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同じ頃、警視庁本部一階。
エレベーターの扉が開くと、一階ロビーには昼どきのざわめきが満ちていた。柊音無はエレベーターを降り、人の流れを避けるように端へ寄る。受付へ向かう来庁者と、通行ゲートを抜ける職員が絶え間なく行き交い、磨き上げられた床にその影が淡く映っていた。
任意聴取の最後、山葉正人が投げかけた問いにも、音無は最後まで核心を明かさなかった。
「その質問は、公安協力者として知り得た情報に関わります。井上さんの立会いがない以上、これ以上はお答えできません」
山葉はしばらく黙っていた。明らかに、その返答には納得していない。だが、任意の聴取である以上、それ以上答えを強いることはできなかった。
「次は、井上にも同席してもらう」
それが、今日の聴取を終える合図だった。音無は一礼し、取調室をあとにした。
本来なら、そのまま公安部へ戻り、井上に簡単な報告を入れて、次の指示を待つべきだった。だが、こうして誰の付き添いもなく一人になれたのは久しぶりだった。音無はひとつ息をついた。
首輪のインジケーターは、すでに赤から青へ戻っていた。それまで続いていた振動も止まり、眠りに落ちた蛇のように、首元で沈黙している。少なくとも、井上側によるリアルタイムの傍受はいったん切れたらしい。
だが、音無の関心はすでに別のところにあった。
昨日、墓地へ向かう前、音無は光とともに、暗号化されたオフラインドライブを改めて調べていた。その中から、Styxが二〇一六年以降に進めていた脳神経研究の資料がいくつか見つかった。
計画名はいずれも、犯罪組織による非人道的な人体実験とは思えないほど学術的だった。音無には骨身に刻まれた実体験こそあったが、専門用語だらけの報告書を読み解く体系的な医学知識はない。光も同じだった。二人で翻訳サイトを頼りに内容を拾ったものの、その日に理解できたのは断片にすぎなかった。
資料のどこにも、「Myosotisを複製する」とは書かれていなかった。被験者はほとんど番号でしか記されておらず、担当者や研究機関の名称も、意図的に消されたかのように欠けている。
その日の解読作業は、アルファベット十九文字の専門用語を前に、光が呆れたように笑い出したところで終わった。
Racingに確かめたいのは、医学用語の意味ではない。どこで、誰から、どのような名目で処置を受けたのか。その記憶を、資料に残された計画番号と照合したかった。
計画番号さえ特定できれば、同じ番号が付された予算記録や外部委託先、データ移管記録を、ドライブ内で横断して追える。その先に、最終承認者として大場譲治の名が残っているかどうかも確かめられるはずだった。
Racingと連絡を取るだけなら難しくない。音無はもともと、彼の行動パターンを把握している。Racing自身も、自分の居場所が音無に知られることをさほど気にしていないようだった。Styxと公安の双方に対し、自分はいまもどちらにでも転べる立場だと示し、迂闊に手を出すなと牽制しているのかもしれない。
難しいのは、公安の管理下にある今、Racingとどう接触するかだった。Styxの現役構成員に無断で会えば、それだけで公安からの信用を失う。傍受が切れていても位置情報は送られ続けているし、そもそも庁舎の外で単独行動すること自体、認められていなかった。
光に同行を頼めば、少なくとも単独行動ではなくなる。だが今頃、光は光なりのやり方で、川瀬奈緒の残した手掛かりを追っているはずだ。手を止めさせてまで付き合わせる理由はなかった。
そう考えていると、近づいてくる足音が聞こえた。
小林拓也が書類の束を抱え、音無の前を足早に通り過ぎていく。二、三歩進んだところでぴたりと足を止め、二歩ほど後ずさりして、音無の前へ戻ってきた。
「ひょっとして……柊顧問か?」
「そうです」
「やっぱりな。おまえのことは、泉上から聞いてる」
小林は軽くうなずいた。
「聴取はもう終わったのか?」
「はい。小林主任ですね。光さんから、お話はよく伺っています」
音無は丁寧に頭を下げた。
「日頃から光さんがお世話になっています。本人も、小林主任のことはとても尊敬しています」
小林は肯定も否定もしなかった。
「会って早々、あいつのフォローまでしなくていい。今朝っぱらから俺のところに来て、ぎゃあぎゃあ騒いでたぞ」
「申し訳ありません。光さんがご迷惑をおかけしました」
音無は先ほどよりも深く頭を下げた。
「いいよ。俺も、あいつのあの調子には慣れてる」
小林は書類の束を近くのベンチに置くと、自動販売機で缶コーヒーを一本買った。それを片手に、何でもないことのように尋ねた。
「このあと、少し時間はあるか。どこかで話さないか? 俺も一度、おまえに会ってみようと思ってたんだ」
渡りに船だった。
小林に事情を話し、そのままRacingとの接触に立ち会ってもらえばいい。
小林を、公安の監視から逃れるために利用するつもりはなかった。狙いはむしろ逆だった。小林がその場にいれば、たとえ首輪を通じて会話が公安へ筒抜けになっても、そこで得た情報は、もう公安だけが握るものではなくなる。
刑事部には、Racingの話を直接聞いた警察官が一人増える。同時に、刑事部から独自に追える手掛かりも残る。公安は内部情報を伏せることはできても、刑事部の人間が直接耳にした事実まで、自分たちの都合だけで封じることは難しくなる。
もちろん、そのぶん小林を大きな面倒に巻き込むことになる。それを思えば、多少の後ろめたさはあった。とはいえ、小林が自分に話を持ちかけた理由も、大場の件以外には考えにくい。ならば、互いに相手を利用することになる。遠慮だけしていても仕方がなかった。
「構いません。ただ、その前に井上さんへ報告してきます」
「いいぞ。井上には、話が済むまで俺が一緒にいると伝えろ。おまえから目を離すつもりはないってな」
小林は自動販売機にもたれ、缶コーヒーを軽く持ち上げた。
「分かりました。話を通してきます」
音無はもう一度一礼し、エレベーターへ向かって歩き出した。背筋はまっすぐに伸び、足取りにも乱れはない。物腰の柔らかさも、隙のない礼儀正しさも、聞かされていたSSS級狙撃手の像とはあまりにかけ離れていた。あの姿だけを見れば、警戒心を抱くほうが難しい。
小林は考え込むように缶コーヒーをひと口飲み、探るような眼差しで音無の背中を見送った。
その視線を背中に感じながら、音無は右手首の腕時計へ目を落とした。時刻は正午を回っている。Racingも、そろそろ午前の講義が終わる頃だ。ちょうど学食へ向かっているかもしれない。今日なら、午後はカフェのシフトに入るはずだった。
Racing本人の口から、研究資料と結びつく言葉をひとつでも引き出せれば、調査はようやく本当の意味で前へ進む。
問題は、武器だった。
ヴァイオリンケースは、公安部の保管庫に預けてある。Racingとの接触を理由に持ち出しを申請したところで、井上が許可するとは思えない。かといって、丸腰で会うのも危険だった。
そんなことを考えながら、音無はエレベーターへ乗り込んだ。そこへ、大量の書類を抱えた若い女性警察官が慌ただしく駆け寄ってくる。音無は「開」ボタンを押し、閉まりかけた扉を開けて待った。
「ありがとうございます! すみません……」
――まあ、丸腰でも構わない。必要になれば、Racingの得物を奪えばいい。
もともと、殺すつもりはないのだから。
エレベーターの扉が閉じる寸前、音無はそう結論づけた。何度も頭を下げる女性警察官に、軽く会釈して微笑み返した。




