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泉上光は壁際のボックス席に座り、目の前には飲みかけのアメリカンがあった。
「江、ちょっとこれ見てくれない? このオンボロの機械、また調子が悪くてさ……」
Racingはコーヒーを光の前へそっと置き、軽く会釈をすると、いつも通りの足取りで店長のもとへ向かった。
端末がちょうど彼の目元を隠していた。光から見えるのは、少し前かがみになった背中と、マウスに添えられた右手だけだった。
青年は店長の愚痴に耳を傾けながら、指先で画面を二、三度タップした。
「フリーズしてるみたいですね。一度再起動してみますね」
「あぁ……安さにつられて中古なんか買うんじゃなかった……」
店長は困ったように後頭部をぽんと叩く。その姿はどこか漫画から飛び出してきたようだった。
二人とも声を潜めて話していたが、店内に客はまばらだった。壁際に座る光の耳にも、その会話は自然と届く。
店長は日本人ではないらしく、訛りもかなり強い。それでもRacingは淀みなく受け答えをしていた。
時折、店長につられるように小さく笑う。その笑い声は爽やかで、普通の大学生そのものだった。
オーダー端末の不具合は解消されたらしく、店長はRacingの肩を軽く叩くと、そのまま厨房へ戻っていった。
Racingはカウンターへ戻り、コースターやシュガーを並べ直し始める。
ふと顔を上げる。その視線が光を捉えた。
二人の視線が交わる。Racingはすぐに、営業スマイルを浮かべた。
その笑みは、こう語っているようだった。
「何かご用でしょうか?」
だが、その笑みを見た瞬間、光の背筋に寒気が走る。
――その笑みを、光は知っていた。
光は、自分ほど音無を知る人間はいない。
十四歳で出会い、十六歳で別れた。二人の間には、血に染まった深い溝が横たわっていた。
実際に共に過ごした時間は、ほんの数年にすぎない。
バイオリンを奏でるときは、わずかに首を傾け、瞼を伏せる。まるで、世界には自分とバイオリンしか存在しないかのように。
人の話を聞くときは、静かに相手を見つめ、ときおり小さく頷く。その眼差しは柔らかく、それでいて真っ直ぐだった。
後ろから呼び掛けられると、一瞬だけ目を丸くし、それからゆっくりと振り返る。少しだけ戸惑ったような、優しい笑みを浮かべるのだ。
――「何かご用でしょうか?」
光は視線をそらした。
アメリカンを一口飲む。カップの側面を伝う雫が、指先に触れた。
店内は空いていて、店主も客が長居することを気にする様子はない。光が選んだ席は壁際で、本来ならあまり目立たない場所だった。
それでも、女子大生が店に入ってくると、注文をしながら隅の席に座る光へちらりと視線を向ける人もいた。やがて連れと顔を寄せ、小声で何かをささやき合うと、どこか含みのある笑みをこぼすのだった。
Racingはどの客にも穏やかに接していた。飲み物を勧めるときは程よい距離を保ち、小銭を両手で受け取るときも、指先が客の手に触れることはない。一つひとつの所作は丁寧で無駄がなく、トレーにカップを載せるときも、取っ手はいつも客が手に取りやすい向きへと揃えられていた。
水のように、相手によって自然に姿を変える。何もかもが過不足なく整っている。穏やかな声も、相手を緊張させない柔らかな眼差しも、少し身を乗り出して耳を傾ける仕草も――
――そのすべてが、光に生理的な嫌悪感を覚えさせた。
模倣などという言葉では軽すぎる。あれは、ただ真似をした程度で再現できるものではない。爽やかな笑い声、よどみない敬語、お辞儀の角度、物を差し出す所作――そのすべてが、音無と寸分違わなかった。
だが、音無の瞳は湖のような緑の瞳だった。光を受けるたび、青とも緑ともつかない色を宿す。
対してRacingの瞳はどこまでも深い黒だった。底のない井戸のように、光を受けても反射しない。感情の揺らぎすら、そこには見えなかった。
まるで、誰かが音無をRacingの中へ押し込めたかのようだった。その考えに、光は思わず身震いする。だが、それ以外に言い表しようがなかった。
注文されたドリンクが次々と出来上がっていく。Racingはトレーを手に取り、窓際の女子大学生のテーブルへ抹茶ラテを運ぶ。
「ごゆっくりどうぞ」
穏やかな声でそう告げると、そのままカウンターへ戻っていった。
そのとき、厨房の奥から店長の悲鳴が響いた。
「またかーっ!」
オーブンがまた故障したらしい。
Racingの背中が暖簾の向こうへ消えていくのを見送りながら、光は思った。
——この店も、長くはもたないだろう。
コーヒーをもう一口飲む。豆だけは悪くない。
光は勝手に、この店にあと数年の猶予を与えることにした。少なくとも、自分がこの件を片付けるまでは、潰れてもらっては困る。
そんなことを考えているうちに、店長とRacingが厨房から戻ってきた。
店長は相変わらず浮かない顔をしている。その後ろを、Racingは何も言わず静かについて歩いていた。まるでよくできた案内人形のようだった。
「……オーブンのことは、もうお手上げですね」
「ああ……前の店の設備、そのまま引き継ぐんじゃなかったな……」
店長は眼鏡を外すと、鼻の付け根を指で押さえた。
「居抜きで全部そのまま使ったのが失敗だったな……初期費用も浮くと思ってさ……まさかこんなところでツケが回ってくるとはね。オーブンに、オーダー端末に、製氷機……どれもこれもだ。やっぱ中古なんか信用するもんじゃないな……」
「まあ……そうですね」
Racingは苦笑しながら目を細めた。
「やっぱり何でも、新しいものが一番ですよね」
そう言うと、目を開き、さらりと付け加えた。
「使い込まれたものは、いつ壊れても不思議じゃありませんから」
光は顔を上げた。
だが、Racingは光の方を見ていなかった。
――気づけば、夜はすっかり更けていた。
カフェから漏れる暖かな灯りが、夜の闇にひときわ映えていた。
目の前のアメリカンは、とっくに空になっていた。
光は手持ち無沙汰でスマートフォンを眺めながら、車の前でRacingと交わした会話の録音を聞き返していた。
この録音は、まだ誰にも渡していない。
もちろん、小林なら、この件で余計な真似はしないと信じていた。だが、手札を揃えておかなければ、課長はこの件を何食わぬ顔でうやむやにしてしまう。公安との終わりのない綱引きへと持ち込むだろう。
だが、なぜだ。
こいつらは、一体何を巡ってせめぎ合っているんだ。
Racingはベージュのエプロンを外すと、丁寧に畳んでカウンター下のロッカーへしまった。
夜勤の店員に簡単な申し送りを済ませると、レジで小銭を数えていた店長に声をかける。
店長は顔を上げ、「お疲れ」とだけ言った。
Racingは軽く会釈し、最後に身を翻した。
光は、その変化を見逃さなかった。
穏やかで人当たりのいい笑みが、潮が引くようにすっと消えていった。
ほんの一瞬前まで、あれほど柔らかな雰囲気をまとっていた青年は、次の瞬間には感情の抜け落ちた顔へと戻っていた。
Racingはリュックを背負うと、歩みを止めることなく光の横を通り過ぎた。
光は咄嗟にスマホをポケットへ滑り込ませて、立ち上がってその後を追う。
カフェのガラス戸が二人の背後で閉まり、夏特有の湿った空気が肌にまとわりついた。
光は足早にRacingへ追いつき、その隣に並ぶ。Racingは脇目も振らない。
「本当、怪物みたいだな、お前」
「仕事なんです」
「一昨夜、俺の車ぶっ壊しに来たのも仕事だったのか」
「ええ。仕事です」
光は努めて平静な声を保った。
「――さっきも一昨夜も、音無だったってことか」
Racingは足を止め、ゆっくりと光の方を向いた。
「修理代のことはもういい。俺の質問にちゃんと答えてくれたら、それで貸し借りなしだ」
「そこまで手間をかける必要はありません。今ここで泉上さんを殺せば、それで貸し借りなしです」
「聞かなかったことにはできないよ。また音無がどこからともなく現れて、お前に銃でも向けてきたらどうする?」
「そうなってしまったら仕方ありません。でも、先輩が僕に勝てるとは思いません。先輩は確かに百発百中でした。ですが、それももう過去の話です」
「過去?」
「先輩は、使われすぎたんです。使われすぎたものは、いつか壊れます。そうすると、人は新しいものを欲しがる。古いものより、もっと使い勝手のいいものを」
Racingは光の凍りついた表情には目もくれず、再び歩き出した。
光はすぐにその後を追った。
「――前に言ってた93.7%って、そういう意味だったのか!」
だが、Racingは振り返らなかった。
足を止めることなく歩き続け、光との距離は少しずつ開いていく。
街灯が一つ、また一つと彼の肩を照らしては過ぎていく。
まるで、音もなく秒読みが進んでいくようだった。
光は足を止め、悪態をついた。
そのとき、ポケットのスマートフォンが震えた。
着信表示を確認すると、そのまま電話に出る。
「……主任」
「泉上。警視庁に戻ってこい。新しい手がかりが出た。すぐ捜査会議だ」
「新しい手がかり?」光は眉をひそめ、Racingが去っていった方を見つめた。「ホシが上がったんですか」
「いや、そうじゃない。ただ、今後の捜査には、公安がこっちに送り込んできたあの顧問が関わってるらしい。お前にも聞きたいことがある。とにかく一度戻ってこい」
光は通話を切った。思わず車を探すように視線を巡らせかけて、自分のSUVをまだ田中のところへ預けたままだったことを思い出した。
思わず舌打ちすると、足早に駅へ向かう。
そのとき、スマートフォンが再び震えた。
小林拓也からのメッセージかと思って画面を確認した。
だが、表示されていた名前は田中だった。
「電装屋に診てもらったら、HDDは生きてた」
その一文を見て、光はなぜか、ほっと息をついた。
少しだけ逡巡すると、再び電話をかける。
今度は駅へ向かうのではなく、その反対へ駆け出した。




