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泉上光は、自分の車にひとり腰を下ろしていた。
もともと酒を飲むつもりはなかった。山葉正人にあんなことを言われては、酒など喉を通るはずもなかった。
差し込まれた鍵を見つめる。ぐっと右へひねれば、エンジンが目を覚ます。低く安定した振動がシート越しに伝わるたび、その確かな力に背を押されるような気がして、光の胸は少しだけ軽くなった。
まるで誰かが背中をぽんと叩き、「大丈夫。前を向けばいい」と声をかけてくれているようだった。
光は運転が好きだった。ハンドルを握り、車を走らせる時間そのものが心地いい。
それに、この車は父の形見でもあった。
記憶をたどれば、いくつか路地を曲がり、長い坂をのぼった先に、二本の電柱が並ぶ、どこにでもあるような一軒家があった。
濃紺の屋根に白っぽい外壁。門の前には茶色く塗られた柵があり、その脇には車庫がある。コンパクトなSUVが一台停まっていた。泉上一の車だった。
光と違って、泉上一はあまり車で通勤しなかった。学校から帰ると、いつもトヨタのSUVは茜色の夕陽にやわらかく包まれ、黒い犬が車庫で眠っているようだった。
光は子どもの頃、不思議でならなかった。
たった二人の家族なのに、どうしてSUVなんて買ったんだろう、と。
けれど、後になってようやく気づいた。この家が最初から父子二人だったわけじゃないことに。母さんが欲しいと言った車だったのかもしれない。
でも、母さんはもういない。
それ以来、車はほとんど動かされることもなく、トランクはいつしか、物を詰め込むだけの小さな倉庫になっていた。
積みっぱなしのテントやカセットコンロ、折りたたみ椅子。
まるで、永遠に開かれないタイムカプセルだった。
それを開ける人は、もういない。
情けない話だけれど、初めて警察の制服に腕を通したときも、初めて段ボールを抱えて捜査一課の扉をくぐった日も、こっそりあの車に乗り込み、しばらく座っていた。
誰とでもすぐ打ち解けるくせに、自分のことを誇らしげに語るような男ではなかった。もし音無がまだそばにいてくれたなら、きっと事件を解決するたびに矢継ぎ早にメッセージを送りつけて、調子に乗って散々自慢したのだろう。
でも、音無はいなかった。わざわざ口にすることもなくなった。
行き場のない思いを預けられる場所は、このSUVしかなかった。
ここに座っていれば、一人前になった自分の姿を見ていてくれるかもしれない。
キーをひねるたびに、親父がぽんと背中を叩いてくれるような気がした。
でも、そんなことはなかった。親父は一度だって、光の夢に出てきたことはなかった。
親父は生前、誰よりも真面目な警察官だったから、死んですぐに成仏したのだろう、わざわざ自分に会いにくることもない。昔は、そんなふうに自分を納得させていた。
――親父から受け継いだ車、親父から受け継いだ職業。
もっとも、最初から警察になるつもりだったわけじゃない。少なくとも十六歳の頃の光は、NBAスターだのリンキン・パークのボーカルだのと言っていたかと思えば、今度はレオナルド・ディカプリオに心酔し、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』にかぶれて、自分もウォール街の狼になれる気でいた。そして音無に、「東京中の防音室付きの一戸建て、全部買ってやるくらい稼ぐからな」などと大風呂敷を広げていたものだ。
あの頃の音無は、期待というより、戸惑いと苦笑の入り混じった表情を浮かべていた。
そんなのは、どこにでもある少年同士の与太話だった。少なくとも、あの頃は誰も本気にはしなかった。
少年の頃に口にしていた夢なんてものは、思い出すだけで胸の奥がむず痒くなる。ふと夢を思いつけば、布団を蹴飛ばして窓を開け、星空に向かって叫びたくなる。
そんな夢は、春の桜や夏の花火みたいに、目いっぱい輝いて、そしてあっという間に消えてしまう。
あれこれ夢を見たけれど、それでも光は一度も警察官になりたいと思ったことはなかった。
警察に憧れたことはなかった。物心ついた頃から、身近にいくらでもいたからだ。
書類と残業に埋もれ、子供の進路の話すらろくに覚えていないような、ごく普通の大人たち。
光は、そんな大人にはなりたくなかった。
……気がつけば、光もスーツに身を包み、見ず知らずの被害者のために駆け回っていた。
平然と嘘をつく被害者。涙ながらに訴える加害者。
父親を亡くすまで、毎日こんなにも多くの人が生まれ、生き、そして死んでいくのだとは考えたこともなかった。
警察官として真実を追うこと。それはいつしか人生の一部になった。気づけば人生を飲み込み、最後には人生そのものになっていた。
運転席に座ったまま、光はそんなことを考えていた。
車内の灯りはつけていない。ポケットからスマホを取り出し、連絡先の一覧を開く。明るくなった画面が、ぼんやりと彼の顔を映し出した。
親指を滑らせ、画面を上へ、下へ。そうして指先は、「音無」の名前の上でしばらく止まった。
音無。
画面に表示されたその名前だけは、九年前と何ひとつ変わっていなかった。
深く息を吸って、スマホの画面を消してポケットにしまった。
音無が今、何をしているのかはわからない。公安情報部が何をしているのかもわからない。それでも、大場譲治の事件を徹底的に洗い直すなら、どうしても音無から当たるしかない。
調査が進み、今夜山葉課長と話したことで——刑事局は、音無を早急にクロとして固めたがっている。
少なくとも、さっき山葉課長が口にした言葉は、音無を主犯として見ろ、と言わんばかりだった。
そして、捜査の過程で自分の前に現れた、音無にやけに似たTrigonotis。あれも偶然のはずがない。
すべてが、音無の関与を示していた。主犯か、あるいは教唆犯、間接正犯か。
その可能性を、光も考えなかったわけではない。山葉課長が示した見方を否定するつもりもなかった。
音無は前科のある殺し屋だ。
警察官になってから、光が骨身にしみて覚えたことがある――犯罪者の口にする「本当のこと」なんて、絶対に信じるな。
人間なんてものは、生きていくためならどんな嘘だってつける生き物だ。人を殺したことのある人間なら、なおさらだ。
だが、話はそんな単純なものじゃない気がしてならなかった。
刑事局が躍起になって、あらゆる手がかりを音無へと結びつけようとする一方で、公安はあの手この手で音無を守ろうとしている。
顧問という肩書きを与え、そのうえ自分と組ませてまで捜査に関わらせた。
こいつは使える。この事件には必要な人間だ。お前たちの考えくらい、お見通しだ。
――あの態度はほとんど、こう言っているようなものだった。
公安が普段何をしているのか詳しくは知らない。だが、情報を扱うことにかけては、あの連中の右に出る者はいない。光にもわかっていた。
本命を釣り上げるためなら何年でも待つ。特にStyxのような、テロや組織犯罪相手なら、彼らに何の思惑もないはずがない。
しかも井上翔太は、隠そうともせず告げた。
――警視庁内部には、Styxの内通者がいる。
公安は刑事局の何を暴こうとしているのか。
刑事局は音無を捕まえ、一刻も早く事件を終わらせたがっている。公安は音無を守ろうとしている。おそらく、その先に別の誰かを見据えているからだ。
そして音無は――光を信じることを選んだ。
だからこそ、光は誰かの描いた筋書きに乗るつもりはない。
真実は、自分の手で掴む。
光はスマホを脇に置き、車内から紙とペンを取り出した。
車内灯をつける。暖かな黄色い光がメモ帳を照らす。
光はペン先を走らせた。
――大場譲治。




