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柊音無と小林拓也が、Racingのアルバイト先であるカフェに入ると、ドアベルが澄んだ音を立てた。
Racingはカウンターの奥に立ち、エスプレッソマシンの調整をしていた。エプロンを身につけ、袖口からは筋の通った手首が覗いている。黒い瞳は、マシンの圧力計をじっと見つめていた。
ドアベルの音に気づき、Racingが顔を上げる。
そして、音無を見た。
「……いらっしゃいませ」
Racingは接客用の笑みを浮かべ、メニューを手に二人のテーブルへ歩み寄った。
小林はメニューを受け取り、しばらく眺めてから苦笑した。
「コーヒーってのは、豆の名前が多すぎて困るな。娘と一緒のときは、いつもあいつに選ばせてるんだ。カフェインが少なめで、酸味も弱いのはあるか?」
「酸味が苦手でしたら、ブラジル豆をベースにした深煎りのブレンドがおすすめです。ナッツやチョコレートを思わせるコクがあり、酸味も控えめです。カフェインも気になるようでしたら、デカフェもございます」
「じゃあ、デカフェで。酸味はできるだけ弱め。ミルクを多めにしてくれ。それと、ホットサンドを一つ。朝飯を食う暇がなかったんだ」
小林はメニューを閉じた。
「顧問は?」
「僕はホットココアを」
「ココア? 顧問なら、俺より豆に詳しいと思ってたんだが」
「苦いものはあまり好きじゃないんです。でも、豆を煎ったときの香りは好きなので。そういうときはココアを選びます」
音無はRacingを見た。手元のメニューを閉じ、相手の前へ押し戻す。
真っ直ぐ見返したまま、温度のない声で告げた。
「ですから、僕が頼んだのはココアです。くれぐれも、取り違えないでくださいね」
「酸味を抑えたデカフェを、ミルク多めで一つ。ホットココアを一つ。ホットサンドを一つですね」
そのとき、店の奥から店長の悲鳴が響いた。
「うわああっ! オーブン、頼むから持ってくれええ!」
金属を何かで叩くような音が続き、ほかの客たちが一斉に顔を上げる。
Racingはメニューを受け取り、二人に軽く一礼すると、店の奥へ向かった。
店長の嘆きは、まだ続いていた。
「なんでまた壊れるんだよ……! これ、この前替えたばっかりだぞ……!」
しばらく、聞き取れない呟きと、工具が金属にぶつかる音が続く。
「定価の二割で買えたんだから、十分得だっただろ……! 誰が安物買いだって……?」
音無は少し身を乗り出し、布の間仕切りの隙間から奥を覗いた。
動かなくなったらしいオーブンの前に、Racingが立っている。
その後ろでは、四十代ほどの男が、粉まみれのエプロンをつけたまま頭を抱えていた。乱れた髪といい、落胆しきった表情といい、そのまま漫画から抜け出してきたような姿だった。
「僕にオーブンは直せません。今度こそ、新品の購入を真剣に検討してください。このままでは、お客様が来なくなります。それと、仕事中に大声を出すのはやめてください。お客様の迷惑になります」
Racingはマスクを着け、作業台の前へ移動した。
店長の騒ぎを背後に、何事もなかったように注文の準備を始める。
「分かってるよ! でも本当に困ってるんだって! おまえにまで辞められたら、俺はどうすればいいんだよ。もうこの店でまともに動くの、おまえしか残ってないんだぞ! いつかオーブンが爆発したら、一緒に新宿で担担麺の店をやろうな!?」
「そんな恐ろしいことを言わないでください。注文に取りかかります」
マスク越しのRacingの声は、少しくぐもっていた。
「でも、お客さんのホットサンドが……」
「あの、すみません」
音無は軽く手を上げ、途方に暮れている店長へ会釈した。
「オーブンの故障でしたら、僕にも何かできるかもしれません。直せるとは限りませんが、見るだけ見てみましょうか。小型のものなら、こちらへ運んでいただけますか?」
そう言って、小林を見る。
小林は音無を見つめ、次いで、その首元の首輪へ目をやった。
それから椅子の向きを変え、音無とRacingが視界から外れないことを確かめてから、黙ってうなずいた。
店長は勢いよく奥へ引っ込んだ。やがて、コンセントを抜いた卓上型の業務用オーブンを抱えて戻ってきた。
白い塗装は古びて黄ばみ、取っ手には何重にもテープが巻かれていた。つい先ほどまではどうにか動いていたものの、いつ寿命を迎えてもおかしくない。
定価の二割という値段に、いかにもふさわしい姿だった。
「お客さんにこんなことまでお願いして、すみません。でも、本当に助かります!」
店長はオーブンをカウンター脇の作業台に置き、揉み手をした。
「江沫は手際はいいんですけど、オーブンのことになると、まるで駄目でして……」
「誰にだって得手不得手はありますから。僕も直せるとは限りませんが、やるだけやってみます。このままでは、今日の営業にも差し支えるでしょうし」
江沫。
その名前を耳にした瞬間、音無はカウンターの内側に立つ青年へ、さりげなく目を向けた。
本名を呼ぶ店長の声など、聞こえなかったかのように、顔色ひとつ変えず手元の作業を続けている。スチームノズルが鋭い音を立て、白い蒸気が細く立ち上る。その横顔が、熱気の向こうでぼやけて見えた。
「江」という姓は、以前、光から聞いていた。しかし、江沫というフルネームを、本人を前にして耳にしたのは初めてだった。
少なくとも、日本人の名には聞こえない。もっとも、本人が適当につけた名前なのかもしれない。
それでも、名前はある。
それなのに、なぜ江沫は、「九三・七パーセントの柊音無」などにされなければならなかったのか。
音無はオーブンの扉を二度ほど開け閉めした。閉じても、扉の上部には細い隙間が残る。指先で触れると、留め具がかすかにぐらついた。
扉を押さえつけ、少し力を加える。押し込まれずにいたドアスイッチが、かちりと鳴った。
しかし、先ほどの問いに、初めから答えなどない。
線路に縛りつけられたまま、遠くから近づいてくる列車の汽笛を聞きたい人間などいない。
レールから伝わる振動は、刻一刻と激しさを増していく。それでも、逃げることも、自力で拘束を解くこともできない。
彼らは、線路のポイントを切り替える側ではなかった。ただ列車が少しでも遅く来ることを祈りながら、線路から逃れようと必死に足掻いていただけだ。
音無はオーブンから手を離した。
「やり方を変えたほうがいいのかもしれませんね」
「え?」
「扉の留め具が緩んで、閉めてもドアスイッチが押し込まれないようです。工具箱はありますか?」
「あります、あります! もちろん!」
店長は跳ねるように踵を返し、隅に置かれた工具箱を探り始めた。
音無は何気なく、カウンターの内側へ目を向けた。
江沫は泡立てたミルクを、コーヒーカップへ注いでいた。
白いミルクフォームが、褐色の液面にきれいな円を描く。カップの縁に浮かんだ細かな泡が、次々と弾けて消えていった。
RacingとMyosotisとして向き合うかぎり、二人が選べるのは、Styxに教え込まれたやり方だけだ。
だが、目の前にいる彼が江沫で、ここにいる自分が柊音無であるなら――。
やがて、オーブンが再び低い作動音を立てて動き出すと、店長は大きく安堵の息をついた。
「よかったぁ……!」
今にも泣き出しそうな顔で何度も頭を下げ、「お礼ですから」と二人分の代金を受け取ろうとしなかった。
これで本当に商売になるのだろうか。
内心、少々心配になったものの、音無は店長の厚意を無下にすることもできず、手を洗って席へ戻った。
テーブルには、Racingが運んできたホットココアがすでに置かれていた。白い湯気が細く立ちのぼり、小さなテーブルの上でゆっくりとほどけている。
向かいに座る小林は、珍しいものでも見るように音無を眺めていた。本気でオーブンの修理に乗り出したことにも驚いたらしいが、まさか本当に直すとは思っていなかったのだろう。
「見かけによらず、器用なんだな。前にああいう仕事でもしてたのか?」
「いいえ。情報官といっても、四六時中、端末の前で情報を漁っていたわけではありません。身分を偽って対象に接触することもありましたから。必要に迫られて覚えたことが、少しずつ積み重なっただけです」
「なるほどな」
小林は周囲へ目を配った。両隣のテーブルに客はいない。カウンターの奥では、エスプレッソマシンの作動音に、ほかの客たちの話し声が重なっていた。
「おまえのことは、井上と泉上からある程度聞いてる。だが、本人の口から聞いておきたいこともある」
「何でしょうか」
「おまえが何者で、どこから来て、これから何をするつもりなのか。そのあたりだ」
「僕はかつてStyxに所属し、情報官を務めていました。内部情報の提供は、公安が僕を協力者として受け入れた条件の一つです。現在は、大場事件の真相解明に協力しています」
「ほかには?」
「公安との取り決めに関わる内容については、井上さんの立ち会いなしにお答えできません。必要であれば、改めて時間を設けてもらえるよう、僕から井上さんに伝えます」
「……まったく隙がないな。午前中も、その調子で課長を煙に巻いたのか?」
「煙に巻いてはいません。事実を申し上げただけです。
ただ、僕は大場譲治の殺害には関与していませんし、佐藤太郎を襲うよう誰かに命じたこともありません。この二点だけは断言できます」
「その二件には関わっていない、か。じゃあ、ほかは?」
「それについても、公安への正式な照会を通じてご確認ください」
そのとき、Racingがホットサンドを運んできた。
「お待たせしました」
白い皿が二人の間に置かれる。香ばしく焼けたパンの切り口から、溶けたチーズがわずかに覗いていた。
Racingは一礼し、再びカウンターの奥へ戻っていく。
その背中を見送ってから、小林はホットサンドの片割れを手に取った。
「おまえが現れてから、泉上のやつまで隠し事を覚えやがった。あいつは昔から、腹芸とは縁のない男だったんだ。それが今じゃ、肝心な情報はこっちに上げない、勝手な真似はする、挙げ句、上司にまで小細工を仕掛ける始末だ」
「申し訳ありません。ですが、それは光さんの落ち度ではありません」
「ほう?」
「状況が複雑すぎるんです。真相が明らかになる前に情報を渡せば、取り返しのつかない結果を招くかもしれない。彼が警戒しているのは、その点でしょう」
「違うな。あいつが警戒してるのは、捜査を誤ることじゃない。心配してるのは事件の行方でもない。別の誰かだ」
「……そうでしょうか」
「そうだろ。今朝も監察から出てくるなり俺のところへ飛んできて、おまえは佐藤襲撃とは無関係だと騒いでたぞ。ろくな根拠も示せないくせにな。あいつはずいぶん、おまえに肩入れしてるらしい」
「……小林主任。事実に嘘を混ぜて、鎌をかける必要はありません」
音無は小林の目を見返した。
「光さんが何ひとつ根拠を示さなかったのなら、小林主任はわざわざ僕に会おうとはしなかったはずです。山葉課長による任意聴取が終わったあとで、改めて僕と話す理由もない。
少なくとも、あの録音は受け取っているのでしょう。違いますか」
小林は口元をわずかに緩めた。否定も肯定もせず、ホットサンドを持ったまま音無を見つめる。
「なあ。おまえは、いったい何から逃げてる?」
「何のことでしょう」
「泉上がおまえを庇ってる。おまえを心配してる。俺がそう言うたびに、おまえは何とかして、そんな事実はないことにしようとする」
「……なぜ、急にそのような話になるんですか」
「証拠はない。だが、おまえはStyxを抜けた元情報官で、その前は狙撃手だった。今は公安の顧問で、課長に目をつけられている。それを泉上が、あそこまで庇う。
そこまで揃えば、嫌でも昔の事件が頭に浮かぶ」
「……」
「おまえが泉上の前に戻ってきた本当の理由は、あの事件なんじゃないのか」
音無は答えなかった。
「もし俺の読みどおりなら、おまえはずいぶん卑怯なことをしてるぞ」
「……何がですか」
「泉上は刑事だ。裁判官でもなければ、おまえの処刑人でもない。おまえを逮捕するか、どんな罪に問うか。それをあいつ一人に決めさせる筋合いはない」
小林はホットサンドを一口かじった。
「自分を罰したいなら勝手にしろ。だが、その罰を決める役まで、親父を殺された息子に押しつけるな」
「……光さんに責任を押しつけるつもりはありません。それに、今は大場事件の話をしているはずです」
「関係ないわけがあるか。おまえと泉上がここまでこじれてるのは、結局、あの事件があるからだろう」
小林は口の中のものを飲み込むと、音無を指さした。
「おまえは、相手が何を知ればどう動くか、先回りして読みすぎる。だが、誰もがおまえの想定どおりに動くわけじゃない。泉上なら、なおさらだ。そこまでいくと、頭が切れるというより傲慢だぞ」
「……その言い方は、適切ではないと思います」
「なら、どこが違うのか説明してみろ」
小林は返事を待たず、続けた。
「おまえは大場を撃っていない。佐藤を襲えと命じてもいない。だったら、今のおまえは黙って疑われる側じゃない。知ってることを出す側だ。
Racingはどこにいる。どうすれば会える。どうすれば、あいつに本当のことを話させられる?」
音無はすぐには答えず、カウンターへ目を向けた。その奥では、Racingが何事も耳に入っていないような顔で、同じグラスを、もう磨く必要もなさそうなほど丁寧に拭いていた。
「……居場所を突き止めるだけなら、難しくありません。ですが、接触できたとしても、大場事件の真相へたどり着けるとは限らない。口を開くとも限りません」
「そこから先は、おまえが心配することじゃない。Styxの殺し屋だろうと、結局は人間だ。人間なら、自分から口を開く理由の一つや二つはある。それを見つけるのが、俺たち刑事の仕事だ」
「……人間なら、ですか」
音無は親指の腹で、人差し指の爪の縁をゆっくりとなぞった。
「分かりました。彼に話す意思があるなら、公安だけで情報を抱え込まず、刑事部の人間にも直接、話を聞ける場を設けます」
「最初からそうしろ」
「ただし、本人にその意思がないまま接触すれば、周囲の人間を危険にさらすおそれがあります。彼はまだStyxを離れていない――現役の殺し屋ですから」
「なら、危険性を判断するために必要な情報も、まとめて出せ」
小林は残りのホットサンドを食べ終えると、紙ナプキンで指を拭った。
「川瀬と大場の経歴は、警務部の人事記録を当たって、昔の所属先にも照会をかける。だが、今後は情報を共有しろ。公安には出して、俺たちには伏せるなんて真似はなしだ。
これ以上隠し事を続ければ、泉上は自宅待機じゃ済まなくなる。今度こそ、本当に警察手帳を取り上げられるぞ」
「光さんを脅しの材料にして僕を動かそうとするのは、少々品がないのではありませんか」
「お互いさまだ。電子足輪なら聞いたことはあるが、注射針まで仕込んだ電子首輪は初めて見た。やり口のえげつなさじゃ、俺は公安には到底かなわんよ」
音無がぬるくなったココアを飲み干し、カップをソーサーへ戻した、そのときだった。
店長が再び奥から姿を現し、二人へ駆け寄ってくる。
「本当にありがとうございました。それで、何度も申し訳ないんですが……さっきのオーブン、どこをどう直したのか、江沫にも教えていただけませんか? 僕は機械のことがさっぱりで……。新しいのが届く前にまた止まったら、せめて応急処置だけでもできるようにしておきたくて」
「もちろんです」
音無が小林を見ると、小林はカウンター脇にある布の間仕切りへ目をやった。厨房までは、ほんの数歩だ。
「行ってこい。二、三分で戻れよ」
音無はカウンターへ向かった。
江沫は磨き終えたグラスを棚へ戻すと、非の打ちどころのない営業用の笑みを浮かべた。
「口で説明するだけでは分かりにくいでしょう。実物を見ながら、一度手順を確認しませんか」
江沫はうなずき、音無をカウンター奥の厨房へ案内した。
厨房は、表から見た印象よりも狭かった。壁際には小麦粉の袋や調味料、予備の食器が隙間なく積まれている。換気扇の低い唸りが、表から届く話し声をほとんどかき消していた。
二人が厨房へ入ると、背後で布の間仕切りがふわりと元の位置へ戻り、店内からの視線を遮った。
冷たく硬いものが音無の脇腹へ押し当てられた。
「……オーブンの説明を始める前に、その銃口をどけてくれないか」
音無はゆっくりと顔だけを横へ向けた。
営業用の笑みは、江沫の顔から跡形もなく消えていた。
「それとも、僕と話す気はないということか」
音無は、その黒い瞳を真っ直ぐに見返した。
「Racing――」
そう呼びかけてから、言い直す。
「いや。今は、江君と呼んだほうがいいかな」




