25
月明かりが、深夜の東京の街並みに淡い銀色を落としていた。
あれほど深々と頭を下げられても、音無は警戒を解こうとはしなかった。
手にしたHKP9が月明かりを受け、鈍く光る。頭を垂れた少年へ向けられた銃口は、微動だにしなかった。
音無は光より十センチ近く背が低い。前に立ったところで、その身体を隠し切れるわけでもない。
それでも、その構えにも立ち姿にも、何があっても背後の男だけは守るという覚悟が滲んでいた。
光は音無の背後で、自分より小柄な音無の背中を見つめていた。
驚きとともに、わずかな戸惑いが胸をかすめる。
正直なところ、こんなふうに問答無用で誰かに守られるのは初めてだった。
気づけば、いつだって前に立つのは自分だった。学生時代は風紀委員として、いじめられている同級生を助けた。警察官になってからも、扉を蹴破って踏み込むのも、犯人を追うのも、真っ先に危険へ飛び込むのも――いつも自分だった。
自分が守られる側になる日が来るなんて、思ってもみなかった。
その考えに、妙な居心地の悪さを覚えた。半歩だけ位置をずらした。
視界を確保すると同時に、少年が突然動いても、音無が無茶な真似に出ないよう備えるためでもあった。
少年が顔を上げる。
自分へ向けられた銃口を目にした瞬間、その黒い瞳に初めて戸惑いの色が浮かんだ。
「……どうして」
「それはこっちのセリフだ。なぜここにいる」
音無の声は低く沈み、普段の穏やかな声色は欠片も残っていなかった。
少年はしばらく黙ったまま、銃口からゆっくりと視線を外し、音無の背後で警戒を崩さない光へ目を向けた。
「先輩が真っ先にここへ来られたということは、姿を消す前に僕へ盗聴器か発信器でも仕込んでいたんですよね。 僕に訊く必要はないはずです」
光はわずかに息を呑み、音無を見た。
だが、音無は光には目もくれない。
ただ首を傾げると、もう片方の手をヴァイオリンケースのバックルへそっと添えた。
それだけで十分な警告だった。
「それで?」
音無の声はさらに低く沈んだ。
「Styxの命令に背くつもりか」
「この件だけは、先輩に嘘をつく理由はありません。
泉上さんを守りに来たのでしょう。泉上さんの家で暮らし、今は同じ警視庁で働いている。 それだけで、先輩の意思は十分伝わりました」
少年の声音に嘘は感じられなかったのだろう。音無はしばらく沈黙したのち、銃口をゆっくりと下ろし、やがて地面へと向けた。
だが、左手の人差し指は、なおもバックルに掛けられたままだった。
あのヴァイオリンケースが開かれた瞬間、事態は自分の手には負えないものになる。光にはわかっていた。
光は音無の人差し指をじっと見つめながら、鼓動が速まっていくのを感じていた。
音無は、それに気づいていない。
――いや、気にも留めていないのかもしれない。
「……大場を殺したのがおまえだとは思わなかった」
「Myosotisの手口を模倣し、リーダー――大場さんを殺す。それが僕に下された命令です。93.7%まで再現できるのは僕だけです。
この辺を、彼らに弄られています」
そう言って、少年はこめかみを軽く指差した。
音無は眉をきつく寄せた。
「……誰に命令された」
月が再び雲に隠れる。
街にはさらに濃い影が落ち、三人の影は街灯と月明かりの狭間で長く伸び、歪み、やがて闇に溶けていった。
空気は、嵐の前の海のように静まり返っていた。
光は思わず息を詰めた。音無の呼吸は乱れる気配もなく、HKP9を握る手は微動だにしない。銃口は下がっていても、微塵の隙も見せなかった。
だが少年は、ただ首を横に振っただけだった。
「その質問に答える理由はありません。渡せる情報は、もう渡しました。あとは先輩ご自身で確かめてください」
「筋が通らない。光さんを殺さないっていうなら、それはStyxに背くってことだ。だったら、なぜ僕と手を組まない?」
少年の煮え切らない態度に、音無の声には抑え込もうとする苛立ちが滲んだ。
「僕は最初から、先輩が勝てるとは思っていません」
少年は断固として言い切った。
「先輩は、自分が何と戦っているのか分かっていない……いや、分かっていますね。先輩こそ誰よりも、Styxの連中の狂気を知っている。
先輩が今もこうして立っていられるのは、誰かに守られているからじゃない。彼らがまだ本気で先輩を狩るつもりがないだけです。」
少年はそう言って、再び光へ視線を向けた。
「先輩はただ――守りたい人ができたから、自分なら何でもできると信じ込もうとしている。
……もっとも、先輩が狙いを外さないことだけは認めていますが」
音無は何も言わなかった。
月明かりが再び雲間から差し込み、重く沈んでいた夜にわずかな白さを取り戻した。
少年のトレンチコートの裾が、夜風にそよいだ。
「僕にも守りたい人はいます。でも、その人はまだStyxの中にいる。だから僕は、軽々しくStyxを敵に回すつもりはありませんし、先輩ひとりにすべてを賭けるつもりもありません」
しばらくの沈黙が流れた。
音無はため息まじりに笑った。
「……は。日和見か」
「ええ、まさにその通りです。さすが先輩です」
少年は頷いた。その言葉に含まれた侮蔑など、まるで気にしていないようだった。
「だから、先輩の勘は当たっています。今夜ここに来た理由は、泉上さんだけじゃありません」
言い終わらぬうちに、少年の右手はすでに黒いトレンチコートの内側へと滑り込んでいた。
音無の左手が、ヴァイオリンケースのバックルを弾いた。
金属のバックルが乾いた音を立てた。
黒いヴァイオリンケースが一気に手前へ振り出され、そのまま地面へ叩きつけられた。
鈍い衝撃音が響く。
とてもヴァイオリンケースには見えないその巨大なケースは、今や格好の遮蔽物になっていた。
楽器ケースに見せかけるための艶消し塗装が、月明かりを受けて冷たい光を返している。
音無は光の腕を掴み、強引に引き寄せた。同時に身を沈めた。二人の姿はヴァイオリンケースの陰に完全に隠れた。
HKP9の銃口がケースの縁から突き出され、火を噴いた。少年が抜いたばかりの拳銃を正確に撃ち抜いた。
だが、その前に、少年はすでに引き金を引いていた。狙いは光でも音無でもない。二人の脇に停められていたSUVだった。
弾丸が突き刺さった瞬間、フロントガラスに蜘蛛の巣状の亀裂が一気に広がった。
音無は一瞬目を見開いた。
その隙に、少年はすでに太もものホルスターから予備の拳銃を抜き放っていた。
視線も向けないまま、車窓へ銃口を向けた。
それを読んでいたかのように、音無は前方へ強く踏み込み、一気に間合いを詰めた。鞭のような右脚が、手首を狙って蹴り抜いた。
しかし少年の反応はそれより速い。蹴りの軌道に合わせて手首を流し、衝撃を殺した。拳銃は一瞬手を離れる。だが、そのまま左手で受け止めた。
銃口が再び跳ね上がる。今度は音無の額を捉えていた。
少年の動きは速すぎる。音無の視界には、黒い銃口だけが迫っていた。
音無は咄嗟に少年の手首を掴み、そのまま力任せに押し下げる。
同時に頭を右へ逸らした。
二発目の弾丸が、かろうじて音無の頬を掠める。
火薬の焦げた臭いが鼻先をかすめた。
弾丸はひび割れたフロントガラスを再び貫き、そのままセンターパネルのナビモニターを撃ち抜く。
ナビモニターが火花を散らした。
液晶が砕け、細かな破片が車内へ飛び散る。画面は二、三度明滅したのち、完全にブラックアウトした。
――こいつ、わざとか。
音無は少年を見据える。しかし少年の瞳は、光を呑み込んだ黒曜石のようだった。そこには何の感情も浮かんでいない。
最後の銃声が響くまで。
その一発は、二人の足元のアスファルトへ撃ち込まれた。
撃ったのは光だった。
光は片膝をついていた。
音無のヴァイオリンケースの下段から取り出したPPKを、両手で構えている。
それは、傷つけるためではなく、相手を止めるためだけの警告射撃だった。
「やめろ!」
静かな声だった。しかし命令として十分だった。
二人の動きが止まった。
音無がわずかに身を起こす。
少年は先に手を放した。荒れ果てた車内へ視線を送り、続いて光と音無を見る。
ゆっくりと一歩後退した。
少年は静かに両手を上げた。拳銃は指先を滑り落ち、そのまま地面へ転がる。
「……時間ですね。お相手いただき、ありがとうございました」
遠くから、微かにサイレンの音が近づいてくる。誰かが通報したのだろう。
だが少年はそれを聞いていないかのように、一歩。
そして、もう一歩。
やがて背を向け、そのまま闇へ歩いていった。
そして、闇に溶けていった。
光は、大きく息を吐いた。
音無はただ少年の消えた方角をじっと見つめていた。
前髪が静かに目元へ落ち、その奥で月明かりを映した深い緑の瞳が半ば隠れる。
彼が何を思っていたのかは、誰にも分からない。




