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泉上光は、まさか自分の身にこんな日が来るとは、夢にも思っていなかった。
主人公がバイクで車列の隙間を縫うように駆け抜け、敵の車に何度体当たりされても死なず、最後には間一髪でバイクから飛び降りて助かる。
そんな、頭を空っぽにして観るようなアクション映画なら、これまでにも山ほど観てきた。
けれど、あんなものは監督が派手な画を撮るためにでっち上げた大嘘だ。コ○ンが蹴り飛ばしたサッカーボール一発でクルーザーを沈めるのと、大して変わらない。
そして今、光はその大嘘を、自分の身体で実演していた。
前方の黒い乗用車は、住宅街の狭い道を縫うように走っていた。
捕まえようとすれば、ぬるりと手をすり抜けるどじょうのように、わずかな隙間へ次々と車体を滑り込ませていく。
運転手は、この辺りの地理を知り尽くしているらしい。どの角でも迷う素振りひとつ見せず、躊躇なくハンドルを切る。タイヤが路面の水溜まりを踏み、跳ね上げられた飛沫が西日を受け、一瞬だけ光の弧を描いた。
やがて黒い車は狭い路地を飛び出し、片側二車線の幹線道路へ躍り出た。
改造マフラーが、耳障りな高音を撒き散らす。違法改造車なのは、まず間違いなかった。
光も負けじとスロットルを開けた。
「一一〇番だ! 追跡中だと伝えろ! 公安の担当にも連絡しろ!」
光が怒鳴った。
「もう通報しています。公安にも位置情報を送っています!」
音無の返事も風に引き裂かれ、途切れ途切れにしか聞こえなかった。
速度だけでは振り切れないと悟ったのだろう。
黒い車は車線変更と割り込みを繰り返し、ときには車体をバイクへ寄せ、光に減速を強いた。
リアバンパーの擦り傷まで、はっきり見えるほど距離が縮まることもある。だが次の瞬間には、前方に生まれたわずかな隙間を逃さず、一気に加速して距離を引き離していく。
「くそっ……!」
悪態はヘルメットの内側に押し込められた。
光はバイクを倒し込むたびに重心を移し、肩を低く落としたまま、前方から一瞬たりとも目を離さない。
黒い車との距離は、百メートルもなかった。
振り切られてはいない。だが、それ以上はなかなか詰められない。
――くそっ、せめて親父のSUVが使えりゃ……!
黒い車が再び大きくハンドルを切り、何の前触れもなく、さらに細い路地へ飛び込んだ。
光は目を細めた。
狭い場所なら、車よりバイクのほうが圧倒的に有利だ。
歩道の縁ぎりぎりを掠めるように抜ける。サイドミラーが塀に触れそうになっても、アクセルは緩めなかった。
五十メートル。ようやく、そこまで距離を詰めた。
――いける!
黒い車が住宅街を抜けた。
視界が一気に開ける。
沿道の住宅はまばらになり、代わりに倉庫や自動車販売店、大型のチェーン店が目立ち始めた。
街灯の間隔も広がり、道路は真っ直ぐ先まで伸びている。道路脇に立つ青い逆三角形の国道標識に、白抜きの「16」が浮かんでいた。
国道十六号――通称、東京環状。
二人はほとんど同時に、自分たちが国道十六号の北行き車線へ入ったことを悟った。
――どいつもこいつも、命知らずの馬鹿ばっかりだ!
胸の内で毒づきながらも、光は自分の推測が正しかったことを確信していた。
親父が残したあの封筒には、必ず何か重要なものが入っている。
国道でこれほど無茶な逃走を続け、応援のパトカーに前後を塞がれる危険まで冒して、それでも光の手には渡したくないと思わせるほどの何かが。
あの中には、いったい何が入っている?
あいつらは、いったいいつからあの墓地で待ち伏せていやがった?
そして何より――応援はまだか!? 井上の野郎、普段は頼みもしないのに俺と音無の尻を追っかけ回してるくせに、どうしてこういうときに限っていやしねえんだ!
バイクが低く咆哮し、国道十六号の北行き車線を、さらに速度を上げて駆け抜けた。
国道へ入ると、交通量が増え、車の流れも一気に速くなった。
連続する信号。並走する大型トラック。脇道からいつ飛び出してくるか分からない車。
そのどれもが、追跡を一瞬で大事故へ変えかねなかった。
前方の信号が赤に変わり、黒い車は車列に行く手を塞がれた。
わずかに速度が落ちる。
その隙に、音無は光の腰に回していた片腕をほどいた。ショルダーストラップを緩め、背負っていたヴァイオリンケースを身体の前へ回す。
金具の外れる乾いた音がした。
何をしているのかと聞く暇もなかった。
信号が青に変わるや、黒い車は交差点を飛び出した。
光は背後から浴びせられるクラクションを無視し、車列の隙間を縫って、再び黒い車の背後へ食らいついた。
そのとき、助手席側の窓が下がった。
激しく揺れる視界の中、黒い銃口が窓枠の外へ突き出される。
そこだけが不自然なほどぶれることなく、後方の標的を捉えていた。
――泉上光。
光はハンドルを握る手に力を込めた。
相手の指は見えない。それでも、引き金の遊びを殺し、発射寸前まで絞り込んでいくさまが、ありありと想像できた。
次の瞬間、弾丸が飛んでくる。
たとえ弾が外れても、銃声に反応してバランスを崩せば、ハンドルは簡単にぶれる。
この速度でバイクが制御を失えば、自分も音無も放り出される。ガードレールへ叩きつけられるか。それとも、後続車に轢かれるか。そんなことになれば――
そのとき、沿道の街灯がひとつ、またひとつと灯り始めた。連なる光は一本の帯となり、この馬鹿げた追跡劇の舞台を、無駄に華々しく照らし出していく。
だが――
別の銃口が、光の右肩越しに突き出された。
「光さん、伏せて。直進してください」
光は反射的に上体を伏せ、胸が燃料タンクへ貼りつくほど身体を低くした。両手でハンドルをしっかりと握り、バイクを直進させるため、全身で車体を押さえ込む。
背後の音無が何を狙い、どう撃つつもりなのかまでは分からない。だが今、自分がしなければならないことだけは分かっていた――音無にとって、可能なかぎり安定した銃架にならなければならない。
相手の指が、今にも引き金を絞り切ろうとしている。
光が思わず目を細めかけた、その瞬間――
音無のほうが、わずかに速かった。
銃口炎が、暮れかけた空を引き裂いた。
ヘルメットを被っていても、凄まじい銃声が鼓膜を打った。
衝撃に光の腕がびくりと強張った。それでも歯を食いしばり、全身の力でハンドルを押さえ込んだ。
黒い車の助手席から突き出されていた腕の付け根で、赤い飛沫が弾けた。
銃を握っていた手が痙攣し、拳銃が指先から抜け落ちる。そのまま回転しながら路面へ叩きつけられ、十数メートル先まで滑っていった。
撃たれた男が車内へ崩れ落ちる。肩口から噴き出した血が、運転席側へ飛び散った。
黒い車が大きく蛇行した。
路肩に並んでいた樹脂製のバリケードへ突っ込み、中に入っていた水を路面へぶちまける。タイヤがその上を通り、濡れた筋を引いた。最後に金属製のポールへ車体を擦りつけ、ようやく斜めに路肩へ停まった。
光は前後のブレーキを一気にかけた。タイヤが鋭く鳴き、バイクは黒い車の後方で辛うじて停止した。
両足を地面についた途端、脚の筋肉がまだ細かく震えていることに気づいた。
エンジンは低いアイドリング音を響かせたまま、何事もなかったかのように回り続けている。
追跡は、ようやく終わった。
音無はすぐさま後席から飛び降りた。
そこで初めて、光は気づいた。
音無が手にしていたのは、HK416だった。銃口は、黒い車の運転席側のドアへぴたりと向けられている。
――おい、いつの間に中身を入れ替えた?
WA2000は置いてきたのか? まさか、ヴァイオリンまで――
あのケース、四次元ポケットかよ!?
だが音無は、光の視線など気にも留めていなかった。HK416を構えたまま、運転席から目を離さない。
「両手をこちらから見えるところに出してください。余計な動きはしないでください」
音無はそう告げると、ヴァイオリンケースを肩から外し、足元へ下ろした。
ごとん、と重い音が響く。
「もう一度、僕の前で銃を抜こうなんて考えないでくださいね」
あまりにも穏やかな声だった。
運転席側のドアが、ゆっくりと細く開いた。隙間から片手が伸び、五本の指が開かれる。掌はこちらを向いていた。
続いて、もう片方の手も出てくる。同じように指を開き、掌をこちらへ向けていた。
「右手はそのまま見える位置に。左手だけでエンジンを切って、キーを路上へ放ってください」
エンジン音が止んだ。
やがてキーが路面へ落ち、乾いた金属音を立てる。
「はい。そのまま、ゆっくり車から降りてください。地面に伏せて。余計な動きはしないでください」
音無は銃口を向けたまま、素早く車内へ視線を走らせた。
助手席では、撃たれた男がシートへ倒れ込んでいた。片手で肩を押さえ、指の間から血が滲んでいる。
反撃できる状態ではなかった。それでも意識は保っていた。
「あなたは、そのまま傷口を押さえていてください。こちらが許可するまで、ほかの場所へ手を伸ばさないで」
ようやく音無はわずかに顔を傾け、視線だけで光へ合図を送った。
「今のところ、ほかの武器は見当たりません。――光さん、お願いします」
光はそこでようやくエンジンを切り、バイクから降りた。
ヘルメットを脱ぐと、それまでくぐもっていた周囲の音が一気に押し寄せてくる。
運転手を地面へ伏せさせ、後頭部の上で両手を組ませた。続いて助手席を確認する。
そのとき、座席とセンターコンソールの隙間に挟まっているものが目に入った。
少し黄ばんだ封筒。
光はスマートフォンを取り出し、追跡中に音無が通報した一一〇番へ、改めて電話をかけた。
「……先ほど通報した、国道十六号の逃走車両の件です。警視庁捜査一課の泉上です」
路肩の標識を見上げ、現在地を確認する。
「現在地は昭島市内、国道十六号の北行き。逃走車両を停止させ、被疑者二名を確保しました。一名に銃創、意識はあります。所轄の応援と救急を至急お願いします。発砲したのは同行中の公安協力者です。相手が先に拳銃を向けました。詳細は現場で説明します」
通話を切り、光は音無のそばへ戻った。
音無は今も警戒を解いていなかった。呼吸は異様なほど落ち着いている。高速走行中のバイクから発砲した直後の人間とは、とても思えなかった。
「光さん。応援が来る前に、封筒の中を確認してください。今を逃したら……」
音無は最後まで言わなかったが、首に嵌められた黒い電子首輪へ、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
それだけで、光には伝わった。
これから公安か刑事のどちらかが現場を引き継げば、封筒がもう一度自分の手元へ戻ってくる保証はない。証拠品として扱うなら、現場で勝手に開封すべきではない。正規の手続きを踏み外す行為だ。
それでも、山葉課長と井上先輩の態度には、それぞれ引っかかるものがあった。
光は迷わなかった。助手席とセンターコンソールの隙間から封筒を引き抜き、逆さにして中身を掌へ落とした。
入っていたのは、数枚の古い写真だった。
そのほとんどが、何者かに引き裂かれている。
半分しか残っていないものもあれば、三分の二ほど残っているものもあった。
一枚目。残っている半分には、学ラン姿の少年が立っていた。
黒い詰襟。金色のボタン。まだ幼さの残る顔。
間違いない。大場譲治だった。
二枚目は、三分の二ほど残っている。写真の中央には、泉上美咲――母さんが立っていた。その左側には、大場譲治。
写真の中の二人は、まだ二十歳を少し過ぎたばかりに見えた。
いちばん右に写っていた人物の部分だけが、破り取られていた。
三枚目。大場はすでに警察官の制服を着ていた。どこかの警察署の前に立ち、あの人のよさそうな、少しはにかんだ笑みを浮かべている。
その写真も、右側だけが引き裂かれていた。
先ほどの追跡のせいなのか。それとも、張り詰めていたものが切れた反動なのか。光の手が震え始めた。
遠くからサイレンが聞こえてくる。交差点の向こうには、点滅する赤色灯がすでに見えていた。
時間がない。応援が到着する前に、この封筒に何が残されていたのか、すべて確かめなければならない。
光は残りの写真へ手を伸ばした。最後の一枚に指をかけたところで、手が止まった。
その一枚だけは、どこも破られていなかった。
そこには、二人が写っていた。大場と、見覚えのない女性。二人とも、警察官の制服を着ていた。
涼しげな目元の女性が、大場と肩を並べ、警察署の前に立っている。陽射しが、二人の影を足元から長く引き伸ばしていた。
――この一枚だけは、誰にも渡せない。
根拠はなかった。それでも、そう思った。
光は震える手で写真を裏返した。
裏面に、短い一文が書かれていた。
細く丸みを帯びた、若い女性らしい筆跡だった。インクはすでに薄れかけていたが、書かれた文字は一文字残らず、はっきりと読み取れた。
――これからずっと一緒だよ!
――K.N.より




