小林が戻ってくる気配がないことを確かめ、ようやく振り返る。
音無が、冷ややかな目でこちらを見ていた。
「それで、僕を呼びつけたのは、これを見せるためですか。ご自分でどうにかすればよかったでしょう」
音無は静かに言い、光と自分のあいだで興味深そうに視線を往復させている女たちへ目を向けた。その声には、珍しくわずかな苛立ちが滲んでいる。
「光さんが女性に人気なのは、初めて会った日から知っています。今さら、わざわざ僕を呼びつけて証明していただかなくても結構です」
音無は踵を返し、そのまま店を出ようとした。
光は慌てて追いかけ、両肩をつかんで引き止める。
「おまえを呼んだのは、大場の件に決まってるだろ。何を拗ねてるんだよ」
「……一体、何を調べるために、これだけ大勢を相手にする必要があったんですか」
光は片手で顔を覆った。
それから、カウンターの向こうにいる女たちへ、ありったけの愛想をかき集めて笑いかけた。
「お姉さんたち、奥の個室、ちょっと借りていい? 十分でいい。さっきの約束どおり、料金はちゃんと払うから」
「やだ、お兄さん。うちの子じゃない相手を連れ込むなら、部屋代は倍よ?」
女は意味ありげに音無を見た。
青年の首元にはまった黒い電子首輪は、否応なく目を引く。そこへ、やけに整った顔立ちまで加われば、余計な想像をかき立てるには十分だった。
「オーケー、オーケー。問題ない」
光は身体を強張らせた音無の背中を押し、店の奥へ向かった。
個室は狭く、壁には暗赤色のクッション材が張られていた。隅には横長のソファと低いテーブルが置かれ、壁には、何に使うのかよく分からない縄や革のベルト、金属製の留め具が掛けられていた。
光は扉を閉めて内側から鍵をかけ、ようやく安堵の息をついた。
「おまえ、どうして主任と一緒に来たんだ?」
「Racingが働いているカフェへ、小林主任をお連れしました。ただ、あの場では、彼がRacingだとは明かしていません。店にいるあいだに、小林主任ともRacingとも、別々に話をしました」
音無は光へ向き直った。
「収穫はありました。僕たちが追っていた計画の名称が分かったんです。Myosotis Protocol-5。資料によっては、MP-5というコードで記録されている可能性もあります。情動反応が基準値を上回ると判定された年少の暗殺要員を対象に、その反応を段階的に鈍麻させ、痛覚への耐性を高め、空間認識能力を最適化するための訓練プロトコルです」
「大場にどうつながる?」
「主導者のコードネームまでは教えてくれませんでした。本当に知らないのか、それとも知っていて伏せたのかは分かりません。そこから先は、僕たちで調べるしかありません」
「あいつとは、もう一度きちんと話す必要があるな」
光はうなずいた。
それまでの慌てぶりが嘘のように表情を引き締めると、テーブルに置かれていたミネラルウォーターの蓋を開けた。一口飲んでから、ソファへ腰を下ろす。
「……じゃあ、こっちの話をする」
光は、午前中に木村と会った経緯から、蕎麦屋の洗面所で佐倉から聞き出した話まで、要点をかいつまんで音無に伝えた。
蕎麦屋を出たあと、光は佐倉から聞いた住所を頼りに、この店を訪れていた。
客として店へ入り、その日出勤していた女を何人か順に指名した。もちろん、金を払って客になったからといって、常連客の名前をすぐ教えてもらえるはずもない。こうした店だからこそ、客の身元や嗜好は簡単に漏らしてはならない情報だった。
それでも、金を惜しまず、相手ごとに尋ね方を変えていけば、曖昧な輪郭くらいは拾い集められる。
「女たちは、男の名前までは口にしなかった。だが、年齢も、身長も、乗ってる車も、来店する時間帯も、佐倉の話と一致した。それに、木村はこの店に来ても遊びもせず、昔の常連客についてひたすら聞き回ってる」
「その常連客が、大場ですか?」
「違う。大場の写真も見せたが、見覚えのある女はいなかった。木村が何度も聞いているのは、別の男だ。古株の一人が、そいつのことを覚えてた。いつもS側を希望していて、以前、酔った勢いで、自分は警察官だと自慢したことがあるらしい」
「……まさか、あの署には、そういう趣味の人間ばかり集まっているとでも?」
「それなら話は早いんだけどな」
光はミネラルウォーターをテーブルへ戻した。
「だから、俺たちは最初から見方を間違えてたんじゃないかと思ってる。大場が何度も二丁目へ通ってたのも、本人がそういうプレイを好んでたからとは限らない。川瀬だって、自分の意思でああいうことに関わったとは限らない」
わずかに身を乗り出した。
「少なくとも、もう『二人の性癖』の一言で片づけるわけにはいかない。特に川瀬だ。あの人がどうやって死んだのか。どうして木村は、それをひと言も口にしない?」
「木村さんは、大場の存在自体は隠しませんでしたね」
音無は少し考えてから答えた。
「大場については、いずれ正規の照会で経歴が明らかになると見越し、先に話して恩を売った。ですが川瀬については、人事記録にたどり着いたところで、死の経緯までは通常の手段では追えないと踏んでいる。だから、最初から何も話さなかった」
「俺も同じことを考えてた。川瀬が死んだ年の新聞記事を片っ端から洗う手もあるが、おそらく何も出ない。俺に思いつく程度の手を、木村が想定してないとは思えない」
そう言うと、光は音無を真っ直ぐに見た。
「音無。もう一度確認するぞ。FYIに襲われたとき、おまえにつけられていた首輪が、本当に二丁目にあったあれだったと、今でも思うか?」
「……あのときは、意識がひどく混濁していましたから」
「二丁目の首輪の内側には、K.N.と刻まれていた。大場と川瀬の写真の裏にも、同じK.N.が書かれていた。ここまで揃っても、あの血が本当におまえのものだと思うか?」
音無は答えなかった。
「Trigonotisも言ってただろ。あれは、中高生くらいの少年か、細身の女なら着けられるサイズだって。俺たちがあれをおまえの首輪だと思ったのは、サイズがだいたい合ってたことと、おまえの首に噛み傷が残ってたこと。それだけなんだよ」
「では、どうするつもりですか」
「まずやるべきは、首輪に付着した血痕のDNA型鑑定だ。おまえから試料を採取して照合し、血痕がおまえのものかどうかを確かめる」
「劣化や汚染で、まともな型が取れない可能性もありますが」
「それでもやる。血痕からDNA型が取れて、おまえと一致しなければ、少なくとも、あの血がおまえのものじゃないと分かる。そうなれば、川瀬との関連も視野に入れて、あの首輪を洗い直す価値が出てくる」
「川瀬さんの死は……SMプレイを装った暴行と関係している、とお考えですか」
「まだ分からない。ほかにも考えられることはある。ただ、今までみたいに、大場は縛られるのが好きだっただけだと決めつけることはできない」
光は腕を組み、ソファの背もたれへ身体を預けた。
「何より妙なのは、どうして関係者はこの件になると揃って口をつぐむのかだ」
「事件の性質が特殊だったからでしょうか。被害者が警察官だったから、とか。あるいは、遺族が公になることを嫌がったとか……」
「それだけじゃ説明がつかない。二〇〇四年当時でも、遺体に明らかな拘束痕や頸部の圧迫痕、外傷が残っていれば、普通なら検視の段階で問題になる。犯罪死の疑いがあれば、司法解剖に回されてもおかしくない」
光の声から、次第に感情が消えていった。
「最初は合意のあるプレイだったとしても、その範囲を越えた暴行で死亡させれば、傷害致死が問題になる。過失なら過失致死だ。殺意があったなら、合意のあるプレイだったという言い訳では済まない。仮に殺されることへの同意まであったとしても、同意殺人という別の犯罪になる」
指先で、自分のこめかみを軽く叩いた。
「二十一年だぞ。時効が停止するような事情でもないかぎり、傷害致死も過失致死も、同意殺人も、すでに公訴時効が完成してる。今から川瀬の死について誰かを立件するなら、殺人として構成できるだけの証拠が要る。
それなのに、木村たちは、こっちに事件を掘り返されたくないように見える。だったら、隠したいのは、川瀬が警察官だったことでも、どんな性癖を持っていたかでもない。あいつらが隠してるのは――川瀬奈緒が、どうやって死んだのかだ」
「では、最初の段階で、誰かが事故死として処理した……?」
「分からない。今のところ、木村が何度もこの店へ来るのも、当時の真相を追ってるからかもしれないし、店の人間がどこまで覚えてるか確認してるのかもしれない。誰かのために、今も残ってる痕跡を処理してる可能性だってある」
光は小さく首を振った。
「それでも、川瀬の死そのものには関わってない気がする。たぶん、あとから上に送り込まれたんだ。事情はある程度知らされていても、肝心なところまでは知らない。そういう使い勝手のいい火消し役なんじゃないか」
「では、当時の大場は、この件をきっかけに警察に見切りをつけ、Styxへ入ったのでしょうか」
「さあな。一応、そう考えれば筋は通る。しかもその頃、親父は病気の母さんと、まだ小さかった俺のことで頭がいっぱいだった。あの二人のあいだで何があったのかなんて、誰にも分からない」
光はそこで言葉を止めた。
「でも、大場は十二年も待ったんだ。何を待ってた? それとも、ただ――」
「もう、待てなくなった」
音無が、静かにその先を継いだ。
「それが、大場が光さんのお父さんを殺すと決めた理由なのではありませんか」
二人のあいだに、長い沈黙が落ちた。
やがて、音無が立ち上がった。
「……行きましょう、光さん。二丁目へ。もう一度、Trigonotisに会うんです」
「何か聞き出せると思うか?」
「大場がどんな結び方を指定していたか、何を話していたか、どんなプレイをしていたか。Trigonotisなら覚えているかもしれません。その細部が、当時の検視調書や、Styxに残された任務記録と結びつく可能性があります」
音無は扉へ向かいながら続けた。
「そこから大場の行動をたどれれば、真相にもう一歩近づけるかもしれません」
「ああ。行こう」
光もソファから立ち上がった。
個室を出ると、濃い香料と革の匂いが、再び二人にまとわりついた。
音無は思わず歩調を速めた。
先ほど光を取り囲んでいた女たちは、あっという間に個室から出てきた二人を見比べた。驚いたように目を丸くしたあと、光へ、どこか同情のこもった視線を送る。
店を出た途端、盛夏の熱気が容赦なく押し寄せてきた。
音無は深く息を吸った。自動車の排気ガスが混じった外気さえ、店内の空気よりはよほどましに思えた。
「おいおい、少しゆっくり歩けって。俺がこういう店に来たのが、そんなに気に入らないか?」
光は、少しおかしそうに音無の背中へ声をかけた。
「……別に。光さんが誰と付き合おうと、どんな店で息抜きしようと、光さんの自由です」
音無の声は、いつもよりわずかに低く、くぐもっていた。
「おい。ひょっとして、まだ小清水のことを気にしてるのか?」
「まさか。僕が桜咲に在籍していたのは一か月だけでしたが、小清水さんのことは覚えています。きれいで、スタイルもよくて、光さんにはよくお似合いでした」
音無は足を緩めないまま続けた。
「もし光さんが最初に出会ったのが彼女だったなら――痛っ」
光は音無の髪を、ぐしゃぐしゃにかき回した。
「俺と小清水が付き合ってたのなんて、三週間だけだ。おまえが興味あるなら、全部片づいたあとでゆっくり話してやるよ」
「結構です」
「俺もそう思う」
光はあっさりとうなずいた。
「十六のガキが、優しくてきれいな女の子と付き合いながら、頭の中じゃ、何も言わずに消えた別の男のことばかり考えてた。そんな話だからな」
光は少し笑った。
「親父も恋人も失った自分が、世界で一番かわいそうだと思ってた。だから、自分に優しくしてくれる人間に片っ端からしがみついて、まだ普通に生きられるふりをした」
その笑みが、わずかに苦いものへ変わる。
「結果は散々だ。あの子を泣かせて、しまいには裁判官の親父さんまで本気で怒らせた。俺が未成年じゃなかったら、職権を濫用してでも、俺を刑務所へぶち込んでたかもな」
「驚きました。光さんは、見事なまでの人でなしだったんですね」
音無は真顔で前方を指した。
「前の歩行者用信号、まだ赤ですよ。今のうちに交差点の真ん中まで出てみては? ちょうど大型トラックも来ています」
「人でなしだったのは否定できない。この件だけは、どう言い訳しても無理だ」
光の声から笑いが消えた。
「十六の俺は、自分の悲しみに浸ることしかできなくて、誰ひとり守れもしないくせに、周りの人間ばかり傷つけてた。ただのガキだった」
そう言いながら、光は音無の手を握った。
ほんの一瞬、確かめるように指を絡めたかと思うと、すぐに離した。
音無は足を止めかけた。
「でも、今は違う。俺たちはもう大人だ」
光は前を向いたまま言った。
「だから……もう、相手のためだと勝手に決めつけて、傷つけるような真似はやめよう。黙って消えるのもなしだ。俺も、おまえもだ」
そう言って、光は先に歩き出した。
少し先で、歩行者用信号が赤から青へ変わった。
横断歩道の両側から人の波が動き出し、道の中央で交わった。




