39
午後。
頭上にあった太陽は少しずつ西へ傾き、街路樹の影をゆっくりと長く伸ばしていた。
バスの車内では、送風口から絶え間なく冷気が吐き出されている。
泉上光と柊音無は、最後列の座席に並んで座っていた。
窓側の壁に頭を預け、光は目を閉じている。目尻の睫毛が一本だけ、妙な方向にはねている。普段は険しく寄せられている眉も、今だけはわずかに緩んでいた。
窓から差し込む光と影の斑が、その横顔を流れていく。
音無は窓の外へ目を向けた。
コンビニ。居酒屋。部活帰りらしい中学生。犬を連れて歩く老人。どこにでもある、ごくありふれた街の風景が、早回しのフィルムのように流れていく。
車内は静かだった。聞こえるのはエンジンの低い唸りと、空調のかすかな駆動音。そして時折、前方から流れてくる停留所案内の電子音だけだ。
最後の登録地点。最後の墓地。
そこでも何も見つからなければ、Racingがなぜあの夜、SUVのカーナビを狙ったのか、もう一度最初から考え直さなければならない。
十五分ほど経った頃、バスは速度を落とし、停留所へ滑り込んだ。
プシュッ、と空気の抜ける音がして、前方のドアが開く。
地面へ降りた途端、真夏の熱気が足元から立ちのぼり、冷えた体を一気に包み込んだ。
光はスマートフォンのロックを解除した。地図アプリには、最後の墓地までの経路が表示されている。
現在地を示す矢印を見下ろし、周囲の標識を確かめる。それから二人は、ほとんど同時に歩き出した。
「光さん。もしそこも、何の変哲もない墓地だったら……どうしますか」
「なるようにしかならねえよ。おまえがStyxにいた頃、俺に送ってきた資料をもう一度洗い直す」
光は前を向いたまま答えた。
「大場がStyxのリーダーで、しかも親父と知り合いだった以上、何も残ってないはずがない。俺たちが今まで見落としてただけだ」
その口調はいつも通り、きっぱりとしていた。
音無は無意識に手を伸ばした。少年だった頃のように、その手を取ろうとして――指先が触れるより先に思いとどまり、黒いヴァイオリンケースのストラップを強く握りしめた。
これまで訪れた霊園とは違い、今度の墓地はさほど広くなかった。住宅街の奥に埋もれるようにあり、意識して探さなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうな場所だった。
入口には古びた石造りの門が立っている。両脇の石柱は青い苔に覆われ、長い歳月を感じさせた。
敷地内には、墓石が狭い間隔で整然と並んでいた。午後の陽射しを受け、地面に長さの異なる影を落としている。
あたりは静かだった。線香と花の香りに、湿った土と青い草の匂いが混じっている。
光は墓地の管理事務所を訪ねた。
瓦屋根には雑草が数本伸び、白い外壁の塗装もところどころ剥がれ落ちている。ずいぶん前からそこに建っているらしい、小さな平屋だった。中では、白髪の目立つ老人が、老眼鏡をかけて帳簿のようなものをめくっていた。
戸口に立つ二人の気配に気づくと、老人は老眼鏡越しに目だけを上げた。
「すみません。お忙しいところ申し訳ないんですが、少しお聞きしたいことがありまして」
光は老人に事情を説明した。
老人は途中で口を挟むことなく、深い皺の刻まれた額を寄せながら、最後までじっと耳を傾けていた。
だが、話を聞き終えると、困ったように首を横へ振った。
「そう言われてもねえ。ここへ来る人を、いちいち記録しているわけじゃないからね。黒髪で、背丈が百七十八センチくらいと言われても……」
老人は申し訳なさそうに、もう一度首を振った。
ほかにどう条件を絞ればいいのか。考えを巡らせていたところへ、音無が口を開いた。
「……では、同じお墓に、二人の男性が何度も訪ねてきたことはありませんか。片方は百七十三センチくらいで……」
「ううん……」
老人は腕を組み、再び記憶を探り始めた。
「ああ、二人一緒とは限りません」
光がすぐに付け加える。
「数日おきか、しばらく間を空けて、入れ違いに来ていた可能性もあります。同じ墓へ、交互に」
老人の眉間の皺がさらに深くなった。しばらく唸りながら考え込んだあと、ふいに「ああ」と声を上げる。
「そういえば、いたねえ。確かに、そんな二人がいたよ」
「覚えてるんですか?」
「ああ。ここにも墓参りに来る人は大勢いるけど、あの二人は妙に印象に残っていてね」
「どんなところが?」
光が身を乗り出す。
「同じ墓へよく来ていたんだが、二人が一緒にいるところは一度も見なかった。まるで鉢合わせしないように、あらかじめ申し合わせていたみたいだったよ」
老人は記憶を確かめるように、ゆっくりと頷いた。
「それに、二人とも決まって桃色の花を持ってきた。トルコキキョウだったかね。ただ、背の高いほうは、もうずいぶん長いこと来ていない。もう一人のほうなら、今年も何度か来ていたが……」
光は、さっと血の気が引くのを感じた。
つい先ほど、自分が口にした冗談が脳裏によみがえる。
――親父がまだ別の女に未練でも残してないか、確かめに行く。
まさか本当に、自分の言葉が現実になろうとしているのか。さらにろくでもない想像が頭の中に湧き上がった。
泉上一と大場譲治。一人の亡き女を巡って争った二人の男。しかも既婚者で、子供までいたのは父親のほうだ。
かつての親友に裏切られた大場は、怒りのあまり泉上と決別。そのままStyxへ身を投じ、ついにはリーダーとなり、FYIに音無の任務資料を改ざんさせ、昔の親友を一発で仕留めさせた――。
もし事件の真相が本当にそんなものだったら、いっそ音無にここで撃ち殺してもらいたい。
いや、その前に、警視庁の廊下で大見得を切った過去の自分を撃ってほしい。
――これからは、俺のやり方で調べます。何が分かったとしても、それをどう受け止めるかは、俺が決めます!……
こんな真相だけは死んでも知りたくない。
光の顔色がみるみる悪くなっていくのを見て、音無は仕方なく話を引き取った。
「そのお墓まで案内していただくことはできますか」
「もちろん。ついておいで」
二人は老人のあとに続き、墓地の奥へ向かった。
案内された墓の前で、光は顔を上げた。
墓石に刻まれていたのは、これまで一度も耳にしたことのない名前だった。
――川瀬奈緒。
一九六八年生まれ、二〇〇四年没。
飾り気のない、簡素な墓だった。
磨かれた黒い花崗岩には、故人の名前と生没年だけが刻まれている。
墓前には、枯れかけた桃色のトルコキキョウが一束供えられていた。花弁の縁はすでに丸まり、ところどころ黄ばみ始めている。供えられてから、何日か経っているらしい。
老人は二人を墓前まで案内すると、「じゃあ、私は戻るから」と言い残し、足早に管理事務所へ戻っていった。
その場には、光と音無だけが残された。
二人は見知らぬ女の墓と向き合ったまま、しばらく何も言わなかった。
風が墓地を吹き抜け、木々の葉をざわめかせる。遠くで烏が一声鳴いた。その声は午後の空気に長く残り、妙に物寂しく響いた。
「……川瀬奈緒」
音無は墓石から光へ視線を移した。
「お父さんから、この名前を聞いたことはありませんか」
「聞いてるわけないだろ。何て説明するんだよ」
「……そういう意味ではありません!」
音無の頬が一気に赤くなった。
「どうして光さんは、泉上さんと川瀬さんの関係を、そちらの方向にしか考えられないんですか」
「じゃあどう考えろってんだよ。わざわざ桃色の花を選んで持ってきてるんだぞ」
光は墓前の花を指さした。
「母さんの墓参りじゃ、俺に『適当に花を買ってこい』って言うだけで、花の種類なんか一度も気にしなかったくせに、この川瀬さんには毎年、桃色のトルコキキョウだ。おまえならどう思う?」
言いながら、光はやりきれないように顔を擦った。
怒りというより、父親の知るべきではなかった一面を覗き見てしまったような、何とも言えない気分だった。
「だから死んだあとってのは怖いんだよ。隠してたことまで、あとから全部掘り返される。俺も検索履歴くらいは、生きてるうちに消しておかねえとな……」
「まったく、そういう問題ではないでしょう……」
音無は呆れ顔を作っていた。
だが光には分かっていた。この男も、笑うのを必死に堪えている。
「それに……仮に恋敵だったとしても、どうして二〇一六年まで待つ必要があるんですか。
泉上さんを殺すためだけにStyxへ資金を提供して、組織のリーダーにまでなったとしたら、いくらなんでも回りくどすぎます。最初からStyxに暗殺を依頼すれば済む話でしょう」
「はいはい。分かった。もう冗談はやめる」
光は片手を上げた。
「正直、俺もさすがに下世話すぎる推理だと思ってた。ひとまず親父を信じてやることにする」
光は墓前にしゃがみ込み、あらためて墓石を見つめた。
黒い花崗岩の表面が、午後の陽射しを受けて淡く光っている。
指先を伸ばし、「川瀬奈緒」と刻まれた文字の溝に触れた。
「川瀬奈緒……この人も、桜咲高校の卒業生だったりしてな。明日、時間が取れたら、大森先生にもう一度聞いてみるか」
「光さんは、どうしても三角関係にしたいんですね」
「違う。今のところ、この名前以外に手がかりらしいものが見当たらないだけだ」
光は指先についた埃を軽く払った。
「……なあ。この名前、どこかで聞いた気がしないか」
「珍しい名前ではありませんから、そう感じるだけでは?」
「いや……何かを見落としてる気がするんだよな」
光は頬を掻き、もう一度墓石へ視線を戻した。
「それに、大場と親父が同い年だってことも、頭では分かってた。でも今日、大森先生と会って、ようやく実感したんだ」
「何をですか?」
「あの二人、生きてたら、もう五十八なんだよ」
「ええ。だいたい、そのくらいですね」
「五十八にもなる男が、毎年この人の墓に花を供えてた。その一方で、二丁目の男性向け風俗店へ通って、SMプレイで、しかも縛られる側だぞ」
光は何とも言えない顔になった。
「……光さん。それは川瀬さんのお墓の前でする話でしょうか」
「別に、性癖がどうだの、節操がないだのって話をしてるんじゃない」
光の表情から、ふざけた気配が消えた。
「ただ、よく考えると、何かがおかしいと思ったんだよ」
光は立ち上がり、墓石に刻まれた年を見つめた。
「……この人は、どうして死んだ?」
音無も表情を引き締めた。
「三十五か、三十六だ。どう考えても、寿命を迎えるような年じゃない。この人の死についても、調べてみる必要がありそうだ」
二人は墓前で手を合わせ、深く一礼した。
それから踵を返し、墓地の出口へ向かって歩き出した。
門を出ようとしたところで、背後から慌ただしい足音と呼び声が聞こえた。
二人が振り返ると、先ほどの老人がこちらへ急いでいた。
「どうしました?」
光は老人のもとへ駆け寄った。
老人は二人の前で立ち止まると、肩で何度か息をした。呼吸が落ち着くのを待ってから、ようやく口を開く。
「いやね。あんたたちと話していて、やっと思い出したんだ。あの背の高い男から、ひとつ預かっていたものがあった」
光と音無は顔を見合わせた。老人は懐から、少し黄ばんだ封筒を取り出した。
「もし将来、大場さんと川瀬さんのことを調べて、ここまで辿り着く人がいたら、その人に渡してほしいと言われてね」
老人は封筒を光へ差し出した。
「きっとこれは、あんたのために残したものなんじゃないかね」
紙はわずかに黄ばんでいたが、破れも折れ目もない。表には宛名も差出人もなく、何も書かれていなかった。
光は封筒を受け取った。
「中身は?」
「さあ。私はただ、預かっていただけだから」
老人は片手を振った。
「ともかく、確かに渡したからね――」
その言葉に重なるように、門の外でエンジンが低く唸った。
音無が鋭く振り返る。
いつの間に現れたのか、黒い乗用車が二人のすぐ背後まで迫っていた。
すれ違いざま、助手席側の窓が開く。車内から伸びた腕が、光の手にあった封筒を一気にひったくった。
「っ――!」
強い力で引かれ、光の体が大きくよろめいた。
傍らにいた老人も驚き、悲鳴を上げる。
「てめえ、待て――!」
光が怒鳴ったときには、黒い車はすでに速度を上げていた。
赤いテールランプが、午後の陽射しを弾いて一瞬だけ鋭くきらめく。
音無は素早く周囲を見回した。
通り。歩行者。車。そして最後に、路肩に停められた一台のスポーツバイクへ視線を止める。
派手なTシャツを着た若い男が、シートにもたれてアイスキャンディーを齧りながら、目の前で起きたことを呆然と見つめていた。
「光さん、あれを!」
音無の声が飛ぶ。
光はすぐに駆け出した。シャツの胸ポケットから警察手帳を抜き、男の目の前で開いてみせる。
「警察だ。緊急事態だ。頼む、このバイクを貸してくれ。責任は警視庁が取る。鍵は?」
「えっ、何!? 映画の撮影!?」
男は目を丸くした。手にしていたアイスキャンディーが、危うく地面へ落ちかける。
状況を飲み込めないまま、それでも男は慌ててポケットを探り、取り出したキーを光へ差し出した。
光はそれを受け取るなり、ヘルメットの一つを音無へ放った。
「悪い、あとで必ず返す!」
すぐさま車体へ跨がり、キーを差し込んでセルを回す。
エンジンが低く唸った。光はクラッチを握り、一速に入れてアクセルを煽る。
音無も後部座席へ飛び乗った。背負った黒いヴァイオリンケースが邪魔にならないよう、ストラップの位置を素早く直す。
「追ってください。証拠を処分される前に!」
「言われなくても!」
次の瞬間、オートバイは路面を蹴り、弾かれたように走り出した。
風圧が一気に二人の体を後ろへ押し返した。
街の景色を次々と押し流していく。道路脇の建物も、街路樹も、行き交う人影も、輪郭を失って色の帯へ変わっていった。
西へ傾いた陽射しが二人の背を斜めに照らし、疾走する影を路上へ長く伸ばしている。
風が唸る。エンジンが轟く。空の端が、わずかに橙色を帯び始めていた。
その先。
遠ざかっていく黒い車のテールランプが、挑発するような赤い光を放っていた。




