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取調室。
今日はあくまで任意の取調べだ。予想に反して、身柄を拘束するような措置は何ひとつ取られなかった。
もっとも、柊音無は、はるかに苛烈な扱いを覚悟していた――長時間に及ぶ取調べ。威圧と恫喝。場合によっては、もっと直接的な暴力さえも。
向かいに座る山葉正人は、かつて泉上一警視正の部下であり、彼を師と仰いでいた。
そして、泉上光の父でもあった泉上一を殺したのが、音無だった。
今ここで山葉に胸ぐらをつかまれ、殴られたとしても、仕方がないとさえ思っていた。
だが、ここはStyxではない。警視庁だ。手錠も、身体を椅子に縛りつける拘束具もない。扉には鍵さえ掛かっていなかった。
山葉の隣に座る平沢管理官が、事務的な口調で告げた。
「取調べの間、携帯電話と腕時計をお預かりしてもよろしいですか」
「構いません」
音無が携帯電話と腕時計を差し出すあいだも、山葉は黙ってこちらを見ていた。
公安から渡された資料には、顔写真や略歴はもちろん、心理評価報告書まで含まれているはずだ。書類の上で柊音無という人間の輪郭を掴むには、それで十分だっただろう。
それでも、こうして実際に向かい合えば、書類から受ける印象とは違って見えるのだろう。
「先に確認しておきます。本日は任意の取調べです。答えたくない質問に答える必要はありません。また、いつでも取調べを打ち切り、退室することができます。よろしいですね」
「はい」
「体調に問題は?」
「ありません」
音無がうなずくと、平沢は続けた。
「なお、本日の取調べは、すべて録音します」
「承知しました」
平沢が卓上の録音機のスイッチを入れると、赤いランプが点灯した。ほぼ同時に、音無の首に巻かれた黒い首輪がかすかに震え、側面のインジケーターにも赤い光が灯った。
――公安も聞いている。
山葉も気づいたらしい。首輪へ一瞬目をやっただけで何も言わず、一枚の写真を机の中央へ滑らせた。
写っていたのは、Trigonotis――佐藤太郎だった。
「面識は?」
「あります。以前、泉上警部と二丁目で大場譲治の交友関係を調べた際、話を聞きました」
「佐藤が襲われた件は知っているか」
「はい。現場にいました」
「経緯を話してくれ」
平沢がペンを取った。
「……事件当夜、泉上警部とともに、大場事件で射点として使われた可能性のある廃ビルへ向かいました。そこで佐藤さんと、彼に銃を向けていた男に遭遇し、泉上警部と協力して、その男を制圧しました」
「なぜ、あの場所へ行った?」
山葉が続けた。
音無は答える前に、わずかに間を置いた。
答えに窮したわけではない。この答えを糸口に、追及がどこへ向かうのかを見極めていた。
正直に話せば、光が上司に正式な報告を上げないまま、弾道に関する別の可能性を確かめるため、独自に現場へ向かったことまで明らかになる。
明確な規定違反とまではいえないし、現場を再確認する合理的な理由もあった。それでも取調室では、言葉の一部だけが切り取られ、本来とは違う意味を持たされることもある。
数秒考えた末、音無は事実だけを述べた。
「泉上警部の判断です。あの廃ビルは、捜査本部が弾道解析とSAT狙撃班の見解をもとに割り出した射点候補の一つでした。
泉上警部は、大場事件では現在の見立てとは異なる弾道が成立する可能性があると考えていました。小林班が今後捜査を進めるうえでも、現場を確認しておく必要があると判断したのだと思います」
「なぜ、おまえを連れていった?」
山葉の口調は、どこまでも平静だった。
ただ、その目だけが音無を捉えて離さない。
「元狙撃手だからです。泉上警部は、僕の経験が判断材料になると考えました」
「狙撃手だった――それだけか」
短い沈黙が落ちた。
「……元Styx所属。遠隔打撃シークエンス、狙撃ユニット。評価SSS。コードネームはMyosotisです」
音無は、一語ずつ区切るように答えた。
平沢は顔を上げず、ペンを走らせ続けていた。山葉の表情も動かない。
当然だった。二人とも、公安の資料ですでに知っていた。山葉は、分かりきった事実をあえて音無自身の口から言わせたのだ。今日の供述として記録に残すために。
「佐藤を襲った男も、Styxの構成員だ」
山葉は続けた。
「男は、おまえの指示で佐藤をあの場所へ呼び出し、襲ったと供述している。おまえと泉上が到着したところで、今度はおまえが佐藤を救い、襲撃の罪を男一人にかぶせる手筈だった、と」
「罪、ですか」
「大場事件をStyx内部の口封じに見せかけ、命の恩人を演じて佐藤の信頼を得る。同時に泉上の疑いを逸らし、佐藤から都合のいい情報を引き出して、泉上の捜査を自分の望む方向へ誘導する。それが狙いだ」
「それは、最初の取調べで、彼が自発的に話したことですか。それとも、そちらが先にMyosotisの名と識別コードを示したあとで、そう話すようになったんですか」
山葉は答えなかった。
少なくとも、否定もしなかった。
それで音無には十分だった。
「……そうですか。いずれにしても、被疑者一人の供述だけでは、僕の関与を裏づける証拠として不十分です。そのことは、僕よりも山葉さんのほうがよくご存じでしょう」
「男の供述が虚偽だと言い切る根拠は?」
「場所を決めたのは泉上警部です。僕は事前に、佐藤さんがそこにいることすら知りませんでした。
もし僕が仕組んだのなら、泉上警部にあの場所を選ばせたうえ、僕たちが到着する時刻まで襲撃犯と示し合わせておかなければなりません。事前に連絡を取り合う手段もないまま成立させるには、不確定要素が多すぎます。
何より、そんなことをする意味がありません」
「だが、襲撃犯の携帯電話から、通信記録の一部が復元された」
山葉はもう一枚、印刷物を差し出した。
紙面には無数の文字列が並び、そのうち一か所だけがマーカーで塗られている。
平沢がすぐに補足した。
「男の端末に残っていた通信には、Myosotisの識別コードと、それに対応する電子署名が付されていました。署名は有効で、これまでに復元されたStyxの通信にも、同じ署名方式が使われています。
ただし、送信元端末の情報、サーバーログ、上位権限者による承認記録については、まだ復元されていません」
音無は紙面に目を落とした。
「つまり、現時点で確認できているのは、Myosotis名義の有効な署名だけということですね」
「それでは不十分か」
「不十分です。Myosotis名義で正規に署名された通信だとはいえても、実際に送信したのが僕だとは証明できません。Styxでは、上位権限者が下位構成員の名義で代理署名できます」
そこで言葉を切り、音無は続けた。
「それに、僕の目的が大場の過去を隠すことなら、泉上警部や小林班に協力して、大場の資金の流れや交友関係を調べたりはしません。墓地で封筒を奪った連中を、危険を冒してまで追跡する理由もない」
「捜査に協力しているからといって、真相の解明を望んでいるとは限らない」
「……僕が泉上警部のそばにいるのは、捜査を誘導するためだと?」
「あり得ないか」
「いいえ。ただ、証拠のない仮説としては、あまりにも都合がよすぎます。協力すれば『誘導』、拒めば『隠蔽』。どんな行動も同じ結論に結びつけられる仮説は、証拠にはなりません」
しばらく、誰も口を開かなかった。
卓上の録音機のランプと、音無の首輪に埋め込まれたインジケーター。二つの赤い光だけが、無機質に灯っていた。
平沢がペンを止め、山葉を見やった。
やがて山葉が口を開いた。
「では、おまえは以前から、大場がStyxの人間だと知っていたのか」
「Styxにいた頃は、まったく知りませんでした。泉上警部と捜査を進めるなかで、彼がLeader級の構成員である可能性に行き着いただけです。ですが、面識があったわけではありません。コードネームさえ知りませんでした」
「Loser」
「……何ですか」
「Loser。大場のコードネームだ。この名に聞き覚えはあるか」
音無は一瞬、言葉を失った。
Loser。
反射的に記憶を探った。だが、答えを口にするより先に、山葉が次の問いを重ねた。
「あるいは、泉上一を殺せとおまえに命じたのが、Loserだったと知っていたか」
沈黙。
音無の心臓が、ひときわ強く脈打った。
ようやく、本題が見えた。
佐藤襲撃事件は入口にすぎない。山葉が聞きたかったのは、これだった。
記録を続けていた平沢が、再び顔を上げた。
「課長。ここから先は、大場譲治殺害事件そのものに踏み込む質問です。引き続き供述する意思があるか、あらためて本人に確認すべきです」
「――拒否しても構わない。だが、この問いは、佐藤襲撃事件でおまえがあの男と共謀していたかどうかに直接関わる」
山葉の目は、音無を捉えたままだった。
音無はゆっくりと口を開いた。
「……二〇一六年の事件については、公安にはすでに供述しています。本日は佐藤襲撃事件についての任意の取調べと伺っていますので、本件との関連が明らかでない質問にはお答えしません」
「無関係ではない。Loser――大場譲治こそが、二〇一六年の任務を実際に発令した人物だと知っていたなら、おまえには大場を殺す動機があったことになる。
さらに、その犯行をStyx内部の口封じに見せかけるため、佐藤襲撃事件を仕組む理由もある」
廊下を行き交う足音が、やけに鮮明に聞こえた。
音無は口を開きかけたが、声は出なかった。
答えに迷ったのではない。
その問いで、ひとつの可能性に気づいてしまったのだ。
泉上一が初めから標的だったことは、すでに分かっている。
見落としていたのは、任務が終わったあとの流れだった。
――なぜ、FYIは何の処分も受けなかった?
SSS級狙撃手の任務資料を無断で書き換え、警視庁捜査一課長の射殺を招き、その後の混乱を引き起こした情報官。
それにもかかわらず、FYIは降格も、監禁も、処刑もされなかった。事件のあとも何事もなかったかのように、Styxが管理する拠点へ出入りしていた。
三か月にわたってあの男を監視した末、音無はWA2000でその命を絶った。
だが、あれは、自分を操り、弄び、辱めた男への復讐にすぎなかった。
音無は、机に置かれた不完全な通信記録を見つめた。
もし、その復讐さえ織り込み済みだったなら。
FYIが死ねば、問題を起こした情報官の口は封じられる。命令に背いてFYIを殺したMyosotisは、懲罰室へ送られる。
そこで投与された倍量の薬物。切り裂かれた右手首。強制的に引き出された恐怖と、薬物に意識を奪われまいと抗う身体の反応。
そのすべてが、実験データとして記録された。
データの一部は研究機関へ売られ、鎮静薬を開発するための基礎データとなった。
そして、別の一部をもとに、Myosotisの殺傷能力を九三・七パーセントまで再現した殺戮兵器――Racingが生み出された。
音無自身に残されたのは、生涯消えることのないPTSDだけだった。
仕組んだ者が、すべての展開を予見する必要などなかった。FYIを処分せず、Myosotisの手が届く場所に残す。二人の性質を知ってさえいれば、あとは二人が互いを破滅させるのを待つだけでいい。
それができるのは、泉上一の動向を把握できる情報網と、SSS級任務に介入できるだけの権限を持つ者に限られる。
さらに、FYIとMyosotisの詳細な心理プロファイルを閲覧できる立場にあったはずだ。
何ひとつ手を下していないように見えて、すべてを手に入れた者。
Loser。
かつて警察官だった男――大場譲治。
山葉正人は、音無の表情をじっと観察していた。
「今の驚きも、演技か」
「何ですか」
「もう一度聞く。大場譲治がLoserだと、おまえはいつから知っていた?」
山葉はわずかに身を乗り出し、机の上で両手を組んだ。
「大場が死んだあとか――それとも、死ぬ前か」




