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周囲と同じようにスーツ姿ではあるが、柊音無の席は長机のいちばん端にある末席だった。ネクタイも締めていない。
別に周囲と違う格好をしたいわけじゃない。ただ、首にはすでに黒い電子首輪が嵌まっている。その上からさらにネクタイまで締めようものなら、想像しただけで息が詰まりそうだった。
束縛。拘束。
十六歳までは、それが当たり前だった。訓練も、治療も、懲罰も。すべてが日常だった。
けれど、十六歳を境にすべてが変わった。
不快な記憶を頭の隅へ追いやり、音無は意識を目の前の会議資料へ戻した。
それはStyxに関する、自分でまとめた内部資料だった。井上に提出する前に一度選別し、さらに井上の手でももう一度ふるいにかけられている。
今、この場に並んでいるのは、そうして二重に選別された情報だけだ。
真実ではある。だが、それは世間が受け入れやすいよう加工された真実でもあった。
音無は井上の意図をよく理解していた。
この男は聡明で隙がなく、正義感も強い。そして常に大局から物事を考える人間でもあった。
だからこそ、既存のルールの中で利害を調整し、多くの人間が納得できる着地点を探ることに長けている。
白か黒かを選ぶ人間ではない。彼の立ち位置は、その髪色と同じく灰色に近い。対立を調整し、均衡を保ちながら、既存の枠組みを壊さない範囲で、自分が正しいと信じる方向へ物事を動かしていく男だった。
武器密輸、人体実験、薬物による支配、カルトの浸透――そんな資料をそのまま会議の場に並べれば、この場にいる警察官は誰もが憤りを覚え、今すぐ特殊部隊を送り込みたくなるだろう。
だが、Styxが日本のみならず東アジア全域で展開する傘下企業や関連事業、そして子どもたちの脳から抽出された実験データが、今なお精神医療の現場を支えていると知れば――。
誰もが黙り込み、ペンを置いて髪をかきむしる。
「……もう少し穏当なやり方はないのか」
もしあの馬鹿がここにいたなら、きっと机を叩いて声を荒らげる。
「それとこれとは別だろ! そんなもので帳消しになるわけないだろ!」
周囲がどう見ようと、最後まで自分の正義を曲げない。
――だが、ここにあの馬鹿はいない。
この会議室にいるのは、もう一人のキャリア組のエリートだった。
井上は決して正義感のない人間ではない。だが、トロッコ問題を前に立ち止まる男でもなかった。たとえ線路の上に縛られているのが自分だったとしても、自らの命と引き換えに大勢を救うことを、躊躇なく選ぶだろう。
だが、その立場が井上を「選ばれる側」に置くことは決してない。
レバーは、いつだって彼の手の中にある。
選ぶのは、常に彼だった。
音無が待っていたのは、最初から井上ではなかった。
会議は何事もなく終わった。案の定、Racingと大場譲治については最後まで触れられることはなかった。
人の去った会議室には、空調の低いうなりだけが響いている。
音無は席を立たず、井上は黙って資料を片づける。
次に何を話すことになるのかは、二人ともわかっていた。
だからこそ、どちらも気が重かった。
「会議じゃRacingの件、まったく出ませんでしたね。まだMyosotisを犯人扱いしてる人も多そうですよ」
「公安はそんなことには興味がない。俺たちが知りたいのは、大場が何者だったのか、 Styxがなぜあそこまで派手に大場を殺したのか、それだけだ。だからお前と泉上の線を追っていた。 ここまで早く繋がるとは思わなかった」
「じゃあ、せめて誤解くらい解いてくれてもいいじゃないですか。完全に濡れ衣なんですけど」
「そんなものは重要じゃない。泥棒を捕まえなくても国は滅びないが、左翼をのさばらせれば国が滅ぶ。Myosotisを摘んだところでRacingがいる。その先には、まだ――Parsley, Sage, Rosemary and Thyme」
井上は机の上の資料を揃えると、静かに音無を見た。
「お前をどうしても挙げたがってる捜査一課――とりわけあの課長に比べれば、公安のほうがお前にはずっと寛容だ。まだこちらにとって都合がいい。
この場にいる連中なら、言われなくても分かっている」
「公安が見てるのって、本当にStyxだけなんですか」
井上は鼻で笑った。
「冗談だろ。刑事局の連中が、大場の事件にそこまで興味があると思うか?」
二人は前後して会議室を出た。
黒い革靴の音が、廊下にコツコツと響く。首輪の鬱陶しい振動と重なり、その音は小槌で鼓膜を叩くように絶えず耳にまとわりついていた。
不思議なことに、外が騒がしいほど、思考は妙に研ぎ澄まされていく。
セーフハウスへ戻ると、音無はパソコンを立ち上げ、長年蓄積してきたデータベースを開いた。
Styx。
Styx。
Styx。
積み重ねてきた膨大な記録に、一行ずつ目を走らせていく。
十六歳――狙撃手から情報官へ転じた。それはStyxの決定ではなく、自らの判断だった。
下っ端の情報官として一から身につけたのは、情報ルートを築き、暗号化VPNノードを構築し、そして膨大なデータの海から必要な情報だけを拾い上げ、監視の目をかいくぐって持ち帰る術だった。
組織構成、構成員リスト、資金源、行動パターン、国際犯罪ネットワークとの接点――そうした情報を、一つひとつ暗号化済みのオフラインドライブへ蓄積していった。
誰も気にも留めない。Styxでは、D級情報官など存在しないも同然だった。検索履歴を書き換え、複数部署のデータベースへ足跡を残さず潜り込む。D級に押し付けられる煩雑な情報整理や分析業務は、そのための格好の隠れ蓑だった。
情報官へ転じたからといって、StyxがSSS級狙撃手という刃を手放すはずもない。その後も、誰にも代えの利かない狙撃任務は、変わらず自分のもとへ回ってきた。
睡眠はとうに贅沢だった。薬で無理やり意識を繋ぎ止める毎日だった。情報を拾い集めるだけで精一杯で、それが何を意味するのかを考える余裕など、あの頃の音無にはなかった。
ただ何度も自分に言い聞かせていた。
今はまだ役に立たなくても、「きっと警察官になる人」がいつか自分の前に現れた時、それらはきっと何より強い武器になるのだと。
その人は井上ではなかった。
その人が決断する前に、自分が先に答えを出さなければならない。
画面のカーソルが点滅を繰り返していた。音無はページをスクロールさせながら、内容へ目を走らせた。Styx傘下企業、事業展開、経済効果――そうした記述はすべて読み飛ばした。それは井上のような「レバーを引く側」の人間が考えるべきことだ。
音無は、線路に縛られるほうの人間だ。
彼が知りたかったのは、ただ一つ。
自分やほかの子どもたちから得られた実験データは、いまどこにあり、何のために使われているのか。
――93.7%。
それは何を意味するのか。
「無条件に同情するつもりはない。過去を隠していたからといって、それだけでお前を憎むつもりもない――」
あの夜、泉上光は確かにそう言った。
だが、それが理由で隠していたわけではない。正確に言えば、音無自身も知らなかった。
93.7%という数字を耳にしたのも、その時が初めてだった。
ただ、こめかみに指を当てたあの仕草だけは、妙な胸騒ぎだけは残った。
そんなことを考えながら読み進めていた音無の視線が、ある一節で止まった。
『──提供された前向き神経マッピングデータを基に、第三相臨床試験を完了。脳波および行動反応を観測した結果、本治療法は躁病および双極性障害の躁状態にあり、強い攻撃性を示す患者に対して高い有効性を示した。現在、本データを基にした新薬の開発が進められており、数年以内の市販を見込んでいる──』
音無は無言のまま、その文章を読み返した。
何度も。
何度も。
中指を人中に添え、人差し指の腹で頬骨を軽く叩いた。
首元の電子首輪は明滅を繰り返していた。だが、自分が監視されていないことだけは確信していた。
ここにいる連中は、正しい結果のためなら手段など気にしない。
もし疑われているのなら、とっくに適当な罪を着せられて、身柄を確保されていたはずだ。
音無はさらに古い資料を開いた。
記録は二〇〇五年前後まで遡る。手書きの記録をスキャンしたものも混じっており、文字はところどころかすれていた。
当時は、とにかく片っ端から保存していただけだった。こうして一つひとつを繋ぎ合わせる機会を得たのは、今になってからだった。
Styxはその頃から、海外で子どもを買い集め、あるいは誘拐によって連れ去り始めていた。
同時に、各地では「心のケア」を掲げた互助会を設立し、子どもを失った家族の心の支えとして活動していた。
だが、その実態は資金集めを目的としたカルト団体にすぎない。心理相談や精神的支援を名目に、詐欺まがいの手口で資金を集めていた。
さらに東アジア各地へ闇金融の網を張り巡らせ、返済不能に陥った家庭から、借金のカタとして子どもを奪っていく。
精密で、残酷なシステム。
巨大な肉挽き機。
二〇〇五年を境に、その巨大な仕組みは強引に動き始めた。この正常な世界を少しずつ蝕んでいった。
線路の片側――アウシュヴィッツへ続く側の線路に縛られた子どもたちは、Myosotisとなり、Racingとなった。
またある者は論文の図表となり、統計となり、精神疾患の患者の枕元に置かれる新薬へと姿を変えた。
その薬は、すべてを眺め、嘆き、それでも様々な理由から沈黙を選んだ人々を救っていく。
次に追うべきは二〇〇五年に何があったのか――そのはずだった。
だが、音無は顔を覆った。
――もう一方の線路は、本当に天国へ続いているのだろうか。
――そこもまた、アウシュヴィッツだった。




