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視線が合っても、男はそこに立ったまま、ぴくりとも動かなかった。黒い髪、黒い瞳、黒い服に黒いズボン。夜の空気さえ肌にまとわりつくような季節だというのに、その黒ずくめの姿は蒸し暑さを感じさせるどころか、人ならざる冷たい気配を漂わせていた。
泉上光は思わずあたりを見回した。ここは駐車禁止だっただろうか。それとも、自分の車が誰かの家の出入りを邪魔しているのか。だが、どう見てもそうは思えない。
窓を開けて声をかけようとしたそのときだった。男は音もなく運転席の窓のそばまで来ていた。その黒い瞳が、まっすぐ光を見据えていた。
腰のあたりへ無意識に手をやったが、そこに拳銃があるはずもない。光はほんの一瞬ためらい、それからおそるおそる顔をのぞかせた。
「……あの、何かご用でしょうか。車のことであれば……」
男がまばたきをした。黒い短髪に、病的なまでに白い肌。とりわけくりくりとした大きな瞳は、その顔立ちと相まって妙にあどけない印象を与えていた。女子受けしそうな童顔だった。もっとも、その表情は可愛げという言葉とは無縁だったが。
あれだけ全身を覆っているというのに、男は汗ひとつかいていなかった。
「……泉上光」
男が口を開いた。
光は一瞬面食らった。
「え……?」
「なるほど」
男はひとり納得したようにうなずいた。
「会いに来た」
「俺に? 何の用ですか。……誰ですか」
男は困惑したように小首をかしげ、それから口元を引き結ぶと、ごく簡潔にこう告げた。
「Myosotis先輩にそこまでさせた人間を見に来た」
光は用心深くドアを押し開け、車から出た。
こいつが、音無に情報を渡していたやつなのか。
大場の件も、こいつが流した情報か。
とにかく、Styxの人間であることは間違いない。だが、一人でここに現れるとは。それとも、もう罠の中なのか。まさか、この場で何かしてくるつもりではないだろうが。
光は周囲の監視カメラへちらりと目をやった。しかし男はただ首を振っただけだった。
「あなたを害するつもりはない。興味があったから、見に来ただけだ」
「その言葉を信じろと?」
「僕のほうが強い。やるつもりなら、とっくにやっている。嘘をつく必要がない」
男はこともなげにそう言った。
光は答えず、何食わぬ顔で男の前へ歩み寄った。だが、一定の距離は保ったままだ。もし男が突然襲いかかってきても、この間合いなら対応できる。逃げるにせよ、応戦するにせよ。
片手はさっきからズボンのポケットに入れたままで、数回タップするだけで緊急通報が飛ぶよう設定してある。記録を残すことも、応援を呼ぶことも可能だ。
そしてその前に、指はすでに端末の背面を二度、軽く叩いていた。もう録音は始まっている。
男にはそのすべてが見えているらしかった。不満の色もなければ、対処する気配もない。ただ黒い瞳を向けているだけで、虹彩と瞳孔が溶け合っているようにも見えた。
「君が音無の情報源なのか」
「音無? ああ、Myosotis先輩」
男が小首をかしげる。その仕草が童顔に拍車をかけたが、相変わらずの無表情で、黒い瞳は凪いだままだった。
「そういうわけでもない。先輩には先輩のやり方がある。でも、リーダーの情報に関しては僕が伝えた」
「リーダー? なんだ、それ」
「先輩から聞いてない? それとも、先輩自身も知らないのかな。リーダーっていうのは大場譲治のこと」
光は目をしばたたかせた。
「……はあ?」
「大場さん。Styx東アジア支部のリーダーのひとり。組織内ではほぼ最高権限を持っていて、Styxを現在の規模にまで押し上げた人です」
頭の中でノイズが鳴り響いていた。
Styxの殺し屋を使って、Styxのリーダーを殺したやつがいる。それは誰だ。別のリーダーか。それともまた情報が改竄されていたのか。
なんなんだこれは。内部抗争か。
だが内部抗争にしては、警視庁の鼻先でこんな騒ぎを起こすものだろうか。
それに――
「……なぜおまえがそんなことを知っている」
「僕が殺した」
光の指が画面に触れた、その瞬間。
男は首を振った。
「泉上さん。僕がここに来たのは、あなたがどんな人間か見るためです。あなたに捕まるためじゃない。
警視庁への連絡はやめてください。さもないと、三秒以内に手首の関節を外すか、親指と人差し指を脱臼させます」
可愛らしい童顔のまま、男は抑揚のない声でそう言った。
おかしな光景のはずなのに、光にはこいつが嘘を言っているようには思えなかった。男は最初から、一瞬たりとも隙を見せていない。
光の指先は止まった。それでも録音はまだ続いている。その事実が、わずかながら彼を落ち着かせた。
喉仏がひとつ上下した。しばらくして、ようやく声を絞り出す。
「……自分がなにを言ってるかわかっているのか。俺にそんなことを話して、いったいなんのつもりだ」
「訊かれたから答えただけです。でも、警察に拘束される気はない。まだやることがある。僕を待っている人もいる」
「誰だ」
「それはあなたには関係ない。でも、悪意はない」
悪意がない、だと。人殺しがなにをほざいている。
心のなかで毒づきながらも、光は努めて冷静に問いかけた。
「じゃあ、Myosotisとはどういう関係なんだ」
「……それを話すのは、僕の立場じゃない。先輩のプライベートです。先輩が話さないなら、僕から言うわけにも……いや、ちがうか」
黒髪の少年は目をしばたたかせ、なにかに思い至ったように目を見開いた。
おそらく、これが今夜いちばん生気のある表情だった。
「……あるいは、先輩は僕たちの関係をそもそも知らないのかもしれない。情報官になってからも先輩の権限は高くなかったし、知れることには限界があった。組織が意図的に遠ざけていたなら、知らなくても不思議じゃない……」
黒髪の少年はひとりで考え込み、やがて小さくうなずいた。
「うん。完全に理解した」
「はあ、こっちはさっぱり理解できてないんだが。場所を変えて少し話さないか。コーヒーくらいなら奢る」
光はポケットから手を出し、手のひらを前に向けて掲げた。
「協力してほしい。当面は警視庁への報告も保留する」
だが男は再び首を振った。
「僕はただ、あなたを見に来た。Myosotis先輩が生きる理由にしていた人が、どんな人なのか。 もう見終わったから行く。これ以上関わると、あなたも僕も危ない」
「なぜだ」
「僕の次の任務対象が、あなただからです」
光は完全に言葉を失った。
「……なに?」
「文字どおりです。あなたはだいたい十九時三十分ごろに退勤し、警視庁から世田谷区のマンションへ車で帰る。
Myosotis先輩と接触するまでは、退勤後によく世田谷区内の住宅街を歩き回り、防音室付きの一戸建てにも何度も足を運んでいた。まだ話はまとまっていないみたいですね。
普段は夕食を取らず、月水金はジムに通う。たまに同僚と飲むこともある。
毎週水曜の二十二時三十分から五分ほど。あなたは決まってローテーブルの前でスマホを眺めている。SNSでも見ているんでしょう。この五分間が、狙撃には最適な時間帯です」
男はまったく抑揚のない口調で、光自身も意識していないような日々の習慣を、ひとつひとつ積み上げるように語った。
まるでストーカーの報告会だ。その屈託のない語り口に背筋が冷える。
だが光にはわかっていた。
こいつの言葉はこけおどしでも出鱈目でもない。
自分の行動は完全に把握されている。
それでも、まだ手を出していないのだ。
「……なぜ俺なんだ」
「さあ。あなたを殺せば、Myosotis先輩が戻る。そう考えた人がいたんでしょう。僕はそうは思わないけど」
男は無意識に肩へ手をやった。
だが、その手は空を撫でただけだった。
「あなたを殺したら、先輩はStyxと刺し違えるだけだろうから。だから僕も、ずっと手を出さずに見ていただけだった」
「ますます、君を見逃す理由がなくなったな」
「ありますよ。僕を見逃せば、少なくともあなたは生きていられる。
捕まえれば次が来る。そしてあなたを殺す。
Styxに殺し屋は掃いて捨てるほどいる。でも、Myosotis先輩に興味を持ったのは僕だけだ」
「おまえ、いったい音無と――」
男はただ黙っていた。
男の視線は光を通り越し、その背後へ向けられていた。
相変わらず、凪いだ目だった。
光は迂闊に振り向けない。わずかに身体の向きをずらし、目の前の男から意識を外さないまま視界の端で背後を探る。
黒い拳銃。
HKP9。
あの黒いヴァイオリンケースを背負い、HKP9を片手に構えていたのは――柊音無だった。
「こんばんは、先輩」
黒髪の少年は恭しく頭を下げる。
音無の指は自然にトリガーガードへ添えられていた。
おそらく光が、本気で銃を構えた音無を見るのは初めてだった。
いつもの穏やかさはなりを潜め、そこにはわずかな震えもためらいもない。
音無は静かに歩み寄る。一歩、また一歩。そのまま光の肩をかすめて前へ出ると、背にかばうように立った。
まるで嵐を受け止める山のようだった。




