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Myosotis 〜 過去は、まだ引き金を握っている 〜  作者: Bpch


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◇♪2025年(令和7年)夏 泉上光(25) 柊音無(25)



その朝、泉上光は炊きたての米の匂いで目を覚ました。


ぼんやりと目を開けると、見慣れた天井に、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。光は布団の中で、その匂いを確かめるように息を吸った。


……こんな香りで目を覚ますのは、いつ以来だろう。


そういえば、社会人になってから、朝食らしいものを口にした記憶なんて、ほとんどなかった。


警察に入ったばかりの頃は時間に追われ、朝食を用意する余裕もなかった。いつしか、空腹のまま家を出るのが当たり前になっていた。


昼食も適当に済ませ、夕食なんてほとんど食べない。せいぜいジムのあとにプロテインを流し込む程度で、食事というより、倒れないために身体を動かすだけの作業になっていた。


目をこすりながら、布団の上でゆっくりと身体を起こす。


台所には、柊音無が立っていた。


片手にフライパン、もう片方には菜箸を持ち、慣れない手つきで卵焼きを作っていた。


窓から差し込む朝の光が、横顔に淡い陰影を落としていた。


「おはようございます、光さん。先に顔を洗ってきてください。朝食はもう用意してありますから」


光は掛け布団をめくると、洗面所ではなくキッチンへ向かい、調理台に残っていた卵の殻をゴミ箱へ捨てた。


淡い黄色の卵液が、フライパンの中でかすかに震えている。音無は固まり始めた端から、菜箸で丁寧に巻いていった。


どうやら、今回は火加減を間違えなかったらしい。


「そろそろ、返して」


光が声をかけた。


音無は小さく頷き、箸で端を慎重につまんだ。


手首を返すと、卵焼きはきれいに折り返され、形を崩すことなく収まった。


「覚えるの早いな」


「そういう場所にいた人間ですから」


光は何か言いかけた。


けれど、音無は箸を止めず、卵焼きの形を整え続けていた。


それ以上、この話を広げるつもりはないらしい。


洗面所から戻ると、座卓の上には朝食が並んでいた。


卵焼きはきれいに切り分けられ、その隣には昨日買ったサラダが添えられていた。


買ったまま一度も使っていなかった炊飯器が、蓋を開けて白い湯気を吐き出している。


――家って、こんな匂いだったのかもしれない。


音無が差し出した茶碗には、溢れそうなほど飯が盛られていた。炊きたての米がつややかに光り、湯気を立てている。


ずしりと重い茶碗を受け取り、光は一瞬、何と言えばいいのかわからなかった。


しばらくの沈黙のあと、ようやく絞り出したのは――


「……芯、残ってないだろうな」


「ご飯を炊くくらいならできます。それに、炊飯器には目盛りもありますから」


音無は淡々と答え、自分の分のご飯をよそう。光の茶碗とは違い、ごく普通の量だった。


光は気まずそうに頭をかき、座卓の前に腰を下ろす。


音無から差し出された箸を受け取り、少し間を置いてから「ありがとう」と呟いた。


柔らかな朝の光が、座卓の上に淡く広がっていた。


「光さん、今日は何か予定がありますか?僕は一応、休みです」


「俺も今日は有休を取った。これから調べるのは――親父が残した、あのカーナビの中身だ」


「HDDから吸い出したデータですね。何か心当たりはありますか?Racingがなぜそこを狙ったのか、まだ分からなくて」


「俺にもないな。とりあえず、全部確認してみよう」


窓の外から、ときおり鳥のさえずりが聞こえた。


「……昨日、Racingに会った。知ってるだろ?」


箸が、ほんの一瞬止まった。


「……いえ、知りませんでした。ただ、普段の行動を把握していただけですから……」


音無はわずかに目を見開き、座卓の向こうから身を乗り出した。


「何か問題を起こしましたか?光さんを傷つけたりは?何を言われたんですか……?」


自分を守ろうとするような剣幕に、光は面食らい、それから苦笑した。


「ほら、こうして無事に目の前にいるだろ。そんなに気を張るなよ」


そう言いながら、光は両手を広げてみせた。


「敵意はないし、殺す気もないってさ」


「Styxの人間の言うことなんて、信じられるわけがないでしょう!」


音無は反射的に言い返し、はっと口をつぐんだ。ひとつ息を吐き、声を落ち着かせる。


「……とにかく、もしあいつがまた接触してきたら、すぐ僕に知らせてください」


音無は箸と茶碗を手に取ったものの、すぐに置いた。


「あいつは、光さんに何を言ったんです?」


「何を言ってたって?もう完全に話の通じない奴で、会話がまったく噛み合わなかったよ。ただ、バイト先ではお前の真似をして、いい奴のふりをして、店長にはえらく気に入られてた。それから――


『先輩は、使われすぎたんです。人は新しいものを欲しがる。もっと都合のいいものを』ってさ」


光はそう言いながら、音無の表情を窺った。


けれど今回は、以前のように痛みに顔を歪めることはなかった。


むしろ、真剣な面持ちで考え込んでいる。白い唇が、かすかに赤みを帯びるほど強く結ばれていた。


「それと……関係があるのか?」


光が訊いた。


音無は顔を上げ、光の視線を追うように自分の右手首へ目を落とした。


傷は黒い腕時計に隠れていたが、光が何を見ているのかはすぐに分かった。


音無は右手首へ目を落とし、やがて――


「あっ」


思わず、声が漏れた。


「93.7%……そういうことだったのか」


「どういうことだ?」光は間髪入れずに聞き返した。


「……光さん、僕が渡した連絡用の端末は?」


「もうお前と会ったから、引き出しにしまってある。それがどうした?」


「あの端末には、二十三歳のとき、初めて光さんへ連絡した際に共有したサイトが残っています。今もアクセスできるのは僕と光さんだけで、公安にも権限はありません。

……一度、見ていますよね」


「ああ。でも、あの頃はまだ所轄で研修中だった。見たところで、どうしようもなかったんだ。

Styxは外道だって吐き捨てるだけで……結局、何も変えられなかった」


その声には、悔しさを押し込めたような強さが滲んでいた。


「でも、ちゃんと手元に残してある。

いつまでも警部補のままじゃいられないし、いつか必ず答えを見つけてみせる。

それじゃ、キャリアになった意味がないだろ」


音無は、ふっと笑った。


「やっぱり光さんらしいですね。でも、それでいいんです」


「どういうこと?」


「……多くの人は、自分ひとりでは何もできないと思うでしょう。だから、自分にできる範囲で折り合いをつけようとする。それも間違いではありません」


そう言うと、音無は光を見つめた。


湖のような緑の瞳に、いつになく真剣な光が宿っていた。


「でも光さんは、できないことがあるなら、できるようになるまで自分を変えようとする。こんな理不尽なものは存在してはいけないと、本気で思っているから」


「決まってるだろ。もしこの世界が、誰かの犠牲の上でしか産業も医学も発展できないっていうなら……いっそ地球なんて滅びちまえばいい」


光は迷うことなく答えた。


「思春期の少年みたいに、青臭くて真っ直ぐな理想論ですけどね。でも僕がずっと待っていたのは……そんな光さんです」


音無の声は、いつになく穏やかだった。


再び箸を手に取り、一切れのトマトを口に運ぶと、ゆっくりと噛みしめる。


「先ほどの話ですが……おそらく僕は、Styxに神経系のデータを採られていたんです」


「データ?」


「ええ。あのとき受けた罰が、そんな目的にも使われていたなんて、僕自身も知りませんでした。

二〇〇五年の事故。二〇一六年の泉上さんの死。そのあと、僕はFYIから暴行を受け、彼を殺した。その制裁として身体を調べ尽くされ、奪われたデータからRacingが生み出された。

……すべて、最初から繋がっていたと思いませんか?」


光は頷いた。


「……もう、食事を続ける気にはなれません。光さん、その端末を出してください。一緒に確認しましょう」


言い終えるより早く、光は立ち上がり、引き出しの奥から黒い端末を取り出した。


液晶には細かな傷が走り、右下には乾いて赤黒くなった血がこびりついている。


光は端末を握ったまま、指先の動きを止めた。


その血痕にまつわる出来事を、光が忘れるはずもなかった。


何度も音無の顔に拳を叩き込んだ、あの日に飛び散った血だった。


「気にしないでください。あれは……僕が受けて当然の罰でした」


音無は静かに言った。


「……今でも思ってる。あの時のお前は、殴られて当然だったって」


光は端末を手にしたまま、座卓の前に座り直した。


「でも、それはそれ、これはこれだ。ぶん殴っただけで問題が解決するわけじゃない」


そう言いながら、端末の側面にある電源ボタンを押す。


だが、液晶画面は暗いままだった。


光は眉をひそめ、もう一度ボタンを押した。

それでも、反応はない。


胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。


思わず、声を荒げた。


「……嘘だろ。なんで起動しないんだ?まさか、あの時……俺が壊してしまったのか……くそっ」


光は端末を裏返し、目立った破損がないか確かめた。それでも諦めきれず、何度も電源ボタンを押す。


「ご心配なく。軍用仕様ですから、外装だけなら7.62ミリ弾にも耐えます。気に入ったのなら、お守り代わりにしてもいいくらいですよ」


「じゃあ……血が入り込むのは防げるのか?」


「血を……?」


「ここだ。お前の顔から飛んだ血なのか、それとも俺の拳に付いていた血なのかはわからない。とにかく、液晶の中に入り込んだみたいなんだ」


光は真顔で液晶画面を指さした。


「……随分と地獄みたいな言い方をしますね……」


音無はこめかみを押さえた。


「……とりあえず、充電してみましょう。たぶん、ただバッテリーが切れているだけです」


光はすぐにノートパソコンを持ってきた。膝の上に置き、端末のケーブルをUSBポートへ差し込む。


液晶画面が淡く光り、充電中を示すアイコンが表示された。


それを見て、光はようやく息をついた。


音無は立ち上がり、食器を流し台へ運んだ。


それから布巾を手に取り、座卓を丁寧に拭いていく。


「光さん、朝ご飯……口に合いましたか」


座卓を拭きながら、音無は尋ねた。


光は接続作業に集中したまま、顔も上げずにぼそりと答えた。


「ああ、うまかった。ありがとう」


「それならよかったです。これからは、ちゃんとご飯を食べてくださいね」


「別に、何も食べてないわけじゃない。ただ、自炊する時間もないんだよ」


光は思わず口を開いた。


「仕事が終わるとそのまま主任に居酒屋へ引っ張られて、散々飲まされて……翌朝はもう何も食べる気になれないんだ」


「そんな生活を続けていたら、胃を壊しますよ。たとえ、いつか僕がそばにいられなくなったとしても、ちゃんと食べてくださいね」


そう言って、音無は立ち上がると、顎に手を当てて考え込んだ。


「そうですね……身柄を拘束される前に、作り置きでもしておきましょうか。一か月分くらいなら冷凍できます。……三週間続ければ習慣になるとも言いますし」


キーボードを叩いていた指が、ぴたりと止まった。


光は音無を睨んだ。


「ふざけるな。『Nのために』かよ。勝手に悲劇の主人公気取りしてんじゃねえ」


「それは何です?」


「……いや、何でもない」


なぜここまで苛立っているのか、自分でもわからなかった。


音無はもう台所で皿を洗っていた。


柔らかな黒髪が白いうなじにかかり、その下を黒い首輪が締めつけていた。朝の光を受けた金属が、冷たく光っている。


光は視線を逸らし、力を込めてエンターキーを叩いた。

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