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大森先生への最後の挨拶を済ませると、泉上光と柊音無は無言のまま、桜咲高校をあとにした。
夏の午前の陽射しを浴び、校門へ続く石畳はすでに熱を帯びていた。
校門を出たところで、光はふと振り返った。
門がゆっくりと閉じていく。青空の下、校舎の窓が夏の陽射しを白く弾いていた。
閉ざされていく門の向こうに、普通の高校生として過ごした時間だけが取り残されていく気がした。
「……親父は、何も話してくれなかった」
「何を?」
「桜咲の卒業生だったってことだ。そんな話、一度も聞いたことがない」
光はしばらく黙り、重い息を吐いた。
「……行こう」
ふたりは再び歩き出し、校門の先へ続く長い坂道を下っていった。
道の両脇に並ぶ桜並木が、地面に細かな木漏れ日を落としている。
風が枝葉を揺らすたび、光の粒が足元でほどけた。
音無は光の少し後ろを歩いていた。背負った黒いヴァイオリンケースが、陽射しの下に長い影を伸ばしている。
「どうやら大場さんは、光さんのお父さんと同級生だったらしいですね」
「あんな距離感、ただの同級生ってだけじゃ説明がつかない」
光は桜の枝葉の隙間にのぞく、切り取られたような青空を見上げながら、ぽつりと言った。
「大場が桜咲高校の出身だってことは、前から調べて知っていた。でも、まさか親父と繋がっていたなんて思わなかった……。どういうことなんだよ、これ」
「……光さん。棚の上にある、あの小さな茶色の写真立てを覚えていますか。
お父さんの肩に回されていた手。あれは、大場さんのものですよね」
光の足が止まった。
脳裏に浮かんだのは、警察官の制服姿の泉上一が写った、あの写真だった。
写真の左側だけが引き裂かれている。その空白を埋めるように、光自身が、自分の制服姿の写真を貼り重ねた。
父と子を無理やり繋ぎ合わせた、継ぎ接ぎの一枚だった。
光は、絡まった考えを力ずくでほどくように髪をかきむしった。
「だとしたら、大場は親父の友人だった。でも何かがあって、二人は袂を分かった。親父は一緒に写った写真を破り、自分の側だけを残した。
その後、大場は警備会社の社長になり、Styxへ資金を流して、組織の中枢にまで入り込んだ……」
そこで口を閉ざした。
その先にある答えはあまりにも重く、喉の奥で言葉が詰まった。
「――そして何より、光さんならもう気づいているはずです」
音無は言葉を継いだ。
「FYIが任務資料を改ざんしていたとしても、狙撃には事前調査が要ります。標的の行動、警備体制、狙撃地点、実行の時刻。写真を一枚見せられて、その場で引き金を引けるような仕事じゃありません」
音無は光の視線を正面から受け止めた。もう隠すつもりはなかった。
「つまり、Styxには最初から、光さんのお父さんを殺す計画があった。彼らはFYIを利用して、僕を操っていただけだったんです」
ふたりの間に、短い沈黙が落ちた。
蝉の声が、遠くで鳴っている。
「私怨だったっていうのか?大場が誰かを差し向けて、親父を殺させたっていうのか?」
光は苛立ちを抑えきれず、両手を広げた。
「でも、どうしてだよ。大場がStyxのリーダーになったからか?親父が警察官だったから、邪魔になったっていうのか?」
言葉はそこで途切れた。夏の湿った空気に溶けていった。
「今ここで考え続けても、答えには辿り着けません。
StyxがRacingを差し向けてきた以上、一番の手がかりは、彼が壊そうとしたカーナビの中に残っているはずです。
ひとつずつ調べていきましょう」
音無の言葉で、絡み合った糸の中に、かろうじて一本だけ先へ続く道が見えた気がした。
本当に、これほど簡単な話なのだろうか――。
次に二人が向かったのは、古い病院だった。
色褪せた白い外壁の病院は、住宅街の片隅にひっそりと建っていた。
院内には消毒液と薬品の匂いが漂い、待合室のプラスチック椅子には数人の高齢者が腰掛けている。壁の健康ポスターも日に焼け、長い年月を経た病院特有の静けさが染みついていた。
必要な開示手続きを事前に済ませていた光は、受付で身分証を示した。
看護師長は確認のため奥へ下がり、しばらくして、保管庫から黄ばんだ診療記録のファイルを抱えて戻ってきた。
記録によると、泉上美咲は光を出産してから、長く体調不良に苦しんでいた。
貧血、免疫機能の低下、産後から続く慢性的な炎症。二〇〇三年を境に容体は明らかに悪化し、入退院の回数も、処方される薬も増えていた。
光は紙面に並ぶ文字を追った。
どの項目も、母が少しずつ弱っていった時間の記録に見えた。
カルテの余白には、医師の字で短く書き添えられていた。
――ご家族には、今後の長期的な介護も視野に入れていただきたい。
その頃、泉上一は家族で使うためのSUVを購入していた。
後部座席を倒せば、外出に必要な荷物を十分に積める広さがあった。
二〇〇四年,冬。泉上美咲は亡くなった。
車に積まれていた荷物は、その後、家族の手で少しずつ片づけられていった。それでも、テントとカセットコンロだけは車内に残された。
使われるはずだった時間ごと、置き去りにされたように。
「母が入院していた当時の面会記録は、残っていますか」
「申し訳ありません。当院では、当時の面会記録は残しておりません」
看護師長は古いファイルを確かめ、申し訳なさそうに首を振った。予想していた答えだった。
正午。
太陽が容赦なく照りつけていた。焼けたアスファルトから陽炎が立ちのぼり、通りの景色をわずかに揺らしている。人影はまばらだった。ときおり車が通り過ぎ、そのたびに熱を含んだ風が足元をさらった。
音無は、光の歩調が少しずつ鈍っていくのを見ていた。先ほどまで彼を前へ押し出していた怒りが、内側から削れていく。
何も言わず、ただ隣を歩いた。
学校と病院を除けば、この町で泉上一を覚えている人間は、もうほとんど残っていなかった。父の痕跡は、長い時間の中で薄れつつある。
ふたりが最後に向かったのは、墓地だった。
調査の順番では、いちばん後回しにしていた場所だ。
だが今となっては、手元に残った最後の一枚がジョーカーだったとしても、めくるしかない。
望んだ答えが待っていないと分かっていても、引き返す理由はなかった。
道沿いの自動販売機の前で、音無が足を止めた。
硬貨を入れ、ウーロン茶のボタンを押す。
短い機械音のあと、冷えたペットボトルが取り出し口に落ちた。
音無はそれを取り出し、光のそばへ戻った。
光は俯いたままスマホを見つめ、親指で画面を滑らせていた。
音無は何も言わず、冷えたウーロン茶のペットボトルを光のうなじへ押し当てた。
「っ、冷たっ!?」
光は肩を跳ねさせ、スマホを落としかけた。
光は青い目を見開いて振り返った。
「うわっ、何すんだよ、お前!?」
ようやくいつもの光らしさを取り戻したのを見て、音無は小さく笑った。
「少しは落ち着きましたか。残りはあと二か所です。先にどちらへ行きますか」
光はペットボトルを受け取り、首筋をさすりながらスマホへ目を落とした。
「……父さんと母さんの墓参りに行こうか。もう、長いこと顔を出してないから」
そうして二人は、霊園へ向かった。




