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――大場譲治。
死因は狙撃。手口は九年前の父の殉職事件と酷似。事件現場は市街地。犯人、あるいはStyxは、明確に誰かへ向けて挑発している。ずいぶんと舐めたやり口だ。
公安がこのタイミングで介入してきた理由は二つ。一つは、法案可決を追い風に存在感を示すため。もう一つは、刑事側に何かあると踏んでいるから。
だが、その弱みが何なのかはわからない。
光は、その「弱み」という文字を丸で囲んだ。
刑事側に目を向ければ、少なくとも課長の態度は明らかだった。被害者周辺を洗えと言うくせに、話はいつも音無の動機へ戻っていく。
私怨から音無を疑っていると考えれば辻褄は合う。だが、光には課長がそんな感情論で動く人間には思えなかった。
……そして、もっとも重要なのは――柊音無。
柊音無、と書いたところで、ペン先が止まった。
ボールペンの先が紙に黒い染みを残した。暖色の灯りの下で、どこか輪郭の曖昧な染みのように見えた。
光は小さく首を振り、再び書き進める。
音無。Styxの殺し屋。コードネームはミョソティス。狙撃手であり、情報官でもある。
九年前、父を殺した。
もっとも、それは音無の本意ではなかった。任務のブリーフィングが何者かによって改ざんされていたからだ。
音無は任務を割り当てた情報官に真相を問い質しに行った。
その結果、
ボールペンが、また黒い点を落とした。
今度の点はさっきよりも濃く、インクが紙の裏へ滲みそうなほどだった。
光は深く息を吸い、その言葉を書きつける。
性的暴行を受けた。
見ているだけで、指先が冷えていくような文字だった。
光はその文字をじっと見つめた。見つめすぎて、やがてそれは意味を失い、ただの線の集まりにしか見えなくなる。
光は軽く頭を振った。
……性的暴行を受けた後、音無はその情報官を殺した。そして情報官になった――なるほど。
光は小さく頷く。
音無は、その情報官の後釜に据えられたのだろう。Styxのやり方としては、十分あり得る。
光はさらにペンを走らせた。
Styxの情報を追い始める。二十三歳頃から、光に手がかりを流し始めた。
そして二十五歳。大場譲治が死んだその夜、光の前に現れた。
そこまで書いたところで、光はふとあることに気づいた。
違う。
何かがおかしい。
視線は再び、「性的暴行を受けた」と書かれた箇所へ戻った。
――その瞬間、光は思い至る。
最初から、この話は自分が思っていたほど単純ではなかったのだ。
音無の任務情報は、誰かの手によって改ざんされていた。彼には犯行動機がない。何より、自分との関係を壊したくなかった。だからこそ、光には音無がこの件で嘘をついたとは思えなかった。
だとすれば――。
音無は本来、あの夜、別の誰かを殺すはずだった。
いや。むしろ問題はそこじゃない。
なぜ、よりによって父の名前だったのか。
標的の名前だけを書き換えれば済む話ではない。狙撃任務は、そんな単純なものじゃない。顔写真を確認して、それで標的を撃つ――そんな雑な手順で成立するはずがない。光のような素人にだって、その程度のことはわかる。
たしかに音無の射撃の腕は神がかっていた。だが、それだけで広い東京から父親を探し出せるわけじゃない。
当時の音無は、まだ十六歳の子どもだった。昼間は桜咲で、自分と並んで授業を受けていたのだ。
つまり、Styxは最初から親父の動向を把握していたことになる。
――あの夜、親父は最初から狙われていた。
だが、なぜだ。
Styxが親父を殺す必要なんて、どこにある。
親父がStyxの利益を損ねた。だから消された――そういう話ならまだ理解できる。だが、Styxは明らかにそういう連中じゃない。
Styxは映画に出てくるような、世界征服を企む悪の帝国じゃない。むしろ徹底して現実的な組織だ。利益になるなら動く。ならないなら動かない。彼らを突き動かしているのは、金と権力だ。
人殺しは目的じゃない。必要だから、その手段として人を殺す。
たとえ親父が本当にStyxの邪魔だったとしても、彼らならもっと手堅いやり方を選べたはずだ。
金で買収する。部下を何人か寝返らせる。あるいは息子を攫って、追っている線から手を引けと脅す。
そのどれもが、警視庁捜査一課長を狙撃するより、よほど合理的だ。
そんな真似をすれば、警視庁そのものを敵に回すことになる。実際、当時の捜査一課は、まさに蜂の巣をつついたようにこの事件を追っていた。マスコミが騒ぎ立てるまでもなく、総出でこの事件に食らいついた。
わざわざ警察の目を自分たちへ向けるようなことをして、Styxに何の得がある。
今後の活動を、自分たちでやりづらくするだけじゃないか。
まさか――。
この命令は組織としての判断じゃなく、誰かの私怨だったのか。
あの情報官は、親父を知っていたのか。
光はメモの文字を食い入るように見つめた。
いや、それだけじゃない。
Styxは、なぜ音無が情報官になることを認めたんだ。
音無の身に起きたことを、Styxが知らなかったはずがない。音無が組織にどれほどの憎悪を抱いていたかも、当然わかっていたはずだ。
組織の人間に騙され、そのうえ性的暴行を受けた。そんな人間に、どうして組織の情報網を触らせる?ましてや、情報官として中枢に置くなんて。
しかも、音無自身も言っていた。情報官になってからも、他の誰にもこなせない狙撃を任されることがあった、と。
あれほどのことがあった後でも、音無の狙撃能力は損なわれていなかったということだ。
だとすれば、それは内部での配置転換なんかじゃない。情報官への転向は、音無自身が望んだものだった。
だが、なぜStyxはそれを認めた?
なぜだ。
音無一人では何もできないと高を括っていたのか。だが、実際に音無はそれをやってのけた。組織の情報を外へ流し、自分の前に現れた。光には、Styxほどの組織が音無の能力を正しく評価できていなかったとは思えなかった。
あの情報官を殺したあと、音無の身にはきっと別の何かが起きている。
そして、それこそがStyxに「音無は決して裏切れない」と確信させた理由に違いない。
そうでなければ、すべてのつじつまが合わない。
それは一体何だったのか。
光は目を閉じた。必死に思い返す。昔の音無と今の音無の違いを。
穏やかで、自分に対しては頑ななほど敬語を崩さず、よくヴァイオリンを弾いていて、いつも大きなケースを背負っていた。
それから――。
いや、まだ何かあったはずだ。
――腕時計。
手首の……あの腕時計。
光は弾かれたように目を見開いた。
十六歳まで、音無が腕時計をしていた記憶なんてない。なのに今、彼の右手首には腕時計が巻かれている。
その下には、大きな傷痕が隠れていた。
拘束による裂創や挫創とは違う。あれは刃物でつけられた傷だ。あまりにも整いすぎている。誰かによって深く切られ、その後で縫合された痕。
白く盛り上がったその傷跡が、本物であることだけは疑いようがなかった。
「雨が降りそうですね」
「傷がかゆいので」
二丁目のあのゲイ風俗店で、音無はそう言っていた。
――あれは、この傷のことだったのか。
傷跡は、雨の前になるとかゆむことがあると聞いたことがある。光もそんな話を聞いたことがあった。
だとしたら、あの傷は、あの情報官から性暴力を受けていた最中につけられたものなのか。それとも、その後、苦しみのあまり自傷したのか。
あるいは、自殺を――。
……いや、違う。
あまりにも整いすぎている。取り乱した状態でつけられた傷には見えなかった。
だとすれば、あの傷の裏には、まだ自分の知らない何かがある。そして、それこそがStyxに音無の行動を黙認させている理由なのかもしれない。
光は考えを逃すまいと新しいページを開き、再びペン先を紙へ落としかけた、その瞬間――
視界の端に、何かが映った。
光は顔を上げた。
――いつの間にか、車の前に男が立っていた。
短く切り揃えられた黒髪。感情の読めない黒い目。
街灯の下に立ち、車の窓越しにこちらを見つめている。瞬きひとつしない。
闇に溶け込みながら獲物を窺う黒猫のようだった。




