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Myosotis 〜 過去は、まだ引き金を握っている 〜  作者: Bpch


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夜はすっかり更けていた。


街灯の光が湿った夜気に滲み、人影のない歩道を淡く照らしている。


二十四時間営業のドン・キホーテだけが、夜の街の中で煌々と明かりを灯していた。店内では、夜更けにもかかわらず、何人もの客が棚の間を歩き回っている。


店を出た二人の手には、カップ麺とウーロン茶、特売のサラダが入ったレジ袋が提げられていた。夜風を受け、かさかさと音を立てている。


アパートに戻ると、二人はほとんど同時に息をついた。


泉上光は玄関のフックに鍵を掛け、靴を脱いだ。


一日中履き続けた革靴が、危険な現場よりもじわじわと身体に堪えていた。


「俺、先に入る」


「どうぞ」


柊音無は両手にレジ袋を提げ、オープンキッチンへ向かった。


やかんを火にかけ、買ってきたものを袋から取り出していった。


浴室から水音が聞こえてくる。ドア越しのくぐもった音は、まるで遠くから届いているようだった。


その水音を聞きながら、音無は醤油味のカップ麺に湯を注いだ。粉末スープが溶け、醤油の香りが立ちのぼる。


数分後、水音がやんだ。


浴室のドアが開き、白い湯気がふわりと流れ出す。柑橘の香りがかすかに漂った。


光がタオルで濡れた髪を拭きながら出てきた。Tシャツにハーフパンツ姿の彼は、普段よりずっと若く見えた。


ローテーブルの上には、湯気の立つカップ麺が一つだけ置かれていた。


そのまま、音無は浴室へ向かった。


再び、浴室から水音が聞こえ始めた。


しばらくして、浴室のドアが少しだけ開いた。


黒い髪が額や頬に張りついている。湯上がりの緑がかった瞳は、静かな光を宿していた。


「光さん、何か着るものを貸してもらえますか」


光は「ああ」とだけ答え、クローゼットへ向かった。


着古して柔らかくなったグレーのTシャツと黒のハーフパンツを取り出し、振り返りもせず浴室の方へ軽く放った。


飛んできた服を、音無は難なく受け取った。


「ありがとうございます」


光の服を借りた音無が浴室から出てくると、ローテーブルの上には二つのカップ麺が並んでいた。蓋の隙間から、白い湯気が細く立ちのぼっている。


音無は光と向かい合って座った。蓋を開けると、湯気とともに魚介の香りがふわりと広がった。


スープに浮かぶナルトや小エビ、刻み昆布を見つめながら、音無はしばらく黙っていた。


「……僕の分まで?」


「買っちまったからな」


深夜の部屋に、二人が麺をすする音だけが響いた。上品とは言いがたいが、不思議と気持ちは安らいだ。


「……なんだか、不思議ですね」


「何がだ」


「夏の夜更けに、光さんと二人でカップ麺を食べている。……これも夏の風物詩なんでしょうか」


音無はフォークでカップ麺に浮かぶナルトをつつき、それがスープの中でくるりと回るのを眺めながら言った。


「どこが風物詩だよ。こんなの、社畜の風物詩って言ったほうがまだマシだろ。風物詩って言葉に失礼だ」


それから、少しだけ声を落とした。


「お前も疲れただろ。昨日は徹夜だったんだろうし、今日もこんな時間まで付き合わせちまった」


「大丈夫です。光さんの力になれるのなら」


「『公安の力になれるなら』って言うと思った」


「いいえ。最初から光さんの力になるために動いてきたんです」


「……じゃあ、どうして最初から刑事部じゃなく、公安を選んだんだ」


「捜査一課長の山葉正人は、かつて泉上一さんの部下だった。その立場で僕を協力者として受け入れることはできません。逮捕しようとするのが当然でしょう」


音無はカップ麺を置いた。


「それでは、意味がないんです。

僕は裁かれることが怖いんじゃない。すべてが終わる前に、光さんが自らの手でStyxを潰す瞬間を見届けられないことだけが、怖いんです」


そこまでは、光にも予想がついていた。だが――。


「……じゃあ、公安ならいいのか?理由は?」


光は表情を変えず、ずっと引っかかっていた疑問を口にした。


音無は少し考えてから、視線を上げた。


「これ以上、僕に質問を続ける前に、井上さんや小林主任から、どこまで話を聞いているんです?」


光はフォークを置き、カップ麺を脇へ押しやった。


「……分かった。俺たちは一応、協力関係ってことでいい」


光は話を続けた。


「刑事と公安がもともと反目してるのは、お前も知ってるな。警察法の改正案が通ってからは、警備とサイバーが事実上手を組み、刑事部は押されてる。そこで始まった主導権争いの隙を突いた。……お前はそれを見越して、公安を利用したんだろ?」


音無は頷いた。


「それだけじゃない。井上先輩は、警視庁内部にStyxと繋がってる人間がいると言った。公安は刑事部の弱みを握ってるようにも見える。……これは俺の推測だけどな。

ただ、課長は一刻も早くお前を捕まえて、事件を終わらせたがってる」


「それで、山葉課長が内通者だと?」


音無は思わず苦笑した。


「……いや、そう単純じゃない。Styxが日本でここまで勢力を広げてる以上、内通者がいても不思議じゃない。ただ、山葉課長ほど現場に近い人間じゃないはずだ。

Styxが食い込むなら、もっと上だ。組織全体を動かせる立場の人間だろう」


そこまで言って、光は苛立たしげに頭を掻いた。


「そして、そこから先の手がかりは途絶えている。刑事と公安の間に、いったい何があったのか……俺にはまったく見当がつかない。そこが一番の鍵だと思うんだが、井上先輩はそれ以上、何も話してくれなくて……」


そう言って、光はいったん口を閉ざした。


「……いや、違う。確かに……ひとつだけ、先輩があの時、俺に残した言葉がある」


「どんな言葉です?」


「俺がしつこく聞いてたとき、先輩はこう返した。『今は、みんなで力を合わせて捜査してるじゃないか。そのせいで誰か死んだのか』って。

うんざりして口にしただけかもしれない。でも、ずっと引っかかってる」


音無はその言葉を咀嚼するように、しばらく黙り込んだ。


「……過去に、協力して捜査できなかったせいで、誰かが命を落とした。そういうことですか?」


「だとすると、公安は……復讐か?いや、ここまで執拗に介入するのは、過去の失敗を刑事部に突きつけたいからか。

でも……なぜ、よりによってこの事件なんだ」


そう言って光は顔を上げる。青い瞳に、戸惑いが浮かんだ。


「そういえば、井上さんも今日、僕に言っていました。大場の人間関係を中心に捜査している、と。大場を殺した犯人の特定自体には、あまり関心を持っていないようでした。……そして、それは公安の意向を示しているんだと思います」


「……つまり、大場の人間関係の中に、『力を合わせて捜査できなかったことで誰かが死んだ』過去に繋がる何かがある……そういうことか?ってことは……大場は警察官だったのか?それも、一度は考えたことがあるが……」


「大場本人が警察官だったとは限りません。家族や友人に警察関係者がいた可能性もある。


それに、以前二丁目でTrigonotisが言っていましたよね。大場はSの振る舞いを教えるとき、赤、青、黒のペンを使ってホワイトボードに人体図まで描いた、と。あの手慣れ方も手がかりになるかもしれません。小林主任には話しましたか?」


「軽く触れただけだ。主任は可能性はあると言っていた。ただ、もっと裏付けが必要だとも。課長にも話したが、『あいつが何者だったのかも、今はどうだっていい。俺が知りたいのは誰が大場を殺ったのか』と言われた」


「見えてきましたね。公安が知りたいのは、大場を取り巻く人間関係です。そこには、警察か情報機関の人間でなければ知り得ない、過去の不祥事が隠されているのかもしれない。公安は法改正を追い風に、その事実で刑事部を追い込もうとしている。


一方、刑事部が追っているのは、大場を殺した人間――」


音無はわずかに間を置いた。


「――いや、彼らが本当に求めているのは、一刻も早く僕を捕まえることだけだ」


「……でも、なぜだ?」


何度も考えてきたことだったが、どうしても納得できる答えには辿り着けていない。


「山葉さんが僕を憎んでいるから、と考えれば説明はつきます。でも、公安に利用される前に事件を終わらせたいから、と考えても説明はつく。


では、なぜ双方とも、この事件と僕にそこまでこだわるのか。二つを繋ぐものは何だと思いますか?」


光はしばらく黙り込んだ。


絡み合った情報を一つずつ整理するように、慎重に言葉を選んだ。


「……大場がStyxと繋がっていて、お前もまたStyxに関わっているから……なのか?」


音無は光を見つめ、小さく頷いた。


「だからこそ、もう一度、原点に戻って考える必要があります。

当時の捜査一課が一丸となって捜査に当たれなかったことが、すべての発端だったのではないでしょうか。

その結果、誰か一人の命が失われた」


「その隙を突いたStyxは、二〇〇五年に――」


「――さらに多くの犠牲者を生み出す存在へと成長した」


音無は光が言いかけた言葉を引き取り、その先を告げた。


部屋がしんと静まり返り、蛍光灯と冷蔵庫の低い唸りだけが残った。


『その先にあるのが救いか破滅かは関係ない。蓋を開ける瞬間の高揚感だけは、どうしたって抗えないのだ――』


――井上先輩が引き当てようとしていたのは、本当にジョーカーだったのかもしれない。

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