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電車は暗いトンネルを抜け、地上区間へ出た。
窓の外を塞いでいた黒い壁が途切れ、陽射しに照らされた街並みが一気に広がる。窓から差し込んだ光が、車内の床に幾筋もの明るい帯を落とした。
泉上光は目を細めた。ドア脇の壁に背を預け、後方へ流れていく街並みを眺める。
写真の裏に書かれていた「K.N.」の文字。
大場譲治がTrigonotisに贈った首輪の内側にも、まったく同じイニシャルが刻まれていた。当初、光は、大場が二丁目の店で使っていた偽名のイニシャルだと考えていた。
だが――川瀬奈緒。
K.N.。
父のナビを手掛かりにたどり着いた墓地で渡された封筒には、大場と見知らぬ女性警察官が並んで写った写真まで入っていた。
もし、あの写真の女性が川瀬奈緒なのだとしたら……。
考えれば考えるほど、背筋が冷えていく。
救急車と所轄の応援が現場へ到着する直前、光はあの一枚だけを封筒へ戻さなかった。
証拠品をひそかに抜き取り、申告もせずに所持している。
警察官として、言い逃れのできる行為ではなかった。そんなことは、警察学校にいた頃から、嫌というほど教え込まれてきた。
それでも今は、あの写真を公安にも刑事部にも渡せなかった。
公安へ渡せば、写真はたちまち刑事部の手が届かないところへ持っていかれる。何を調べ、どこまでを上層部へ報告し、どの情報を外へ流すのか、光には確かめようがない。刑事部の失点を公安の発言力へ変えるために、あの連中が写真からどんな筋書きを作り上げるのかも分からなかった。
かといって、刑事部へ提出したところで、山葉課長がどう扱うか分からない。
これまでどおり事実を伏せるのか。それとも、音無の根深い罪悪感につけ込み、事件を一刻も早く畳むための材料にするのか。
写真からつながる手掛かりもろとも、真相を闇に葬るために。
小林の言うとおりだった。光は、山葉のことも気にかけている。
五十を過ぎた今になって、師である父の代から続く得体の知れない因縁を背負い、自ら危うい駆け引きへ身を投じている。
なのに、光には何一つ話そうとしない。
父親世代の意地なのか。それとも、その因縁の奥には、口にすることすら憚られるような秘密が隠されているのか。
――かつて警察官だった大場が、StyxのLeaderになった。そして、その大場と、かつて捜査一課長だった父との間には、浅からぬ因縁があった。
もし課長が、その事実を一人で抱え込んでいるのなら、光も自分にできることをしなければならない。
このまま何もせずに待っているわけにはいかなかった。
電車は再び地下へ潜った。車内灯が窓ガラスに反射し、乗客たちの輪郭をぼんやりと映し出す。
光は目を閉じた。
◇
駅を出た途端、汗ばんだ首筋がむず痒くなった。
光は首の後ろを掻きながら、通りの先に建つ古びた庁舎を見た。外壁には、風雨にさらされ、すっかり色褪せた看板が掲げられている。
最後の一枚には、警察署の入口に立つ石碑の端が写り込んでいた。大半は画面の外に切れていたが、署名だけはかろうじて読み取れた。
そこは、父が捜査一課へ異動する前に勤務していた所轄署の一つでもある。
父がこの署にいたこと自体は、不思議ではなかった。
捜一へ入るまで、父はいくつもの所轄を経験していた。交番勤務から始め、地道に実績を積み、持ち前の負けん気を武器に、最後には捜査一課長にまで上り詰めた人間だ。
光は、途中で手土産に買った羊羹の紙袋を持ち直し、警察署の扉を開けた。
受付にいた警察官が顔を上げる。
「すみません」
警察手帳を出そうと、反射的に上着の内側へ手を伸ばしかけた。
だが、すぐに思いとどまる。
自宅待機を命じられている今、警察手帳を示して職務上の聞き込みを装えば、命令違反の上に、職権の私的利用まで重ねることになる。
もちろん、ここまで来て調べ物を続けている時点で、自宅待機命令の趣旨には反している。
光は手を戻し、できるかぎり人当たりのいい笑みを作った。
「父の泉上一が、二十年ほど前、こちらに勤務していたことがあるんですが……当時の父を知っている方が、まだこちらにいらっしゃらないかと思いまして」
受付の警察官は、どこか訝しげに光を見た。それでも内線電話を取り、二、三か所へ連絡を入れてくれた。
しばらくして、年配の警察官が廊下の奥から姿を現した。白髪が目立ったが、その目は驚くほど澄んでいた。
男は入口に立つ光をまじまじと見つめ、やがて何かに気づいたように目を見開く。
「おやおや。おまえ、まさか……いちごミルク坊主か?」
光は反射的に会釈した。
正直に言えば、目の前の男が誰なのか、まるで思い出せなかった。
だが、「いちごミルク坊主」という呼び名だけは、記憶の底に引っかかった。
母を亡くして、初めての夏。幼稚園は夏休みに入っていた。もともと非番だった父が、急きょ署へ呼び出された。どうしても光の預け先が見つからず、父は上司に頭を下げ、五歳だった光を署内の休憩室で待たせてもらった。
当時の署長と同僚たちが事情を汲み、その日だけは大目に見てくれたのだ。
ところが、光は昔からじっとしていられる子どもではなかった。休憩室を抜け出し、椅子の背に掛けてあった父のぶかぶかの上着を勝手に羽織って、廊下を歩き回った。
そして、たまたま通りかかった人のよさそうな警察官を捕まえ、舌足らずな声で堂々と命令したのだ。
「おまえ、いちごミルク買ってこい!」
その直後、騒ぎを聞きつけた父が飛んできた。
光は父に捕まり、尻を思いきり引っぱたかれた。なおも叱り続けようとする父を、先ほどの警察官が慌てて止めに入った。
――おいおい、泉上! 子ども相手に本気になるなって。まだ小さいんだ。そこまで叱ることないだろ!
目の前の男の笑顔と、記憶に残る若い頃の顔が、ようやく重なった。
男は光の前まで来ると、自分より頭一つ分も高くなった光を見上げ、相好を崩した。
そして、光の肩をぱんと叩く。
「やっぱりおまえか。ずいぶんでかくなったな! どれだけ牛乳を飲んだら、そこまで伸びるんだ? 今でも人に買いに行かせてるのか?」
間違いない。あのとき、父を止めてくれた警察官だった。
光は照れ隠しに笑った。慌てて紙袋を開け、手土産に買っておいた羊羹を取り出す。箱を両手で持ち、男へ差し出した。
「その節は本当にご迷惑をおかけしました。これ、途中で買ってきた羊羹です。よかったら」
「白々しい。用があるから来たんだろ」
男は羊羹の箱と、光の愛想笑いを交互に見た。
「どうせ、俺の名字も忘れちまったんだろ?」
「まさか。木村さんでしょう」
名字を思い出したのは、ほんの数秒前だったが。
「木村さんは、ずっとこちらにいらしたんですか?」
「そんなわけあるか。俺もいくつかの署を転々として、去年ここへ戻ってきたんだ。まさか定年前に、おまえとまた会えるとは思わなかったがな」
木村は羊羹を受け取らず、手で押し戻した。
「それはしまっとけ。話があるなら、中で聞く」
「はい!」
光は慌てて羊羹を袋へ戻し、歩き出した木村のあとを追った。
わずかに丸まったその背中に続き、警察署の廊下を進んでいく。
まるで、過去へ通じる道を歩いているようだった。
長い年月の中に埋もれた出来事も、忘れ去られた名前も、父が抱えていた秘密も、この廊下の先にあるような気がした。
今日こそ、長く閉ざされてきた真相へ、ようやく手が届くかもしれない。




