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同じ頃――
「そうは言っても、所詮はおまえの推測だろ」
ブラインド越しの陽射しが、執務机の上に細い縞模様を落としていた。光の筋の中では、細かな埃がゆっくりと舞っている。
小林拓也は自席に腰を下ろしていた。机の上には、高さもまちまちな書類の山がいくつもできている。
その一つからファイルを抜き取り、小林はうんざりしたように視線だけを上げた。机を挟んだ向こうに、泉上光が立っている。
「警務部の人事に照会をかけるにしたって、こっちにもそれなりの理由が要るんだよ」
「大場の人間関係に関わることです。そこを洗えと最初に言ったのは主任でしょう」
「そりゃそうだが、二十年以上も前の人間関係まで掘り返すとなると、どうも捜査の本筋から外れてる気がしてな」
そう言うと、小林は、先ほど光から任意提出を受けたUSBメモリの入った証拠品袋をつまみ上げ、目の前で軽く振ってみせた。
「今いちばん先にやるべきなのは、Racingとかいう殺し屋をここへお茶にでも招いて、知ってることを吐いてもらうことじゃないのか?」
「でも、そんな単純な話じゃないんです。主任、お願いします。今の俺じゃ、自分で照会一つ出せません。俺はもう――」
「なあ、泉上」
小林が言葉を遮った。椅子の背もたれに深く身を預け、両手を頭の後ろで組む。
「おまえは手の内を隠しすぎなんだよ。肝心なところは何一つ話さない。それで手を貸せと言われても、俺だってどうしようもないだろ」
少し離れた場所で、複合機が低い駆動音を立て、紙を吐き出し始めた。
「説明しろ。どうして今になって、川瀬奈緒なんて名前が出てきた。しかも、元警察官かもしれないから人事を当たれ、だと? 何を根拠に言ってる。いや……」
小林はわずかに目を細めた。
「おまえ、まだ何か証拠を隠し持ってるんじゃないだろうな?」
遠くで、複合機が紙を送り出す乾いた音が続いている。窓の外からは、道路を走る車の音がかすかに聞こえていた。
「……昨日、音無と一緒に、父が生前、車のナビに登録していた地点をたどりました。そこで川瀬さんの墓を見つけたんです。
墓地の管理人にも話を聞きました。あの墓へ通っていたのは、父だけじゃない。大場も何度も訪れていた。管理人によれば、今年に入ってからも来ていたそうです。
墓前には、その人物がいつも供えていたのと同じ花が、まだ枯れきらずに残っていました。大場は、死ぬ直前まであの墓へ通っていた可能性が高い」
小林は黙ったまま、続きを促すように光を見ている。
「父も大場も警察官でした。二人が川瀬さんと知り合ったのも、仕事を通じてだった可能性があります」
「……大場と川瀬、それに、おまえの親父の死まで、全部どこかでつながってる。そう言いたいのか?」
「分かりません。だからこそ、確かめなきゃならないんです」
光は声を落とした。
「もし本当につながってるなら、公安がこれほど性急に大場事件へ首を突っ込んできたことも、課長が音無を指示役とみる線で事件を早々に畳もうとしていることも、筋が通る」
机の上に開かれたファイルへ視線を落とす。
「公安が決定的な証拠を握ってるなら、とっくに上層部を通じて刑事部へ圧力をかけてるはずです。今も主導権の綱引きが続いてるってことは、向こうにもまだ確証がない」
「……面倒くせえ話だな」
長い息を吐くと、小林は髪をくしゃりとかき回した。公安だ刑事だという縄張り争いになると、いつもこの顔だ。
「分かった。川瀬については、俺が調べる」
光は顔を上げた。礼を言うより先に、小林が人差し指を立てる。
「先に言っておく。おまえに手を貸すわけじゃない。刑事部と公安部の縄張り争いに加わるつもりもない。大場事件の捜査に必要だから調べる。それだけだ」
光は間髪を入れずに続けた。
「大場の在職記録も確認してもらえませんか」
「あの制服姿の写真か?」
「はい。勤務していた時期と所属、それから、川瀬と同じ職場にいたことがあるかどうかを知りたいんです」
小林は腕を組み、しばらく光を睨んでいた。
やがて、諦めたように首を振る。
「まあ、ついでだ。ただし、全部片がついたら、おまえが隠してることも、腹の中で考えてることも、洗いざらい話してもらうからな。
そのうえで、おまえみたいな厄介なキャリア様を、どこへ蹴り飛ばすか考える。二度と俺の前をうろつけないようなところにな」
光はようやく安堵の息をつき、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、主任!」
踵を返し、足早に出口へ向かう。
ドアノブへ手を伸ばしたところで、背後から小林の気の抜けた声が追いかけてきた。
「おまえさ」
光の手が止まった。
「あの音無だけじゃない。課長のことまで心配してるんだろ?」
光はゆっくりと振り返った。
だが、小林はもうこちらを見ていなかった。しっしっと追い払うように、片手を振っている。
ドアは、光の背後で静かに閉まった。
◇
警視庁本部の正面玄関を出ても、胸の重さは少しも消えなかった。
真夏の陽射しが幅広の階段へ降り注ぎ、磨かれた石の表面を白く照らしている。
光は階段の上で足を止め、背後にそびえる庁舎を仰いだ。
青空を背にそびえる巨大な庁舎は、そこにあるだけで見る者を圧した。整然と並ぶ窓の上を雲の影が滑っていく。その姿は、巨大な組織そのものが無言で息づいているようにも見えた。
視界の端に、観光客らしい数人の若い女性が映った。道路沿いに立つ「警視庁」の石碑を背景に、互いにスマートフォンを向け、笑顔でピースサインを作っている。
その明るい笑い声は、つい先ほどまでいた庁舎内の重苦しい空気と、あまりにもかけ離れていた。
光はそこから視線を外した。
ポケットからスマートフォンを取り出し、地図アプリで経路を確かめる。そのまま電車の入口へ向かって歩き出した。
音無からは、まだ何の連絡もない。
任意同行にすぎない。それでも安心はできなかった。
あの男は光と向き合うたび、「地面に額を擦りつけて、死んでお詫びします」とでも言い出しそうな顔をする。光以外の人間を相手にしても、同じように何もかも受け入れてしまうのではないか。
反省のかけらもない凶悪犯なら、怒りをぶつけるのは簡単だ。事実を突きつけ、逃げ道を塞ぎ、罪を認めさせればいい。
だが、重い罪を犯した本人が、こちらより先に自分へ死刑を言い渡しているとなれば、話は別だった。
責め立てるどころか、むしろこちらが根気よく、生きろと言い聞かせる羽目になる。
そうしてようやく口を開かせたと思えば、今度は聞いているだけで胃が痛くなるような過去が、次から次へと出てくる。
そのたび、あらためて思い知らされるのだ。
法律が守るのは、正義ではない。
秩序なのだと。




