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「よく山吹中学で普通にやってたな」
光は両手をポケットに突っ込んだまま、半ば呆れたように言った。
「俺は、その人畜無害そうな顔にまんまと騙された。十四の頃から今までずっとだ。挙げ句に、こんな面倒ごとにまで巻き込まれた」
「騙してしまって、本当に申し訳ありません。でも、普通だったかと言われると……あの頃の僕は、同年代の子と対等に接したことが一度もなかったんです。むしろ、山吹中学で変わり者扱いされずに済んだのは、光さんのおかげですよ」
「は?」
光は目を丸くし、わずかに足を止めた。
「なんでだ。俺、何もしてないぞ」
音無も足を止めた。
街灯の明かりが黒髪を照らし、輪郭を淡く浮かび上がらせていた。
「光さんは目立つ人でした。勉強も運動もできたし、何より、曲がったことを黙って見過ごせない。皆がそれを知っていましたから」
「……そ、そうか?」
「ええ。今こうして人と穏やかに関われるのも、人は利用するだけの存在じゃないと知ったのも……光さんのおかげです」
音無の声は、夜風に溶けていった。
光は口をつぐんだまま、再び歩き出した。
音無も黙ってその後に続いた。
「その話はひとまず置いておいて」
ケースの位置を直しながら、音無は言った。
「捜査会議だったんですよね。何か進展はあったんですか?さっきから何も教えてくれませんけど」
その言葉に、光の表情がさっと曇った。
光は乱暴に髪をかき上げた。
「進展か。笑えてくるよ。犯人はもう見えてるってのに、まだ無意味な駆け引きばかりしてる」
「Racingとの録音データは提出したんですか?」
「してない」
「どうしてです?」
「あの録音を出したところで、課長は考えを変えない。『RacingはMyosotisに動かされていた』『そもそも首謀者はMyosotisだ』って言い出すだけだ。
そうなれば、刑事はお前もRacingもまとめて引っ張ろうとする。そこまで行けば、公安にも抑えきれない。証拠がない今は、黙ってるのが一番だ。
お前も井上先輩には、Racingのこと話したんだろ?」
「話しましたけど」
「それなのに、捜査会議じゃ公安はRacingの名前すら出さなかった」
光は皮肉げに口元を歪めた。
「つまり公安も課長の狙いはわかってたってことだ。だから、あえて何も言わなかった。お前を庇うには、それしかなかったんだろう。皆が知らないふりを決め込むなら、俺も合わせるしかない」
アスファルトに靴音だけが響いていた。
いつの間にか、二人の歩調はぴたりと揃っていた。
「……公安にとって、僕はまだ利用価値があるからです。でも、光さんは?僕を庇う理由なんてないでしょう」
光は立ち止まった。
音無も足を止めた。
「……音無」
光が口を開いた。声は、普段らしくないほど小さかった。
「お前を信じていいのか」
音無が口を開きかけた。だが、光はそれを遮るように続けた。
「今日、井上先輩に言われたんだ。『人に聞いてばかりで、捜査した気になってないか』ってな」
音無は何も言わなかった。
「……ああ、その通りだ。認めるよ。再会してから、先輩にもお前にも聞きたいことが山ほどあった。なんで親父を殺した。なんで公安はお前を守る。先輩は刑事部の弱みでも握ってるのか。十六のとき、お前に何があった。FYIはなんでお前にあんなことをしたのか――」
光の声がかすれた。一瞬だけ拳を握りしめ、またほどいた。
「俺が何度も聞いたのは、お前たちを最初から疑ってかかりたくなかったからだ」
音無は黙って光を見つめる。光は唇を固く結んだまま、視線を逸らさなかった。
「笑われるかもしれないけど……お前にも井上先輩にも、最初から疑って探りを入れるような真似はしたくなかった。
俺なんかが先輩から何か聞き出せるとも思えない。それでも、せめて頼れる後輩だと思われたかったんだ」
そう言って、光は一歩踏み込み、音無との距離を詰めた。
「でもな、音無……」
光は音無の右手を取り、黒い腕時計の留め具へ指をかけた。
音無の指先が震える。構わず留め具を外すと、滑り落ちかけた腕時計を受け止めた。
月明かりと街灯の光が、露わになった傷跡を浮かび上がらせた。手首の内側には、百足のような縫合痕が長く刻まれていた。
音無の手はまだ、かすかに震えていた。
「これが……罰なのか」
光は顔を上げた。
「情報官になってもStyxからは逃げられない。組織を揺るがすこともできない――そう思わせるための罰だった。……そういうことか?」
音無はすぐには答えなかった。
俯いたまま、月明かりに照らされた手首の傷跡を見つめた。
やがて、音無は手を引いた。
「……弁解するつもりはありませんし、光さんの同情を利用するつもりもありません」
「取り調べみたいな聞き方をしないと、答えてくれないのか?」
「こう見えても、光さんのことはよく知っているんです」
「……何?」
「井上先輩に探りを入れたら、すぐ勘づかれます。でも、光さんらしい聞き方なら、相手も案外ぽろっと口を滑らせるものです」
音無は苦笑した。けれど、灯りを映す瞳だけは、ひどく静かだった。
「それに、Styxでは取り調べへの対処も徹底的に叩き込まれました。黙秘の仕方も、受け答えも。実際に試されたことだってあります。光さんなら、そのくらい分かっているでしょう。だから僕には、そんな聞き方をしない。
……僕が本当に求めているものを、知っているからです」
「……」
「たとえ今の優しさが、取り調べのための手段だったとしても」
音無は小さく笑った。
「それだけで十分なんです。もう隠しません」
再び二人は歩き出した。
「知りたいのは、この傷跡のことですか。それとも、FYIを殺したあとに何があったのか。……あるいは、僕が情報官になった理由ですか」
「……今は録音してないんだよな?」
「ええ。安心してください。この先はかなり際どい話になりますから。仮に録音されていても、どうせ検閲で弾かれますよ。ははは……」
「おい……!」
二人は肩を並べ、深夜の街を歩いた。
遠くで終電の走り去る音がし、やがて夜の底へ消えていった。




