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小会議室には冷房がよく効いていた。泉上光は椅子に腰を下ろし、手元のほうじ茶を時折すすりながら、木村とのとりとめのない話を続けていた。
顔を合わせて早々、根掘り葉掘り尋ねるわけにはいかない。そこで光は、今日の天気から署の近くの駐車場事情、最近の昇給額、現場を顧みない警視庁上層部の方針に至るまで、半ば強引に話題をつないでいった。
身振り手振りを交え、ときには声を上げて笑った。ほんの数分前まで木村の名前すら思い出せなかったとは、とても思えない打ち解けぶりだった。今にも、飼い犬の名前まで聞き出しそうな勢いである。
光は幼い頃から人懐こく、年長者を相手にしても物怖じしなかった。ことさらに演じる必要はない。持ち前の愛想のよさを発揮しているだけで、木村は少しずつ警戒を解いていった。
「……だから言ってるんだよ。上の連中は、現場がどれだけ大変か、何にも分かっちゃいないんだ!」
木村は空になった湯呑みを、マイク代わりに握りしめていた。
「上が何か思いつくたびに、振り回されるのはこっちだ。毎日、被害者には気を遣い、被疑者には罵られ、上からはせっつかれ、そのうえ世間からは税金泥棒呼ばわりされるんだぞ……!」
木村は腹立たしげに机を二度叩いた。廊下を通りかかった何人かの警察官が、扉のすりガラス越しに室内をうかがった。また始まったかとでもいうように首を振り、そのまま足早に立ち去っていく。どうやら木村の愚痴は、署内ではすっかりおなじみらしい。
今回ばかりは、自分の社交性より、木村が日頃からそれだけ鬱憤を溜め込んでいたことに感謝すべきかもしれない。こちらが水を向けるまでもなく、よく振った炭酸の蓋を開けたように、愚痴が次から次へと噴き出してくる。
「……おまえの親父が、まだいてくれたらなあ」
長い回り道の末、話はようやく、光が待ちかねていた父の話へたどり着いた。
「おまえの親父は、本当にできる男だったよ。俺たちがこの署にいた頃から、やけに目立ってた。仕事が終われば、みんなで居酒屋へ繰り出してな。焼き鳥を肴にビールを二、三杯やりながら、上司の悪口を言うんだ。あの頃から、泉上はいずれ上へ行くと誰もが分かってた。あんなに若くして捜一へ行くとは思わなかったがな。ただ……逝くのも早すぎた」
そこまで言うと、木村は窓の外へ目をやった。白い雲がひとつ、青空をゆっくりと流れていた。
光は頃合いを見計らって口を挟んだ。
「そうですね。父からも、こちらにいた頃の話は時々聞きました。木村さんには、ずいぶん助けてもらったと」
もちろん、まるきりの嘘だった。泉上一は、仕事のことを息子にほとんど話さなかった。それでも木村はあからさまに頬を緩めた。だが、ほどなくしてその表情を曇らせた。
「……親父さんを殺した犯人は、まだ捕まってないんだろ?」
ようやく来た。光は表情を崩さないまま、ひとつ息を整えた。
「あの事件については、まだお話しできません。ただ、今日は父のことで、木村さんにひとつ伺いたくて来たんです」
そこで一度言葉を切り、木村の顔を見た。
「川瀬奈緒という女性警察官に、心当たりはありませんか。二〇〇四年に亡くなっているのですが、生前、この署にいた可能性があるんです」
木村は眉間にしわを寄せ、しばらく記憶を探っていたが、やがて首を横に振った。
「……覚えがないな。刑事か? 生活安全か? 写真はあるのか?」
光は迷った末、ポケットに入れた写真へは手を伸ばさなかった。今、安易に見せていい写真ではない。それに、自宅待機中の自分には、木村へ名簿を調べてくれと頼める立場もなかった。そこまで踏み込めば、もう昔話を聞きに来ただけの息子という顔ではいられない。
そこで、言い方を変えた。
「写真は、今のところありません。ただ、父の知人だったらしいんです」
「ああ、おまえの親父と親しかった女か」
木村はしばらく黙ったあと、どこか含みのある口調で続けた。
「女となると、俺には何とも言えんな。あいつのプライベートの話だ。親しかった男なら、大場くらいしか思い当たらんが」
「大場――大場譲治ですか。木村さんもご存じだったんですか?」
「もちろん。『ニコニコ大場』だろ」
木村はあっさり答えた。いかにも木村らしい、ひねりも何もないあだ名だった。おそらく酒の席で思いつき、そのまま本人に押しつけたのだろう。
「そういや、あいつはその後どうした? 俺も異動してからは、すっかり疎遠になってな。いつもニコニコしてるくせに、自分のことはろくに喋らない男だったからな」
「無口だったんですか?」
「何ていうかな……おまえの親父が、意地でも捜一に入って、いつか課長まで上り詰めてやるっていう仕事人間だったとすれば、大場はその隣で補佐役に回る男だ」
木村は腕を組み、天井を見上げた。
「自分は一歩引いて、目立たないまま泉上についていく。地味だが、誰かがやらなきゃ回らない仕事を引き受ける。泉上が前で派手にやらかせば、大場が後ろで書類を揃え、手続きの穴を埋め、上に頭を下げる」
木村は当時を思い出したように笑った。
「手柄はだいたい泉上に持っていかれるくせに、怒られるときは、なぜか大場まで一緒だ。けど、あいつがいなかったら、おまえの親父はとっくに、どこか辺鄙な所轄へ飛ばされてただろうな」
あまりに的確な人物評に、光はすぐには言葉を返せなかった。
表に立つことは望まない。それでも、肝心なところには必ずいる。大場の残した影は、今なお事件全体を覆い続けている。
「……では、大場さんが女性警察官と付き合っていた、という話は聞いたことがありませんか」
木村の表情が、ほんのわずかにこわばった。
「さあなあ。人の私生活だしな……というか、どうしてそんなことを聞く?」
光が答えようとしたとき、扉の外から二度、ノックの音がした。扉が細く開き、制服姿の若い警察官が顔を覗かせた。
「木村さん、そろそろ昼、行きませんか?」
光が口を開くより早く、木村は反射的に壁の時計を見上げた。時計はちょうど正午を指していた。その顔に、たちまち笑みが戻った。
「難しい話はそれくらいにしよう。せっかく久しぶりに会ったんだ。おまえも一緒にどうだ? 近くにうまい蕎麦屋がある。いちごミルクくらいなら奢ってやるぞ」
――はぐらかした。
木村は、大場と女性警察官を結びつける話を意図的に避けた。川瀬の名に本当に覚えがないのか、それとも何かを隠しているのかは分からない。だが、好機を逃さず話を切り上げる手際には、年季の入った警察官らしい抜け目のなさがあった。光は胸の内で警戒を一段引き上げた。
追い返されなかったのは好都合だ。ここからさらに有益な情報が出てくる可能性は低いとしても、このまま引き下がるのは泉上光の性分ではなかった。
光は立ち上がり、扉のそばで待っている若い警察官へ軽く会釈した。
「……では、ご一緒させてください」




