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Myosotis 〜 過去は、まだ引き金を握っている 〜  作者: Bpch


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◇♪2025年(令和7年)夏 泉上光(25) 柊音無(25)



翌朝、警視庁本部。


監察係の聴取室を出てきた泉上光の顔つきは、ひどく冴えなかった。


正式な処分はまだ決まっていない。だが、監察の結論が出るまで、大場事件の捜査からは一時的に外され、自宅待機を命じられていた。


乱暴に髪をかき上げ、一刻も早くこの場から逃げ出すように廊下を進む。


ところが、よりによって、その先の壁際には小林拓也が立っていた。腕を組み、近づいてくる光をじっと見据えている。


その姿に気づいた光は足を止め、すぐさま頭を下げた。


だが、小林はそれに応じなかった。壁に背を預けたまま、珍獣でも品定めするように、光を頭の先から爪先までじっくりと眺め回す。


光はうつむいたまま、黙ってその無遠慮な視線に耐えた。


「昨日の夕方、どこかの誰かさんが国道で派手な銃撃戦をやらかしたそうだな」


小林ののんびりとした声が、頭上から降ってきた。


「そこまでできるなら、何も捜一にいることはないだろ。警備部への異動願でも出して、SATに拾ってもらえよ」


「……当分、どの事件にも関わらせてもらえません」


光はうつむいたまま、くぐもった声で答えた。


「へえ、そりゃ残念だ。てっきり上が、ご褒美に大型二輪免許でもくれるのかと思ったぞ。――で、おまえ、本当に免許は持ってるんだろうな?」


「……持ってますけど」


光はようやく顔を上げ、笑っているのかいないのか分からない小林の顔を見返した。


次から次へと皮肉を浴びせられても、甘んじて受けるしかない。


情報を伏せていたのは自分だ。


公安側の人間である井上翔太とばかり連携していたのも自分。


挙げ句の果てに、公安の顧問を後ろに乗せて東京の街をバイクで飛ばし、銃撃戦まで演じてみせたのも――やはり自分だった。


これだけの面倒を一度に引き起こしておきながら、小林が光の首根っこを掴んで警務部に突き出し、どこへでも飛ばしてくれと言い出さないだけでも、十分すぎるほどの温情だった。


「もう勘弁してください……」


「別に、からかってるつもりはない。ただ、純粋に気になってな。いったい何を言えば、上はおまえにそこまで甘くなるんだ? どう説明した?」


光は大きく息を吸った。


「……相手が先に銃を向けてきたことと、このまま放置すれば、さらに被害が拡大するおそれがあったことを話しました。緊急避難に当たる状況で、被害の拡大を防ぐために必要な措置だった、と」


「それで?」


光の視線が、気まずそうに廊下の突き当たりへと逃げていく。


「……あとは、その……『僕の恋人は、この国さ』って」


小林は数秒間、完全に固まった。


やがて眉間に深い皺が寄る。どうやら、記憶の奥に埋もれていた元ネタを掘り当てたらしい。


結局、何も言わなかった。


光はその隙を逃さず、もう一度頭を下げた。


「……その、とにかく。大場の事件は、あとはよろしくお願いします」


「それは言われるまでもない。だが、課長が今、別件の指示役として目をつけている奴がいる。おまえにも知らせておいたほうがいいだろう」


「何の事件ですか?」


「佐藤太郎襲撃事件だ。あの銃を持っていた男が、自分はStyxの末端の協力者だと認めた。最初の取調べでは、現場で柊を見て、Myosotisだと気づいたとしか話していなかった。ところが、その後になって供述を変えた。佐藤を襲えという指示は、Myosotisを名乗る通信アカウントを通じて届いたそうだ」


「その男の供述だけですか?」


「だから、まだ令状は出ていない。ただ、男の携帯から通信記録の一部が復元されたのは事実だ。そこには、MyosotisがかつてStyxで使っていた識別コードが付されていた。課長は今、柊が佐藤襲撃事件の指示役だったという線で、逮捕状の請求に必要な疎明資料をまとめている」


「――そんなの、駄目に決まってるでしょう!」


光の声が、一気に跳ね上がった。


「事実はそんなんじゃない!」


「へえ。事実とは違うのか。だったら、実際はどうなのか俺に教えてくれ」


「それは――」


光は続きを言いかけ、慌てて口をつぐんだ。


小林は、その様子を愉快そうに眺めている。


――くそ。嵌められた。


こいつは初めから、光が事件の核心に触れる情報を握っていると踏み、鎌をかけたのだ。


公安にばかり足を運び、捜一には何ひとつ共有しようとしない光から、情報を引き出すために。


そして光は、まんまと引っかかった。


呆然とする光を眺め、小林は鼻を鳴らした。壁から背を離すと、窓辺へ歩み寄り、明るい街並みに目を向ける。


「やれやれ。どうやら、どこかの誰かさんの恋人は、この国じゃないらしいな」


「……それより、主任。一つ、調べていただきたいことがあります」


「人に頼み事をするなら、先にこっちの質問に答えるのが筋だろ」


小林は振り返らないまま言った。


「それに、俺の記憶が確かなら、おまえはたった今、大場事件の捜査から外されて、自宅待機を命じられたはずだが?」


「だからこそ、主任にお願いするしかないんです。お願いします。俺たちだって、何もかも公安に先を越されるわけにはいかない……!」


公安という言葉を聞き、小林はようやく振り返った。


訝しげな目で光を見つめる。


本気で光を困らせたいわけではないのだろう。


ただ、光が公安とばかり連携し、小林には何ひとつ話そうとしないのが、多少なりとも気に食わないだけらしい。


小林はしばらく光を見つめた末、隣の小会議室のドアを開け、顎をしゃくった。


「そこまで言うなら分かった。――廊下で突っ立ってないで、中で話せ。ただし、おまえが今まで伏せてたことを、まず洗いざらい吐いてもらうぞ」


二人は小会議室へ入った。


小林が椅子に腰を下ろすと、光はすぐさま一本のUSBメモリを差し出した。


「何だ、これは」


小林の眉間に皺が寄る。


「以前、被疑者と接触した際に録音した会話データのコピーです。原データは俺の携帯に残っています。録音日時と入手の経緯については、別途報告書にまとめます」


「こんなものを無造作にポケットへ突っ込むな。あとで任意提出の手続きも取れ。いちいちやることが雑なんだよ」


「はい。……被疑者のコードネームはRacing。こいつもStyxの人間です。今なら、勤務先も通っている大学も分かっています。身柄を押さえるのは簡単ではありませんが、不可能でもない。音無は今も、こいつの動向を把握しています」


小林の眉間の皺がさらに深くなった。


差し出されたUSBメモリをすぐには受け取らず、光を睨みつける。


「これだけ重要な情報を、なぜもっと早く提出しなかった。課長は今、おまえのそばにいるあの顧問を、本格的に疑い始めてるんだぞ」


「それが問題なんです。課長は最初から、音無を佐藤襲撃事件の指示役に仕立てるつもりだった。


Racingの身柄を確保すれば、次は二つの事件を結びつける。Racingも音無の指示で動いていたことにして、大場事件そのものが音無の計画だったという筋書きに持っていくはずです。


そうなれば、Racingが何を供述しようと、真偽が確かめられるより先に、音無の身柄を押さえにかかる。」


「……泉上。言葉を選べ」


「主任、あの取調べの録音・録画は、まだ残っていますよね?

もう一度、確認してください。特に、課長が初めて音無の名前を出した、その前後です。

俺はただ、あの取調べに問題があったと、主任も思っているんじゃないかと訊いているだけです」


言わんとするところは明白だった。あまりにも露骨な指摘だった。


だが、小林は驚いた様子を見せなかった。


しばらく黙って光を見返したあと、ようやくUSBメモリを受け取り、机の上に置いた。


おそらく小林も、取調べの最中から何か引っかかるものを感じていたのだろう。そのうえ、光が重要な情報を隠していることにも気づいていた。


だからこそ、前回の捜査会議が始まる直前、廊下で光を問い詰めたのだ。


「……あいつは公安の顧問だろ。公安が何とかするんじゃないのか」


「怖いのは、その公安に音無を助ける気がないかもしれないことです」


窓から差し込む陽射しが、二人の顔の半分を照らしていた。


しばし沈黙が続く。


やがて小林は、椅子の背もたれから身を起こした。


「……分かった。だが、おまえに手を貸す前に、俺も音無本人に会わせてもらう」


そう言って腕時計に目を落とす。


「今日の午後なら、少し時間を空けられる。向こうと話をつけてくれ」


「え?」


「おまえがあいつをどんな目で見ていようが、俺には関係ない。だが、俺にはおまえと同じ思い入れはない。直接会って、自分の目で確かめてから判断する」


――おまえが惚れた相手を庇うあまり、真相まで見失っていないとも限らない。


その言外の意味は、嫌というほど伝わってきた。


光はしばらく迷った末、ようやく頷いた。


「……公安に連絡を取ります」


「柊本人を連れてくればいいだろ」


「音無は原則として、行動を井上さんに報告することになっています。それに、あの首輪には実際に録音機能があります。録音のオン・オフは公安側が管理しています。事件の話をするなら、最初からすべて筒抜けだと思っておいたほうがいい」


それを聞いた小林は、露骨に顔をしかめた。


嫌悪を隠そうともせず、吐き捨てた。


「監視だの管理だの。公安は本当に、後ろ暗いやり方が好きだな」


光は何も答えなかった。


二人で小会議室を出ると、光は改めて小林に頭を下げた。


小林が廊下の突き当たりを曲がり、その背中が見えなくなるまで、光はその場から動かなかった。


やがて携帯を取り出し、井上翔太に電話をかける。


音無は今、電話に出られないはずだ。


あのヴァイオリンケースに収められた装備を使用したあとは、音無は必ず公安の厳しい事後審査を受けることになっている。


おそらく今頃は、どこかの部屋に押し込まれ、心理検査でも受けさせられているのだろう。


音無を相手に、そんな検査でいったい何が分かるのか、光にはさっぱり理解できなかった。


電話はすぐにつながった。


『もしもし、泉上』


「先輩。音無の検査は終わりましたか?」


『検査? 昨日の発砲経緯の聴取のことか? それなら昨夜のうちに終わってる』


「じゃあ、音無は今どこにいるんですか?」


『今朝、山葉課長の直轄班が、佐藤襲撃事件について追加で話を聞きたいとして、任意同行を求めた。柊本人も応じたそうだ。どうやら、おまえたち小林班は関与していないらしいな』


光は携帯を握り締めた。


小林は知らなかった。


知っていたなら、先ほど、午後に音無と会う約束を取りつけろなどと言うはずがない。


「……任意同行なら、本人が望めば帰れるんですよね?」


『原則としてはな。本人が帰ると言い出せば、の話だが』


その声音には、明らかな含みがあった。


光はその場に立ち尽くした。


反射的に、小林が立ち去ったほうへ目を向ける。


だが、その姿はすでになかった。


人気のない廊下には、窓から差し込む白い光が、床に長く伸びているだけだった。


「……くそっ!」


光は携帯を握ったまま身を翻し、小林が消えた方向へ駆け出した。


令状はまだ出ていない。


だが、山葉課長にとっては、初めから令状など必要なかったのだ。


捜査への協力を求めさえすれば、音無は拒まない。


山葉は初めから、それを分かっていた。


そう悟った途端、光はさらに足を速めた。


頼むぞ、音無。


そんなくだらねえ罪悪感に引きずられて、真相が明るみに出る前に、勝手に自分を差し出したりするんじゃねえぞ……!

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