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Myosotis 〜 過去は、まだ引き金を握っている 〜  作者: Bpch


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銃弾で穴だらけになったトヨタのSUVが、鑑識を終え、ようやく光のもとへ戻ってきた。


少なくとも四、五日はかかると思っていた鑑識作業は、一日足らずで切り上げられた。手際がよかったというより、最初から調査範囲が限定されていたのだろう。必要なデータだけを採取し、物証を回収した時点で、それ以上の解析は打ち切られていた。


やけに薄い鑑識報告書を眺めながら、光は鼻で笑った。これなら辻褄が合う。なにしろ、黒い瞳の青年は堂々と姿を現し、路地裏で柊音無と短く撃ち合ったあと、悠然と姿を消した。その間、確保の報告はひとつとして入らなかった。まるで捜査網が意図的に緩められていたかのようだった。


防犯カメラ映像の抜け落ち方まで、不自然なほど出来すぎていた。事件の肝心な部分だけが、きれいに抜け落ちていた。


やはり、誰かが裏で手を回していたのだ。


まだ誰の仕業かは分からない。だが、どう考えても、あの青緑色の瞳の男が一枚噛んでいるとしか思えなかった。


光は小さく息を吐き、板金職人の田中へ視線を向けた。


六十を少し過ぎた田中は、油にまみれた紺色の作業着姿で、車体の周りをゆっくりと回りながら損傷を確かめていた。「こりゃあ……」「ひでぇなぁ」と何度も漏らし、そのたびに深いため息をつく。


「光くんも親父さんも警察なのは知ってるけど、今回はさすがに派手すぎるよ。どうやったらこんな有様になるんだい」


光は工場のドア枠にもたれかかり、両手をポケットに突っ込んだ。


「だったら、いっそ車ごと防弾仕様にして、防弾鋼板でも張ってくださいよ。そうすりゃ安心して乗れますから」


田中は呆れたように手を伸ばし、光の額を軽く小突いた。


「ばか言うんじゃないよ。親父さんの車だろ。大事にしてやれよ」


そう言うと、今度はさっきまでとは打って変わって優しい手つきで、車のドアをぽんぽんと軽く叩いた。


「親父さんはな、この車をそれはもう大事にしてたんだよ。まだ美咲さんと一緒に選んでた頃でな。俺も横からああだこうだ口を出してな」


「本当に大事にしてましたよ」


光はドア枠から身を起こし、小さく笑った。


「年に二千キロも走りませんでしたから」


田中はしばらく黙り込み、小さくため息をついた。


「そうだったなぁ……あんなことがあったからな。お母さんのこともな……」


「あの人も、そのあとこの車に乗るのは母さんの墓参りに行く時くらいでした。家には母さんの写真を一枚たりとも置かなかったのに、墓参りだけは律儀に欠かさなかったんです」


田中はそれ以上何も言わず、撃ち抜かれたナビ周りへ歩み寄ると、腰をかがめ、むき出しになった配線や砕けたパネルをじっと見つめた。


やがて身を起こし、小さく首を横に振る。


「こりゃあ……参ったな。ナビまでやられてるかもしれん」


「直るなら、できるだけ残したいんです」


光は歩み寄ると、ダッシュボードに散らばった破片をそっと払い落とした。


「中には親父が残したナビの履歴や登録地点のデータが入ってるんです。復旧できるなら、できればそのまま残したいんです」


「車なら俺が直せる。だがナビは専門外だ。こいつは取り外して、電装屋に持ち込んで見てもらうしかないな」


田中は首を横に振りながら、ウエスで手についた油を拭った。


「しかも二十年以上前のナビだからな。完全に壊れてたら、メーカーももう部品は出してないだろう。電装屋で見てもらって、どうにもならなけりゃ中古部品を探すしかない」


田中は立ち上がると、手をぱんぱんと払った。


「まあ、何はともあれ、まずはインパネを外さんことには話にならん。配線は全部その奥だからな。バラしてみなけりゃ、どこまでいかれてるかわからん」


「鍵はここに置いておきます。あとはお願いします」


そう言いかけた光は、ふと目の端に人影を捉えた。


黒い短髪に黒い瞳。青いリュックを背負ったその姿が、影のように目の前をよぎる。


その男は修理工場の前の通りを、急ぐ様子もなく歩いていた。


光は田中に一礼だけすると、足早に後を追った。


「おい! ちょっと待て! そこの——」


数歩追いかけ、後ろ姿を見定めたところで声をかけようとしたものの、口ごもってしまう。まさか「そこのSS級スナイパー!」などと叫ぶわけにもいかない。


結局、そのあと口をついて出た呼びかけも、十分恥ずかしいものだったが。


とにかく光は腹を括り、その妙なコードネームを叫んだ。


「レーシング——!」


途端に、通りを歩く人々が一斉に足を止め、光へ視線を向ける。制服姿の女子高生たちは口元を押さえ、「え、何?」「ヤバくない?」と視線を交わした。


光の顔が、かっと赤くなった。


Racingと呼ばれた青年も、そのときようやく振り返った。


黒い瞳をわずかに瞬かせた。光の姿を見ても、驚いた様子はない。


光は意を決してRacingの前まで歩み寄ると、その瞳をまっすぐ見据えた。


「——あんた、だよな? 見間違いじゃないよな?」


「ああ、泉上さん。」


Racingの声は相変わらず落ち着き払っていた。まるで一昨日、他人の車をあれだけ壊したのが自分じゃないと言わんばかりに、「こんにちは」と続ける。


しかも、律儀に会釈までしてみせた。


光は腰に手を当て、周囲をぐるりと見回してから、もう一度Racingに向き直り、声を潜めた。


「よくのこのこ街を歩けるもんだな。警視庁を全員まとめて買収でもしたのか」


「……なにかご用ですか」


Racingは軽く瞬きをした。


「なにかご用だと? 見つけた以上、追いかけないわけにはいかないだろうが。人の車を勝手にあんなボロボロにしておいて、『次の標的はあなただ』なんて捨て台詞まで吐いて、その翌日には平気な顔で街をうろついてる。俺がこのまま黙って見逃すとでも思ったのか」


気づけば、光の声は少し大きくなっていた。


「では、僕を逮捕するおつもりですか」


Racingは半歩だけ身を引いたが、慌てた様子はまるでなかった。


「しない。ただ、お前が街をうろついてるのを見ると腹が立つだけだ」


「うろついてはいません。今日の講義が終わって、これからアルバイトに向かうところです」


「講義?」


「大学の講義です」


さすがの光も、もはや苦笑いする気力すら湧いてこなかった。眉間を強く揉んだ。


SSS級狙撃手が公安の顧問を務め、もうひとりのSS級狙撃手は大学に通っている。この調子じゃ、そのうち課長に「大場譲治はStyxのリーダー兼国会議員です」と言われても、もう驚きはしないだろう。


いっそ次期国連事務総長が誰なのか気になってきた。音無に一票入れてやってもいい気がしてきた。


「——で、バイトが終わったら、少し話せないか」


光は赤くなるほど眉間をこすりながら、半ば呆れたように付け加えた。


「それに、俺の車をあんなふうにしたんだ。何か言うことがあるんじゃないのか」


「……ああ、弁償ですか」


Racingは何か腑に落ちたように頷いた。


……いや、そこじゃないんだが。


「いいですよ。行きましょう。カフェで働いているので、そこで待っていていただければ。」


いったい全体、なんなんだこれは。Styxの連中って、みんな会話が噛み合わないのか。謎めいたやつか、電波系か。


光は心の中で悲鳴をあげたが、それでもぐっと飲み込む。


Racingのあとについて歩きながら、あらためてその身なりに目を向ける。青いリュックに、シンプルなシャツ。足元は白いスニーカー。どう見ても、ごく普通の大学生の格好だった。


視線をリュックから腰の後ろ、さらに太腿へと移す。自然と目つきが鋭くなった。


「……そういえば、お前、今日は銃は持ってないよな」


「持ってます」


光は頭の中が一瞬真っ白になった。勢いよくRacingを見ると、ちょうどRacingもこちらを見ていた。


「命令がない限り、銃を使うことはありません。取り上げようとしないでください。認めるつもりはありません」


そう言うと、Racingは再び前方へ視線を戻す。黒い瞳に揺らぎはなかった。


「先輩だって、離反したあとも、ずっとあのバイオリンケースを背負っているでしょう。Styx育ちの人間は、自分の武器しか信じないんです」


ふたりは黙ったまましばらく歩き、やがて細い路地へと折れた。


路地はそう長くない。両脇の壁には蔦が絡み、午後の陽射しが入口から斜めに差し込んで、地面にまだらな光と影を落としていた。


突き当たりには、こぢんまりとしたカフェが静かに佇んでいる。黒板風の看板にはチョークで小さなイラストが描かれ、その下には飾り文字で店名と本日のおすすめが書かれていた。


Racingがドアを押すと、コーヒー豆の香りを含んだ冷たい空気が、ふたりをふわりと包む。


淡いグレーのフローリングに、生成りの壁。カウンターの上には暖色のペンダントライトがいくつも下がり、店内をやさしく照らしていた。


よくこんなカフェで働けるもんだ。それとも、カフェって無愛想なやつのほうが向いてるのか。


そんなとりとめもないことを考えているうちに、Racingはもうカウンターへ向かい、オーダー端末を前に眉を寄せる店長へ軽く一礼していた。


店長も顔を上げると、Racing越しに光へ視線を向ける。


「あ、いらっしゃいませ——」


……まあ、まずはコーヒーだな。


光はひとつため息をつき、他の客の邪魔にならなそうな席を選んで腰を下ろした。メニューを開き、ずらりと並んだドリンク名へ目を走らせる。

コロンビア・シングルオリジン、グアテマラ深煎り、エチオピア・イルガチェフェ……もともとこういうものには詳しくない。しばらく眺めていても、何を頼めばいいのか、なかなか決められなかった。


そうこうしているうちに、ベージュのエプロン姿になったRacingが奥から出てきた。エプロンの前ポケットにはオーダー帳とボールペンが差してある。


彼は光のテーブルまで歩み寄ると、その前で足を止めた。


一昨日の晩に自分の車のガラスを割った相手が、今日はエプロン姿でオーダーを取りに来た。


光の視線はベージュのエプロンからゆっくりと上がり、やがてRacingの顔で止まる。


「えっと……」


Racingは静かにこちらを見つめていた。


光はその場に固まった。


そのとき、オーダー端末からまたエラー音が鳴る。店長はため息をこらえながら頭を掻いた。


「ご注文はお決まりですか」


Racingが小首を傾げ、口元には、申し分のない笑みが浮かんでいた。


その声は驚くほど穏やかで、先ほどまでの人を寄せつけないような話し方とはまるで別人だった。この店に溶け込むような、申し分のない物腰。


妙に見覚えのある優しさ。


完璧な微笑み。


そして――その既視感。


光は、ふと悟った。


Trigonotisは最初から囮だった。


あの男の役目は、音無に似ていること――ただそれだけだった。


大場が死ぬ前にあえて見つけ出し、誰もがそう思い込むよう仕立てた囮――。


「KNさんね、昔ある少年と知り合ったんだって。で、その子があたしとすごくそっくりだったんだって。もしその子が大人になってたら、きっとあたしみたいになってたんだろうなあ、って言ってた」


「――93.7%まで再現できるのは僕だけです。この辺を、彼らに弄られています」


そして、本当に音無を思わせるのは、この男だった。


光はRacingの顔、前髪に半ば隠れた黒い瞳を、息を詰めて見つめた。


Racingは気づいた様子もない。――いや、最初から隠すつもりなどないのか。


その微笑みは、黒い瞳の奥までは届いていなかった。


ペン先をつまむ指先だけが、わずかに力んだ。

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