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Myosotis 〜 過去は、まだ引き金を握っている 〜  作者: Bpch


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26

最初に駆けつけたパトカーが現場へ滑り込む。赤と青の光が路面に散ったガラス片を照らした。


泉上光は拳銃をしまうと、内ポケットから警察手帳を取り出し、開いて巡査へ見せる。


「捜査一課、泉上」


光は早口で状況を手短に伝えた。被疑者は逃走。拳銃は確保済み。一般人に負傷者なし。


巡査は頷きながら報告を聞き、ふと光の隣へ目を向ける。黒いケースを背負ったまま黙って立つ音無に目を留めた。


「公安のアドバイザーだ。今回はこちらと行動を共にしている」


間髪入れずに付け加えた。


巡査は小さく頷き、それ以上は何も聞かなかった。


あとは手慣れた流れだった。規制線が張られ、鑑識が駆けつける。少年が路上に落とした拳銃の鑑識作業が始まり、ストロボが夜闇に白く瞬いては消えた。拳銃や薬莢は一つずつ写真に収められ、現場の状況が次々と記録されていく。


事情聴取、調書作成、関係各所との連絡や調整。気がつけば、ふたりは別々の車で署へ戻り、それぞれ別室で改めて経緯を説明させられていた。


そんなこんなで、夜はとっくに更けていた。


廊下には白々とした明かりが落ちていた。蛍光灯のかすかな音だけが、がらんとした廊下に響いている。


光は取り調べ室を出たところで、ちょうど反対側の階段を上ってきた音無と顔を合わせた。


光よりも疲れた様子だったが、黒いケースは相変わらず背負ったままだ。


音無の隣には井上翔太が立っていた。


光はすぐに歩み寄り、軽く頭を下げる。


「先輩」


井上は小さく頷いた。


「話は明日でいい。もう遅いしな。小林のところにも顔を出さないといけないだろ。まだ面倒なことも残ってる」


てっきり井上に呼び止められ、詳しく事情を聞かれるものだと思っていた。


それだけ言い残すと、井上はそのまま会議室へ向かっていった。コツ、コツと革靴の音だけが廊下に響き、やがて奥へ遠ざかっていく。


おそらく音無から事情は一通り聞いているのだろう。これほどの騒ぎになったというのに、公安はあの危険なケースを没収しようともしない。少なくとも井上は状況を把握しているはずだった。


遠ざかる井上の背中を見送りながら、光はそれ以上考えなかった。


いつの間にか、音無が隣に並んでいた。


「行こう」


音無が小さく言う。


ふたりは並んで署を後にした。


深夜だというのに、風は少しも涼しくない。街灯に照らされたふたりの影が長く伸び、コンクリートの上へ斜めに落ちていた。


音無は顔を上げると、深く息を吐いた。光はその隣で自分の肩をぐっと揉む。


「なんか既視感あるな。俺、タイムループにでも入ったか?」


音無は一瞬きょとんとしたあと、小さく肩を震わせた。苦笑まじりに光へ顔を向ける。


「すみません。いつも巻き込んでしまって」


「その話はもういい。で、そのケースを手放さないのは、俺を守るためなのか?」


音無は足元に伸びる自分の影へ目を落とし、しばらく黙り込んだ。


「……半々です。光さんを守るためでもありますし、自分のためでもあります。光さんだって見たでしょう……」


そう言って、気まずそうに頬を指で掻く。


ふたりはしばらく無言で歩いた。人気のない通りには足音だけが交互に響き、やがて自然と歩調がそろっていく。


「でも、光さん。まさか警告射撃を足元に撃ち込むとは思いませんでした。せいぜい空へ一発撃つくらいかと。跳弾したらどうするんです。危ないじゃないですか」


音無は目を細めてそう言った。咎めるような口調ではなかった。


光は鼻を鳴らした。


「お前ら、ウルトラマンにでもなって、東京のど真ん中でタップダンスでも始める気だったのか。そんなところで空に向かって撃ってどうすんだよ。応援してるみたいになるだけだろ。銃声ごときでビビるタマか?」


「もう何年も、聞き慣れた音ですから」


「だろ!? だから意味ねぇんだよ!」


光は荒っぽく息を吐く。


「だから足元にぶち込むしかなかったんだよ。あれだけ周りが見えてなかったお前らが、ようやくこっち見ただろ? 『おーい、正義の味方がここで途方に暮れてるぞー!』って、それくらい気づけって話だ!」


音無は吹き出しそうになるのを必死でこらえた。


「でも、だったら相手を撃てばよかったんじゃないですか。捕まえられれば、大場の件だって片付いたんじゃないですか?」


「……無茶言うな! あんな速ぇの、当たるか!」


その瞬間、音無はとうとう吹き出した。


その笑い声は、普段の穏やかな空気をふっとほどき、年相応の柔らかさをのぞかせる。


適当なことばかり言う光と、それを聞いて嬉しそうに笑う音無。


十四歳から十六歳まで。


同じ制服を着て、ひとりは自転車を押し、ひとりは大きな楽器ケースを背負っていた。ふたりは幾つもの長い坂道を並んで歩いた。


夕陽に伸ばされた影は、いつもどこかで重なって見えた。


あれから九年。


気づけば、ふたりとも二十五歳になっていた。


互いを知らずに過ごした九年間。その空白が、こんな他愛ない冗談で少しだけ埋まったような気がした。


月明かりの下、ふたりの影だけが不思議なほど寄り添っていた。


そのことに気づいていたのは、きっとふたりとも同じだった。


だから、また黙った。


しばらく歩いたあと、音無がぽつりと口を開く。


「……以前お話しした通りですが、大場はおそらくStyxの人間で、あの情報官とも繋がっていたんじゃないかと思っています。

それが気になって、今夜、小林班が洗い出した警備会社の資金の流れを、昔僕が担当した任務のブリーフィング資料と照らし合わせてみたんです」


「それで?」


「行方の追えない海外資金ですが、単なるマネーロンダリングじゃない気がするんです」


光はわずかに眉を寄せた。


「昔、情報官として実行役たちに海外任務を割り振っていました。でも、依頼人が誰なのかは、僕にも知らされませんでした。任務に必要な資金や武器、情報を手配して、それぞれに渡す。それが僕の役目だったんです」


そう言って、音無は光に向き直った。


「でも、今になって分かったんです。僕が扱っていた資金の流れと、大場の警備会社の海外資金ルートが、ほとんど同じだった。

しかも、その情報は以前は僕が担当していました。その前はFYIが担当していたんです」


「FYI?」


「ええ。For Your Information。FYI――僕の任務ブリーフィングを書き換えて、光さんのお父さんを殺させた男です」


そこで一度、音無は言葉を止めた。


街角から吹き抜けた夜風が、前髪をそっと揺らす。


「……それに、僕にしたことの張本人でもあります」


光が音無を見る。


だが音無は、そっと視線を逸らした。


「……前から思っていたんです。海外任務の資金を動かしていたのが大場で、標的情報を流していたのがFYIなら、あの二人はかなり前から同じラインで動いていたはずだって。少なくとも、大場はFYIの上役だったんじゃないかと。

もっとも、大場がStyxのリーダーだったと知ったのは今夜になってからですが」


音無は小さく笑った。


「正直、驚きました。大場を知らなかったのに、向こうは僕のことを知っていたんですから」


光は眉を上げた。


「お前ほどのスナイパーが、Styxのリーダーに会ったこともないのか?」


「ランクが高くても、所詮は組織の駒です。それに十六で情報官に回されましたから」


「あいつ、嘘はついてないと思うか?」


「おそらく。少なくとも、この件で嘘をつく理由はありません。それに、こちらでも確認は取れますし。

ただ、光さん。さっき少年って言ってましたよね」


音無は首を横に振った。


「もう二十歳です。酒も飲める歳ですよ。

……もっとも、人殺しが許される年齢にはまだなってませんけどね」


「二十? 高校生かと思ってた……!」


「童顔なんでしょうね。目が丸くて大きいうえに、黒目がちですから。どうしても年下に見えてしまうんです。コードネームは『Racing』。StyxのSS級狙撃手ですよ」


光はもともと跳ねていた髪を、さらにガシガシとかいた。


「Racing? なんだその名前。Styxのコードネームって、どうやって決めてるんだ?」


「……強いて言えば、適当です。少なくとも僕は五歳の頃、Myosotisがどういう意味なのか知りませんでした。ただ空いていたから選んだだけです。ShadowとかThunderとかは、もう先に取られていましたし。

長い間、意味も知らないままでした。知ったら知ったで、ずいぶん気取った名前だなと思いましたけど。Racingも、たぶん似たようなものですよ」


「じゃあ、あいつとは知り合いなのか?」


音無は足を止めた。


ちょうど街灯と街灯の間だった。


ケースの肩紐をぎゅっと握る。


しばらくして、その指がゆっくりとほどけた。


顔を上げると、困ったように光を見た。


光は黙って、音無が口を開くのを待った。


また話を逸らされるのか――そう思った矢先、音無は小さく息をついた。


「……車、壊されちゃいましたね」


「……音無」


「鑑識の確認が終わったら、修理に出さないといけませんし。それに、あいつ……Racingは、たぶん――」


「最初から狙いはセンターコンソールだ。そのくらい見りゃわかる」


光はそこで言葉を遮った。


「だが、俺が聞いてるのはそんなことじゃない」


光は一歩踏み出し、距離を詰めた。


「……音無。前にも言っただろ。お前にどんな過去があろうと、俺の親父を殺したのは動かねぇ事実だ。

無条件に同情するつもりはない。過去を隠していたからといって、それだけでお前を憎むつもりもない。」


夜風がふたりの間をすり抜ける。


遠くでは信号だけが何事もなかったように色を変えていた。


光は真っ直ぐ音無を見た。


「これまで何度も問いただしたのは、真実を知って事件を解決するためだ。お前の話だけを鵜呑みにはできないし、それは俺自身で確かめる」


光はゆっくり続けた。


「今、俺が知りたいのは一つだけだ。 これから、お前とどう向き合えばいいのか」


それだけだった。

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