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地下鉄の階段の先に、地上の光を切り取ったような出口が浮かんでいた。
泉上光が外へ出ると、強い陽射しに目を細めた。少し遅れて、柊音無も階段を上がってくる。
音無は、少し遅れてその後ろを歩いていた。大きなヴァイオリンケースが肩にのしかかり、歩くたび、無言で付き従う獣のように黒い影を揺らしていた。
通信端末は、まだアパートで充電している。今、二人が追っているのは、USBメモリから見つかった別の手がかりだった。
出かける前、光はフォルダをひとつひとつ確認していた。
残っていたのは、断片的なシステムデータや用途の分からない一時ログばかりだった。
その中で、ひとつだけ目を引いたものがある。父が生前に登録していた、いくつかの地点情報だ。
この車を買って間もなく、父は何度も自宅と市立総合病院の間を往復していた。
けれど、二〇〇四年の暮れを境に、父はぱったりと市立総合病院へ行かなくなった。
そして同じ頃、ナビにはもうひとつ、「墓地」という登録名の地点が追加されていた。
光は無言のまま、「墓地」と登録された地点を開いた。
そこに残されていたのは、二つの登録地点だった。
ひとつは二〇〇四年の夏に、もうひとつは同じ年の暮れに登録されていた。
光は、父が登録していた地点をひとつずつ書き留めていった。
あとは、それらを一件ずつ当たっていくしかない。
――地上へ出たところで、光は降り注ぐ陽射しに目を細め、反射的に手をかざした。
「……二〇二五年になっても、警察の捜査って案外アナログなんだな」
「仕方ないですよ。でも……光さんは、ずっとお父さんの車に乗っていたんですよね。その車のナビのデータを確認したことはありますか?」
「ない。地図データは二〇〇〇年代のままだし、ルートもすぐ狂う。普段はスマホか、自分の記憶を頼りに走ってる」
車の走行音と二人の足音だけが、静かな街に流れていた。
「まあ……いいか。今回は、親父の過去を知るいい機会ってことにしておくよ」
音無はそれ以上何も言わず、光と並んで朝の街を歩いた。
最初に向かったのは、桜咲高校だった。
息子が将来通う高校の住所が、父親のカーナビに登録されていたとしても、それだけなら不思議ではない。
だが、その登録日は二〇〇五年だった。当時の光はまだ五歳。桜咲高校へ入学するのは、それから十一年も後のことだった。
そして二〇〇五年は、裏社会の勢力図が静かに塗り替えられ、Styxが日本国内へ手を伸ばし始めた年でもある。
二人は角を曲がり、長い坂道を並んで歩き始めた。
坂道の両側には古い住宅街が広がり、その間を桜並木が続いていた。
桜はとうに花の季節を終え、青々とした葉を茂らせていた。風に枝葉が揺れるたび、木漏れ日が金色の網目のように足元で形を変えた。
光と音無は、ふと顔を上げた。
周囲の景色は、あの頃のままだった。
古びた塀。蔦の絡まる家々。角の自動販売機と、坂道に続く桜並木。
幹が九年前より少し太くなったことを除けば、あの頃と何ひとつ変わっていなかった。
光と音無は、本来なら別々の道で学校へ通っていた。光の家と、音無が身を置いていたStyxの外郭セーフハウスでは、方角がまるで違う。
けれど、恋人同士になってから、光は毎朝この交差点で音無に会うことにこだわった。
そのためだけに、自転車まで買ったほどだ。
あの時、光が思い描いていたのは――学校までの最後の坂道を、音無を後ろに乗せて走ることだった。
音無は自転車の荷台に腰を下ろし、片手で光の学ランの裾をつかんでいる。朝風が二人の髪をなで、自転車のベルが朝霧の中へ響いていく。まるで、どこかの青春映画のワンシーンのようだった。
音無の前で格好悪いところを見せまいと、光は何日も前から、教科書を詰めた鞄を荷台に載せて練習していた。
だが、現実はそう甘くなかった。
自転車の二人乗りは校則違反だったうえに、音無は後ろで大人しくしていられるような性格でもなかった。しかも、見るからに重そうな黒いヴァイオリンケースまで抱えていた。どれだけ胸元に抱え込んでも、後ろに乗せる余裕などなかった。
案の定、自転車はほとんど前へ進まなかった。光が息を切らして悪戦苦闘するうちに、二人の立場はすっかり逆転していた。
音無が前に座り、ペダルを踏み込んだ瞬間、自転車は何事もなかったかのように走り出した。
光は後ろで大きなヴァイオリンケースを抱え、長い脚を窮屈そうに折りたたむ羽目になった。
朝の見回りをする教師や風紀委員の姿を見かけるたび、音無は短く告げた。
「降りて」
今になって思えば、その声はもうMyosotisのものだった。
光も反射的に、後ろから飛び降りた。
二人は道の端に並び、気まずそうに立っていた。
黒いヴァイオリンケースのせいで、すれ違う生徒や教師の視線まで集めた。
教師の姿が消えると、二人はまた、夢見ていた甘い雰囲気とは程遠い二人乗りを再開した。
朝風と桜の中を颯爽と走るはずが、現実の光は息を切らし、大きなケースを抱えて荷台に縮こまっている。
何度もそんなことを繰り返すうちに、光はついに諦めた。
自分よりひと回り小柄な恋人に、学校まで自転車を漕いでもらうのは、どうにも格好がつかなかった。
どうやら二人とも、あの頃のことを思い出していたらしい。
光が額を押さえると、隣で音無が笑った。
二人は、あの長い坂道を並んで上っていった。
桜の枝が頭上でかすかに揺れ、葉擦れの音が静かに響いていた。
「……光さんとこの道を歩いた時間は、僕にとって一番幸せで……一番苦しい時間でもあったんです」
「どうして?」
音無はしばらく黙ったあと、静かに口を開いた。
「幸せだったのは、学校へ向かう朝でした。あの交差点で光さんが待っていて、僕に手を振ってくれる。その姿を見るだけで、柊音無としての一日が始まる気がしたんです」
光はなにも言わず、歩き続けた。
「苦しかったのは、帰り道でした。この道を歩き終える頃には、柊音無としての一日は終わり、Myosotisとしての夜が始まっていたんです」
音無は顔を上げ、坂の先に広がる明るい空を見つめた。
「あの頃はいつも考えていました。こんな日々は、あとどれくらい続くんだろう。光さんとこの道を歩けるのは、あと何回だろう。もしかしたら、今日が最後かもしれないって。
そして――本当に、あの冬が最後になりました」
話し終える頃には、二人はもう校舎の前まで来ていた。
申し合わせたわけでもないのに、二人は足を止めた。
二人の目は、陽射しを返す窓を辿り、やがて屋上へ向かった。
灰色の手すりの向こうに、陽射しを浴びたコンクリートの床が覗いていた。
「そういえば、山吹にいた頃は、お前と屋上で初めて会ったんだよな。桜咲に行ってからも、よく屋上でお前のヴァイオリンを聴いてた。……まあ、腐れ縁の始まりってところか」
光は小さく笑った。
音無も屋上を見上げていた。横から差し込む陽射しが、手すりの影を幾筋も灰色の壁へ刻み込んでいた。
「……今でも、弾けるのか」
「弾けます。……でも、今は弾けません」
音無は電子首輪にそっと触れた。
「これを着けられているから」




