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路地の奥にひっそりと佇む、小さな蕎麦屋だった。
年季の入った木のテーブルや椅子は、角がすっかり丸くなり、柔らかな艶を帯びている。店の隅では、古びた扇風機が軋んだ音を立てながら首を振り、淀んだ空気をかき混ぜていた。
別に、話のできない雰囲気だったわけではない。
昼時にしては客も少なく、光たちのほかには、キャップを被った老人が一人、隅の席で熱燗を傾けているだけだった。枝豆をつまみながら、ぼんやりと窓の外を眺めている。
声さえ落とせば、話が他人の耳に入る心配はまずない。
ただ、木村のほうに話す気がなかったのだ。
テーブルの上には、空になった蕎麦の丼が三つ並んでいた。
木村は箸を置き、紙ナプキンで口元を拭うと、満足げに「ふう」と息をついた。
案の定、店に着いた途端、木村はその話をぴたりとやめた。大場も川瀬も、蕎麦と一緒に木村の腹へ収まってしまったらしい。代わりに口から出てくるのは、どうでもいい世間話ばかりだった。
「いやあ、今年は本当に暑いな。署のエアコンもまた壊れちまってさ。業者を呼んだら、コンプレッサーを交換しないと駄目だって言われたんだが、それっきり音沙汰なしだ」
光は適当に相槌を打ちながら、内心で歯噛みしていた。
キャリア組で、しかも花形と見られがちな捜査一課に身を置いているとはいえ、光はまだ若い。こうした腹の探り合いでは、所轄で何十年も揉まれてきた木村のような古狸にかなうはずもなかった。
何度、大場や川瀬の話へ戻そうとしても、木村はのらりくらりとかわしてしまう。
木村は再びウーロン茶のグラスを手に取り、ゆっくりと喉を潤した。
その顔には、若造にはまだ十年早い、とでも書いてあるようだった。
このまま食事を引き延ばして、もう一度切り込む隙を探すべきか。
そう考えながら、光は木村の食えない笑顔から目をそらし、その隣に座る若い署員へ目を向けた。
木村が成り行きに乗じて、この若者まで一緒に飯へ連れてくるとは思っていなかった。
もっとも、その意図は分かる。
一人増えるだけで、会話に逃げ道ができる。光が込み入った昔話へ踏み込もうとしても、木村は若者に話を振るだけで、簡単に流れを変えられる。
後になって言った言わないの話になったとしても、最初から最後まで聞いていた第三者がいる。
若者は店に入ってからというもの、自ら通路側の席を選び、頃合いを見て店員に茶のおかわりを頼み、木村が話すたびに律儀に相槌を打っていた。
何か役に立つところを見せようと必死なのが伝わってくる。
警察のように、階級と先輩後輩の秩序がはっきりした組織では、珍しい光景でもない。
光は、かつて所轄で実務研修を受けていた頃の自分を思い出した。
若者は甲斐甲斐しく動きながらも、ときおり光の襟元へ目をやっていた。
その理由に気づくまで、光はしばらくかかった。
S1Sのバッジを外し忘れていたのだ。
これでは、木村が警戒したのも無理はない。
実際、光は旧交を温めるためではなく、大場の過去を探るためにここへ来たのだ。
そもそも木村だって、光の父親が生前、息子に自分の話を頻繁に聞かせていたなどとは信じていないだろう。
そんなことを考えているうちに、光は店の洗面所まで来ていた。
両手で水をすくって軽く顔を濡らし、鏡の中の自分を見ながら、長い息を吐く。
そのとき、洗面所のドアが開いた。
先ほどの若者が入ってきた。
洗面台の前に立つ光を見て一瞬足を止めたものの、すぐに軽く会釈し、隣の洗面台の蛇口をひねる。
「先ほどは、きちんとご挨拶もせず失礼しました。佐倉と申します」
「ああ、どうも。泉上です」
佐倉と名乗った若者は、流れる水に手を差し出しながら、また光の襟元にある小さな赤いバッジへ目をやった。
光はようやく合点がいった。
「佐倉さんも、捜一志望?」
「……はい。もちろんです」
声が弾んだが、佐倉は慌ててそれを抑えた。
「木村係長から、昔、親しかった友人が捜一にいたと聞きまして。係長のそばで働いていれば、きっと何か学べるんじゃないかと……」
なるほど。うまいこと夢を見せられたらしい。
光は胸の内で苦笑した。
その光景が、ありありと目に浮かぶ。
どこかの飲み会で、酒の回った木村が佐倉の肩を叩き、感慨深げに泉上一警視正との昔話を始める。
自分にも捜査一課へ行く話があった。だが、やむを得ない事情があって所轄に残った――そんなふうに語ったあと、やる気に満ちた若者へ意味ありげな目を向ける。
俺についてきて真面目に働けば、おまえにもいずれ機会が巡ってくるかもしれない。
きっと、そんなことを匂わせたのだろう。
木村なら、泉上一との関係も、折に触れて佐倉へ話していたはずだ。
幼い光が木村にいちごミルクをねだったという、本人としては忘れてほしい話まで、捜査一課とのつながりを誇示する材料に使われていたとしても不思議ではない。
だからこそ、佐倉はS1Sのバッジから目を離せなかったのだ。木村の話がまるきりほらではなかったという証拠であり、これまで木村に付き合ってきた苦労も、いずれ報われると思わせてくれる慰めでもある。
「捜一だって、そんな大したところじゃないよ。刑事ドラマじゃ華やかに描かれてるけど、実際は足で稼ぐ仕事ばかりだ」
しかし、佐倉には通じなかった。
「それでも、やっぱり違いますよ。刑事を目指してる警察官なら、一度くらい捜一に憧れるでしょう。僕だって、そういう刑事に憧れて警察官になったんです。もっと早く刑事に回れると思っていたのに、毎日やっているのは書類仕事と雑用ばかりで……」
「俺も所轄にいたことはあるよ。当時は同じようにしんどいと思ってた。でも、今になって振り返れば、無駄じゃなかった。本部に移ってからも、現場がどう動いてるのか分からずに右往左往せずに済んだからな」
「そういう話じゃなくて、もっと現実的な問題ですよ。庁舎はあんなに古いし、コピー用紙まで節約させられるし、公用車はいつも取り合いです。出張の旅費精算だって、何度出しても差し戻されて……」
おいおい。それは、初対面の本部の人間に話していいことなのか。
そう思いながらも、光はそのまま話に乗った。
「でも、暇なくらいがちょうどいいだろ。警察なんて、何も起きないのが一番なんだから」
「全然、暇じゃありませんよ。雑用に書類仕事、何のためにやってるのか分からない会議……一日中動き回っているのに、一日が終わってみると、何ひとつ片づいてないんです」
そこで佐倉は声を落とした。
「それに、この署、前に何か厄介なことがあって、それを最近になって誰かが掘り返してるんじゃないかと思うんです」
「どうして?」
「木村係長がこの署に戻ってきたのも、去年なんです。僕が係長の下に配属されたのは今年の春ですけど、ここ最近は明らかに前より忙しそうで。僕たちには内容も知らされない会議に、係長だけがしょっちゅう呼ばれているんです」
なるほど。
少なくとも、木村が今、佐倉たち若手には詳細の明かされていない何らかの仕事に関わっているらしいことだけは分かった。
ただし、それが大場や川瀬に関係しているかどうかは、まだ分からない。
一方、小林が進めているのは、警務部人事への正式な照会だ。そちらは木村がどうこうできる話ではない。
そもそも、光がここまで足を運んだのは、人事記録に残っている事実を調べるためではなかった。
人事記録には残らない、当時の人間しか知らない話を聞くためだ。
光は声を和らげ、ひとつうなずいた。
「……佐倉さんも大変だな」
「え?」
光は、いかにも分かるぞという目を向けた。
「まあ、誰にでもそういう時期はあるって。俺も所轄にいた頃は、ずいぶん振り回されたよ。何も学ばなかったかと言われれば、そんなことはない。でも、それで何か大きなことを成し遂げたかって言われると、別にそうでもないんだよな。あっちへ行けと言われて走ったら、今度はこっち。先輩に言われた仕事を片づけても、すぐ次が来る。いつまで経っても終わらない」
佐倉の目がぱっと輝いた。ようやく話の通じる相手を見つけた、という顔だった。
「そうなんですよ! 勤務中にあれこれ言いつけられるくらいなら、まだ分かります。でも最近は、仕事が終わってからも係長の車を運転させられて、どこかまで送らされるんです。ついでだからって言われますけど……」
「職場ってのは、この世でいちばんプライベートが通用しない場所だからな」
光は深々とため息をつき、洗面台にもたれた。
「仕事のあとに運転手をさせられるくらいなら、まだいいよ。俺なんて、上司をその手の店まで送ったことがあるぞ」
そこまで口から出任せを並べたところで、光は心の中で、かつての上司に謝った。
実際には、あの人に理不尽な扱いを受けたことなどない。ましてや、勤務時間外にそんな店へ連れ回されたことなど、一度もなかった。
少し考えてから、なぜか音無にも、心の中で謝っておいた。
「――そうなんですよ! 係長も同じです。何かにつけて風俗店へ行くんです。それも普通の店じゃなくて、SM系の店ですよ。僕は外で待たされるだけですけど、運転するのは毎回僕なんですから!」
やはり。
K.N.と刻まれた首輪が川瀬奈緒につながるものなら、木村が最近、別の風俗店へ頻繁に出入りしているという話は、たとえ偶然だとしても一度確認する価値がある。
「どこの店? 俺がよく上司を送らされたのは、二丁目の店だったけど」
「二丁目って……そっち系の店が多いところじゃないですか。泉上さんも大変だったんですね……。係長が行くのは、女の子が男の客につくタイプの店です」
「へえ。毎回同じ店なの? 木村さん、意外と一途だな」
「そうなんです。でも、いつも滞在時間は短いんですよ。だから、本当に知り合いに顔を出してるだけなのかもしれません」
「おいおい。その顔は、別のことを考えてるだろ」
「ち、違います! そんなこと、一度も考えてません!」
佐倉自身、木村に自分を捜査一課まで引き上げるほどの力があるとは、もう信じ切れなくなっているのだろう。それでも直属の上司だ。あからさまに頼みを断るわけにもいかず、毎日のように振り回され、鬱憤だけが溜まっている。
光も認めざるを得なかった。口の堅い古狸を崩すより、不満を抱えた若手の口を開かせるほうが、はるかに簡単だ。
小林を前にすると身構える人間でも、光が相手なら、つい余計なことまで話してしまう。
その理由が、少し分かった気がした。
そのとき、佐倉のスマートフォンが鳴った。
誰からの電話かは、考えるまでもない。
光は黙って佐倉を見つめながら、頭の中で次の手を組み立てていた。
佐倉は電話に出て、低い声で何度か応じると、すぐに通話を切った。気まずさと名残惜しさの入り混じった顔で、光を見る。
「あの、係長が、もう行くぞって……」
それから、何かを決意したように尋ねた。
「その……連絡先を交換していただけませんか?」
どうやら佐倉には、光が捜一へつながる新たな伝手に見えたらしい。
光は胸の内で苦笑した。つい先ほど、小林から面と向かって、大場の件が片づいたらどこへなりと消えろ、と言われたばかりだ。
それでも、せっかく向こうからつないできた縁を無駄にする理由はない。
「いいよ。また今度、飯でも食いながら話そう。今日はあまりゆっくり話せなかったしな」
光は笑顔でスマートフォンを取り出した。
互いに連絡先を登録すると、佐倉はもう一度深く頭を下げ、慌ただしく洗面所を出ていった。
いずれにせよ、これで次に当たるべき場所は分かった。




