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泉上光が警視庁へ駆け込んだときには、すでに十時半を回っていた。
小林拓也は廊下の壁にもたれ、資料袋を片手に腕を組んでいた。
エレベーターの扉が開き、光が慌ただしく降りてきた。
「遅い。せめて三十分以内には来い」
小林は資料を差し出しかけたが、光の額に浮かぶ汗を見て手を引っ込めた。
「汗、落とすなよ」
「……すみません」
光はハンカチで額を拭い、湿った手のひらも拭ってから、ようやく分厚い資料袋を両手で受け取った。
「公安から回ってきた資料だ。警備会社の資金の流れは前から押さえてるが、それだけじゃない。特殊ルートで入手した海外の局地紛争に関する報告書も入ってる。
国際ニュースではまず報じられない類の話だ」
光は資料袋から分厚い書類の束を取り出した。びっしりと書類へ目を走らせた。
最初のページには資金の流れを示した図が載っていた。「警備会社」を中心に黒い線が蜘蛛の巣のように広がり、幾つもの租税回避地の空殻企業へとつながっている。そこからさらに複数の子会社へ枝分かれし、資金は企業間を転々と移り、分散され、組み替えられ、最後には「追跡不可」と記された黒塗りの終点へ消えていた。
ここまでは、小林班がすでに掴んでいた情報だった。
光は次のページをめくった。
二ページ目からは、目を疑うような事件報告が並んでいた。
――X国国境地帯。現地の分離主義武装勢力が突如として大量の制式装備を入手。資金源は不明。同時期、警備会社は同国内の鉱山会社と警備顧問契約を締結。契約額は約XXX米ドル……。
――Y国港湾都市。反政府武装勢力が政府軍倉庫を襲撃、占拠。倉庫内から未開封の戦術装備が大量に発見される。同月、警備会社が現地で設立した物流会社で、不自然な量の建設資材輸出が確認される……。
ページをめくるたび、世界各地に散らばっていた、一見無関係に思えた局地紛争や政権交代が、一本の線で結ばれていく。
それらを結ぶ線――警備会社の資金の流れと、各地で結ばれた警備コンサルティング契約だった。
この報告は、紛れもなく柊音無の手によるものだ。読み進めるほど、遅れて来た甲斐があったと思えた。
最後のページまでめくると、報告者欄に記されていたのは井上翔太の名前だけだった。
「つまり……大場はStyxの資金を握っている存在であり、日本での物資調達・輸送の拠点でもあるってことか」
「資料を見る限りじゃ、そういうことになるな。……お前、あまり驚いてないな」
小林は光を横目で見やった。
「泉上。お前まで情報を出し渋るようになったか」
口調は冗談めいていたが、いつも笑っているその目だけは、少しも笑っていなかった。
「いや、今日話すつもりでした。まだ推測の段階だったので、言ってもまた『勘だろ』で済まされるだけですし。それに、この資料もついさっき確認したばかりなんです」
殺人犯本人がわざわざ脅しに来た――そんなこと、口にできるはずもない。
光は視線を落とした。
幸い、小林もそれ以上追及するつもりはないらしい。資料袋を受け取るだけだった。
「捜査の様相が変わる。今回の捜査会議も、この件が中心になるだろう」
「刑事局としては、早く被疑者を割り出して事件を終結させたいんですよね。実績を上げて、刑事局の立場も強くしたい。
一方で公安は違う。多少の犠牲を受け入れてでも、長い目で見た成果を優先したい。
この事件の背後にはStyxがいる。公安にしてみれば、大場一人を押さえたところで終わりじゃない。大場を足がかりに、その先にいるもっと大物を狙っている。
……そういうことですね」
そのしわ寄せを食うのは、結局いつも現場の刑事だ。
小林は腕時計を確認すると、課長室のほうへちらりと目をやり、何気ない調子で口を開いた。
「そういや、この前お前と一緒に二丁目へ行ってた公安の顧問。あいつ、何なんだ?」
「……その話、今回の事件と関係あるんですか」
小林は何も言わず、光を見つめた。
「……すみません。でも、どうしてあの人の話になるのか。アリバイも確認されています。事件の夜も、俺と一緒に現場を見に行きましたが」
「……なるほど。じゃあ、質問を変えよう」
小林はさらに声を潜めた。
「あいつは……Styxと関係があるのか」
曖昧な問いを重ね、少しずつ範囲を絞り込み、最後に核心を突く――取調べの定石だ。
光はその流れを嫌というほど知っていた。
この男は取調べの達人だ。相手が気づかないうちに、隠していたことを口にさせてしまうのだ。
Trigonotisを口封じしようとしたあの男を取り調べていた時も、小林はこんな表情をしていたのだろうか。
そして今、その表情は自分へ向けられている。
あの取調べには、課長の指示で光は外されていた。中で何があったのか、光は何も知らない。
取調べの録画映像を閲覧することはできる。だが、問題は取調べの内容ではない。自分を介さず取調べが終えられたこと――そのこと自体に意味があるのではないか、と。
「この件は、公安から説明を受けるべきだと思います」
自分でも思った以上に、声が硬くなっていた。この返答が小林をさらに怒らせることくらい、分かっている。それでも、ほかに道はなかった。
「泉上。お前、自分の立場、分かってるか」
——ついに来た。
上司の前で顔をしかめたり、ため息をついたりするわけにもいかない。
だが、この瞬間ばかりは心底うんざりしていた。
光は小林を信頼していた。捜査一課へ配属された初日から現場へ連れていき、手掛かりの見つけ方や被疑者との駆け引きを教えてくれた先輩だ。
小林には、数え切れないほどの恩がある。
小林が腹を立てるのも無理はない。誰よりもこの事件を解決したいと思っている男なのだから。
いつもなら、Racingとの録音データはとっくに小林へ渡していたはずだ。持っている情報も全部共有して、あとはそのまま捜査を進めるだけで済んだ。
だが今は、まるで違う。
誰もが何かを隠している。課長率いる捜査一課も、公安も。そして音無でさえ、肝心なところになると言葉を濁す。
そのせいで光までが、手に入れた情報を手札として抱え、会話のたびにどの札を切り、どれを温存するかを考えなければならなくなっていた。
適当に謝って済ませようとした、その時だった。
課長室のドアが開き、井上翔太が姿を現した。室内へ一礼し、そのまま後ろ手にドアを閉める。
まさか課長室を訪ねていたのが井上だったとは。ということは、話題は柊音無だ。
光は反射的に踵を返し、井上の後を追った。
振り返る余裕もなかったが、小林が何を思っているかくらいは分かっていた。
キャリア組の人間は、結局は身内を庇う――そう思っているのだろう。
だが、光が考えていたのはそんなことではない。
「先輩!」
廊下の角で光は井上に追いついた。
「ああ。もうすぐ捜査会議だ。気を引き締めろ」
井上は足を止めないまま応じた。
「はい。……あの、さっき課長と話していたのって」
井上は答えなかった。
鼻筋に手をやる。だが指先は空を切った。外していたことに気づき、そのまま鼻筋を押さえた。
「…近視じゃない。眼鏡をかけたきっかけも、最初はブルーライト対策ってやつだった」
独り言のように続けた。
「伊達眼鏡でも、レンズに指紋や埃が付けば視界はぼやける。そうすると輪郭が曖昧になって、白とも黒とも言えないものも、見過ごせるようになる」
光は眉をひそめた。
井上の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「だから俺は、あまり眼鏡を外さない。……はっきり見えすぎると、眩しいからな」
光ははぐらかされる気はなかった。一歩踏み出し、井上の前へ立ちはだかった。
「大場を殺したのが誰か、公安はもう知ってるんでしょう。俺の録音なんて、刑事局への説明用でしょう」
「会議で聞かせてもらおう」
「おとといの夜の銃撃事件ですよ。あれだけの事件が握り潰された。いつもならハゲタカみたいに群がってくるマスコミが、今日は影もない」
「そうっすね。じゃあ文春にでも垂れ込んでみますか」
井上の口調は相変わらず穏やかだった――
「先輩!」
思ったより声が響いてしまった。だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「大場の件も、Styxの件も、俺が調べます。公安に刑事の協力が必要なら、主任には俺から話を通します。
だけど、課長が隠してることと、公安が握ってる情報が、どう繋がってるのかだけは……俺にはどうしても見当がつかないんです」
「お前、人に聞いてばかりで捜査した気になってないか」
「こんなに分かりきった事件なのに、どうしてこんなことになるんですか。被害者もいる。犯人ももう割れてる。
それなのに、どうして刑事と公安が腹の探り合いばかりしてるんです。
犯人は野放しで、関係ない人まで巻き込もうとしてる」
「泉上。それはこっちの台詞だ」
井上はようやく足を止めた。
「お前、山葉課長に何を言った。あの人があんなに焦るなんて」
「……何?」
「これのどこが隠し合いだ。潰し合ってるっていうのか」
井上はそこで言葉を切り、半ば失笑するように光を見た。
「少なくとも今は、みんなで力を合わせて捜査してるじゃないか。そのせいで誰か死んだのか」
光は立ち竦んだ。
「最後に一つ」
井上は一拍置いてから、口を開いた。
「柊音無だ。Styx出身の殺し屋で、九年前、お前の父親をWA2000で殺した男だ。山叶課長があいつを大場事件の犯人と見なして、そのまま逮捕されたとしても——」
井上は光をまっすぐ見据えた。
「あいつが弁明できる立場だと思うか」
光は半歩後ずさった。
井上は返事を待たず、光の脇を通り過ぎ、そのまま歩いていった。
廊下の突き当たりでは、非常口の誘導灯がぼんやりと灯っていた。
しばらくの沈黙が続いた。
「……先輩の言いたいことは、分かりました」
光はぽつりと呟いた。
「これからは、俺のやり方で調べます」
「――何が分かったとしても、それは俺が決めることです」
その声だけが、がらんとした廊下に静かに響き、やがて会議室の方から聞こえてきた物音にかき消された。
会議室が慌ただしくなり始めた。捜査員たちの足音。椅子を引く音。書類を机へ置く乾いた音。
そのとき、不意にポケットの中でスマートフォンが震えた。
《内部データの抽出は完了しています。
走行履歴も検索履歴も復元できました、光さん》
捜査会議が、まもなく始まる。




