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Myosotis 〜 過去は、まだ引き金を握っている 〜  作者: Bpch


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Racingは、銃口を外す気配すら見せなかった。柊音無の言葉など意に介さないかのように、江沫の黒い瞳は、その一挙一動をじっと追っている。


こちらが少しでも抵抗する素振りを見せれば、Racingはためらいなく引き金を引くだろう。表にいる警察官も店長も、彼にとっては取るに足らない存在にすぎない。


退路を塞ぐ障害物が二つある。迂回できなければ、二発で排除する。


迅速に、痕跡を残さず。Styxが作り上げた殺人機械なら、そう判断するはずだった。


だが――。


「江沫。本当に、それでいいのか」


「警察官を連れてきて、言いたいことはそれだけですか。それから――」


Racingの声は、さらに冷たさを増した。


「その名前で呼ばないでください。先輩の発音は、あまりにもひどいので」


「怒っているんだな。なぜだ?」


「先輩が、僕たちの約束を破ったからです。僕は泉上さんを殺さない。その代わり、先輩は僕の生活に干渉しない。お互いの領分には踏み込まない――そういう約束だったはずでしょう」


「なるほど」


音無はうなずいた。


「だが、おまえの言う『殺さない』には、光さんの生活を隅々まで調べ上げ、毎週のようにスコープ越しに私生活を覗くことまで含まれているのか?」


「……」


「それなら、僕が後輩のアルバイトぶりを間近で見に来たところで、さほど不公平でもないだろう」


音無は口元だけで笑った。


「こちらはスコープすら使っていない。十分、配慮したつもりだ」


Racingが口を開くより先に、音無は続けた。


「よく聞け。先日、光さんと交わした会話は、すべて録音されている。いずれ警視庁も、おまえにたどり着く」


Racingは何も答えなかった。


「このまま先延ばしにしていれば、おまえは僕の敵に回ることになる。僕はそんなことを望んでいない。だから今、どうしても一度、おまえに会っておきたかった。迷惑だったなら謝る」


「それで?」


「警視庁を出るまでは、どうやっておまえから銃を奪い、そのまま外にいる刑事へ引き渡すかを考えていた」


音無はひとつ息を吸った。


「だが今日、おまえが江沫と呼ばれ、ここで働いている姿を見て、気が変わった。

……江沫。日本人の名前には聞こえないな。

せっかく、そんなきれいな響きの名前を持っているのに――なぜわざわざ、『九三・七パーセントの柊音無』になろうとする?」


脇腹に押し当てられていた銃口の圧が、ほんのわずかに緩んだ。


Racingが初めて、接客用ではない笑いを漏らした。


乾いた小枝が折れるような、かすかな笑い声だった。


「まるで、先輩が自ら進んでMyosotisになったかのような言い方ですね」


Racingの声に、鋭い嘲りが混じった。


「自分から、懲罰室に縛りつけて、手首を切って、精神的に追い詰めてくれとでも頼んだんですか? ずいぶん変わった趣味をお持ちで」


Racingがこれほど生々しい感情を露わにしたのは、出会って以来初めてだった。音無にとっては、むしろ好ましい兆候だった。


「もちろん、僕だって望んだわけじゃない」


音無は淡々と答えた。


「あの頃の僕たちには、選ぶ余地がなかった。だから今、せめておまえには一度くらい、自分で選ぶ機会を与えたい」


「先輩を殺すことも、選択肢の一つです。少なくとも、Styxからの信頼は得られる」


「Styxからの信頼なんて、おまえにとって何の価値もない。そうでなければ、とっくに引き金を引いているだろう」


音無は視線だけを落とし、脇腹に向けられた銃口を見た。


「狙撃手だからといって、殺す手段が銃に限られるわけじゃない。その爪の隙間には、まだ薬剤の粉末が残っている。それなのに、僕のココアには何も入れなかった。それが、おまえの答えだ」


布の間仕切りの隙間からは、小林拓也の肩が半分ほど見えている。二人を視界から外さないよう、椅子を厨房の正面へ移したらしい。


音無は銃身に指を添え、銃口をゆっくりと脇へ逸らした。Racingはそれを止めなかった。


そこで初めて、音無はゆっくりとRacingへ向き直った。そのままRacingの耳元へ顔を寄せ、ある名を囁く。


「――Riya。そうだろう?」


Racingが鋭く音無を睨んだ。


「おまえが守ろうとしている相手だ。彼女はまだStyxにいる。彼女を守りたいという思いが、おまえをここまで踏みとどまらせている。だが同時に、おまえはそれを、動かないための言い訳にもしている」


音無はRacingから身を離した。


「そしていずれ、彼女はStyxがおまえを動かすための切り札になる」


傍らのオーブンを叩くと、こん、と乾いた音が狭い厨房に響いた。


「おまえは、自分で思っているほど冷たい人間じゃない。江沫として残った六・三パーセントは、今もちゃんと働いている。そういう意味では、おまえも僕も同じだ。感情に振り回される不良品同士だろう?」


長い沈黙のあと、Racingは鼻で笑った。


「……D級の情報官にすぎないくせに」


音無を見据え、冷ややかに続けた。


「懲罰室へ放り込まれ、そこで自分の身体から採取されたデータが何に使われたのかも知らない。てっきりこの数年は、あの警察官がどこの大学へ進み、どこの署に配属されたのかを調べるだけで手いっぱいなのだとばかり思っていました」


「僕にも、力の及ばないことはある。結局、僕もただの人間だ。Styxが望んだような万能兵器じゃない。

だが、Myosotisの行動パターンを再現する実験――その名称と主導者を教えてくれれば、僕にもまだできることがあるかもしれない」


「――顧問、あと一分だ」


間仕切りの向こうから、小林の声が飛んできた。


「すぐ戻ります」


音無はすぐに声を張って答えたが、視線はRacingから外さなかった。


「……教えたら、それからどうするんです?」


Racingの視線が、音無の首元へ落ちた。


「先輩と一緒に、警視庁に飼われる犬にでもなれと? その首輪を見るかぎり、あまり待遇はよくなさそうですが」


「そうだな」


音無はあっさり認めた。


「だが、少なくとも僕の首輪は、僕自身の首に嵌まっている。おまえを縛っている首輪は今、誰の首に嵌まっている?」


音無は首を振った。


「僕のことは今はどうでもいい。だが、おまえが話す気になったなら、その首輪を外す方法は必ず考える」


「どうせ先輩は、最初から生き延びるつもりなんてないんでしょう。

ここまで話したのも、僕を自分の側へ引き込むためでしょう。自分が死んだあと、僕に泉上さんを陰から守らせたい。それだけでは?」


音無は答えなかった。


Racingの口調は相変わらず冷淡だったが、先ほどまでの剥き出しの敵意は薄れていた。それで十分だった。少なくとも、話は音無の思惑どおりに一歩前へ進んでいた。


音無はそれ以上、Racingを問い詰めなかった。今ここで追及を重ねても、答えは得られない。


小林が痺れを切らして厨房へ入ってくれば、話はさらに面倒になる。


Racingには考える時間が必要だった。音無自身にも、引き返す余地を残しておく必要があった。


音無は緩んでいたねじにドライバーを差し込み、半回転ほど締め直した。それから、店内まで届くよう、わざと声を張った。


「今後また同じ症状が出た場合は、まず電源を抜いてから、ここの固定ねじを締め直してください。ただ、留め具そのものがかなり摩耗しています。できるだけ早く、留め具ごと交換したほうがいいでしょう」


「承知しました。ご説明ありがとうございます」


音無はドライバーを置き、布の間仕切りをくぐって厨房を出ようとした。


「――Myosotis Protocol-5」


背後からRacingの声がした。


音無は足を止めた。


「資料によっては、MP-5というコードで記録されているかもしれません。検索しても短機関銃の情報に埋もれるよう、わざとそうしたのでしょう。見つけられなかったのも無理はありません」


音無は振り返らないまま、続きを待った。


「感情反応が過剰だと判定された年少の暗殺者を訓練するためのプロトコルです。アルゴリズムに従って情動反応を段階的に削ぎ落とし、痛覚への耐性を高め、空間認識能力を最適化する……」


Racingの声は、次第に小さくなった。


「主導者が誰かは知りません。そこから先は、自分で探してください。どうせ、複数いるLeaderのうちの誰かでしょう」


「ありがとう。Riyaのことは、僕が手立てを考える」


Racingは答えなかった。すでに顔を伏せ、再びオーブンへ向かって工具を動かし始めている。前髪が目元にかかり、手を動かすたびにわずかに揺れた。


そのとき、着信音が鳴った。


音無はポケットからスマートフォンを取り出した。画面に表示された名前を見た瞬間、目元の緊張がわずかに解ける。店内へ戻りながら電話に出ると、声も自然と和らいだ。


「もしもし、光さん?」


「早く、助けてくれ――! くそっ、やべえ、うわっ……!」


切迫した声が、電話の向こうから飛び込んできた。


音無は一瞬、言葉を失った。店内で待っていた小林へ目を向けると、足を速め、スマートフォンを耳に強く押し当てた。

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