38
霊園は小高い丘の中腹にあり、周囲を深い木立に囲まれていた。
整然と並んだ墓石は、柔らかな陽射しの中で静かに影を落とし、あたりには線香の煙と、供えられた花の香りがほのかに漂っている。
ときおり風が吹き抜けると、木の葉がさらさらと葉擦れの音を響かせた。
まるで、遠い記憶を呼び起こすような音だった。
音無は、霊園の入口で足を止めた。
門の内側へ続く石畳の上で、黒いバイオリンケースのストラップを握ったまま、ただ立ち尽くしている。
目の前には、霊園の奥へ続く砂利道が伸びていた。
数歩先を歩いていた光が、不思議そうに振り返る。
「ここから先は、光さんひとりで行ってください。僕は……一緒には行けません」
「……なんだよ。そんなところで止まってないで来いよ。おまえが来れば、親父も自分を殺した相手の顔を見たいだろ?多分」
「……僕は……」
「来いよ。おまえには、俺の親に謝る覚悟くらいあるだろ。それとも……それすらできないって言うのか」
沈黙が落ちた。
遠くの林から、時折、蝉の声だけが響いていた。
「……そうですね」
音無は俯いたまま、静かに答えた。
光は霊園の管理棟で手桶と雑巾を借り、戻ってきた。音無は、影のように黙って、その後を追う。
見知らぬ名前の刻まれた墓石の間を抜け、墓前に供えられた花や供物の脇を通り過ぎる。
風に散った枯れかけの花びらが、足元にいくつも落ちていた。
やがて、ふたりはある墓の前で足を止めた。
深い灰色の花崗岩で作られた墓石には、台座に薄く苔が生え、縁の隙間からはいくつかの雑草が顔を覗かせている。
光は墓前に立ったまま、両親の名が刻まれた墓石をじっと見つめていた。
「悪いな、父さん、母さん。急に来たから、花も線香も持ってこられなかった。……もう、ずいぶん長いこと顔を見せてなかったな」
光の声には、いつもの強気な響きはなかった。
そこにあったのは、静かな後悔だけだった。
音無は、光の二歩ほど後ろに立ち、その影に隠れるように身を縮めていた。
墓石を見ることはできなかった。ただ俯いたまま、少しでも自分の気配を消そうとしていた。
「……ああ、それから――親父を殺した奴も連れてきた。めちゃくちゃな話だけどな……。まあ、今はそいつと一緒に事件を追ってる。だから……今は、こうするしかねえんだ」
そう言って、光が半歩下がると、音無はひとり、両親の名が刻まれた墓石の前に立っていた。
その肩が、ほんのわずかに震えた。
「……泉上さん。……そして、奥さん。……ごめんなさい。僕は……」
唇を噛んだ。何か伝えたいことがあるのに、言葉にならない。
音無は深く頭を下げた。
冷たい墓石に向かって、震える声で呟いた。
「……ごめんなさい……本当に……本当に、ごめんなさい」
その声は、初夏の静かな午後へと消えていった。
しばらくして、光は膝をつき、雑巾を手桶の水で濡らして固く絞ると、それを音無へ差し出した。
「……一緒にやるか」
音無はゆっくりと顔を上げ、両手で雑巾を受け取った。
「……はい」
ふたりで墓石を拭きはじめた。花崗岩の表面を雑巾で擦る、かすかな音だけが響いた。
刻まれた文字の溝に詰まった埃も、台座の隙間に残った雑草も、少しずつ取り除かれていった。
言葉はなかった。雑巾が墓石を擦る音と、水滴が地面へ落ちるかすかな音だけが、静かな墓前に響いていた。
「ガキの頃、親父に連れられてここへ来た時は、ずっとわからなかったんだ。
なんで親父は、わざわざ雑草なんか抜いて、墓まで綺麗にするんだろうって。
死んじまえば、残るのはただの石だろ。石なんて雨風に晒されてりゃ、どれだけ綺麗にしたって、いつかは汚れる。結局、自己満足なんじゃないかってな」
光はいったん言葉を切り、握っていた濡れた雑巾へ視線を落とした。
水滴が指の間からこぼれ落ち、墓石にいく筋もの跡を残していく。
「……それから、親父も死んだ。その時になって、初めてわかったんだ。
人が死んじまったら、残された側には花を供えるか、墓を拭くか……もう、亡くなった人にしてやれることなんて、それくらいしかないんだってな」
光は雑巾を手桶の水に沈めた。
水面に小さな波紋が広がり、ゆっくりと消えていく。
その波紋を見つめながら、光は低い声で言った。
「生きている人間は、どうしたって、死んだ人間に何かをしてやることはできない。
墓前に来たって、話しかけることくらいしかできない。
でも、いつまでも言葉が続くわけじゃない。
それでも、もう少しだけ、両親のそばにいたいと思ってしまう。
だから結局、俺たちにできることなんて、掃除くらいしか残らないんだ」
光はゆっくりと顔を上げ、墓石に刻まれた両親の名を見つめた。
「生きてる間は、何もしてやれなかった。死んだあとに何をしたところで、意味なんてないのかもしれない。
でも、それでも……他にしてやれることなんてないんだ。
墓参りって、たぶん、そういうことなのかもな」
音無は、ただ黙ったままだった。
墓石を挟んだ向こう側で膝をつき、雑巾を握った手は、同じ場所を何度も何度も擦り続けていた。
「音無」
「……はい」
「間違ったことは、どうしたって間違ったままだ。償えないことだってある」
墓石越しに、光の低い声が届いた。
「俺が毎日ここに来て、どれだけ墓を磨いたところで、親父が生きている間に、あの人の苦しみに気づけなかった。
それだけじゃ、何の償いにもならない。
十六歳の泉上光は、自分のことしか見えていない、思い上がったガキだった」
「……」
「おまえも同じだ。これから先、どれだけ償おうとして、後悔し続けたところで、おまえは俺の親父を殺した。
その事実だけは、どうあがいても覆らない」
墓石の向こうから聞こえていた、雑巾が墓石を擦る音が、ふっと止んだ。
雫がひとつ、またひとつと、墓石の裏側を伝って落ちていく。
光は手桶から雑巾を取り出すと、無言のまま、力を込めて雑巾を絞った。
「でもな、人間ってやつは、生きてる限り、前に進んでいくしかない。
立ち止まったら、過ちはそこで固まっちまう――少なくとも俺は、そう思ってる」
絞った雑巾を握り直し、墓石の反対側の面を静かに拭き始める。
「前に進めば、過ちにどんな意味を持たせるかだって変えていける。別の何かに変えていける。……残された人間が、生きていくための支えにだって、なれる」
「……光さんが言いたいことは、分かっています」
「マジかよ。俺だって、何を言いたいのかよく分かってないんだけどな」
光は小さく笑った。
「でも、どうしてもおまえには言っておかなきゃならないと思った。
そうじゃなきゃ、おまえはまた俺の知らないところで、無茶なことばかり考えて……どうしようもないところまで自分を追い込む。
それで、傷だらけになって俺の前に戻ってきて、全部話したいくせに、何も言わないまま俺に殺される覚悟を決めたみたいな顔をする……そんな顔だろ」
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
光は膝に手を置いて立ち上がり、手についた埃を払った。
「行こう。少なくとも、無駄じゃなかった。
親父も、自分を殺したのが、こんな人の良さそうな顔したやつだって知ったら、あの世で呆れながら寝返りを打って、『もういいから帰れ』って手でも振ってるだろ」
「……すみません、光さん」
音無はそう言って、静かに墓前へ向き直り、もう一度深く頭を下げた。
「すみません、泉上さん。大場さんの件は、必ず……光さんと協力して、真実を明らかにしてみせます」
「はいはい、もういい。行くぞ。次の墓参りだ。親父がまだ別の女に未練でも残してないか、確かめに行く」
「な、なにを言ってるんですか……」
「だってそうだろ。母さんの墓より、あっちの墓に通ってた回数のほうが多いんだからな」
音無は小走りで光の後を追った。
霊園を渡る風が、静かに並ぶ墓石をひとつひとつ撫で、拭き清められた石の表面を滑るように、遠くへと流れていった。




