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Myosotis 〜 過去は、まだ引き金を握っている 〜  作者: Bpch


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暖簾をくぐると、風鈴がちりんと鳴り、浅葱色の短冊がひらりと翻る。揚げ物と日本酒の香りは、尺八の哀調に紛れながら庭へと漂っていった。和紙越しの灯りに竹の骨組みがぼんやりと浮かび、卓上の料理を柔らかく照らしている。徳利が二本に漬物が数皿、天ぷらの盛り合わせに、焼き秋刀魚と大根おろし。


髷を結った仲居は盆を手に膝をついたまま頭を下げ、音もなく下がっていった。あとは部屋の隅で顔立ちの判然としない女中がひとり、闇に溶け込むように俯きながら、無造作に三味線を爪弾いているだけだった。


泉上光は、こういう店の空気がどうにも性に合わなかった。だが、大人になってから山葉と顔を合わせるときは、決まってこの手の店ばかりだ。本当に懐かしく思うのは、もっと幼かった頃だった。あの頃の山葉はまだ父の部下で、父が残業や出張で家を空けるたび、父への義理だったのか、それとも東京で子どもをひとり家に残しておくのはさすがに気が咎めたのか、とにかく山葉は自分から名乗り出て、光をファミレスに連れて行ってくれた。


当時の山葉は、うつむいたまま携帯ばかりいじっていて、幼い光はそんな山葉に向かって、とんでもないことを言ったものだ。


「うわっ、髪、薄っ!」


よく今まで無事に生きてこられたものだと、我ながら思う。そう思った途端、山葉の頭のてっぺんに視線をやってしまった。もう大人になった今では、わざわざ背筋を伸ばさなくても、山葉のますます寂しくなったつむじが見える。数本の細い毛が頭皮にしがみつくように残っていて、今にも風に攫われそうで見ているこちらがハラハラする。


そんな罰当たりなことを考えていた矢先、山葉が口を開いた。


「最近、どうだ」


「まあ、おかげさまで。仕事は順調です。現場でもいろいろ勉強させていただいています」


光の受け答えに隙はなかった。


「今後のことは、もう決めたのか」


やっぱりその話か。光は胸の内でため息をついた。


父が亡くなってからというもの、山葉は父親代わりというほどではないにせよ、どこかそれに近い存在だった。交わす言葉は通り一遍でも、ときに妙なくらい核心を突いてくるのだ。


ふと、小林に言われた言葉が蘇る——「そろそろ将来のことを一緒に考えてくれる相手でも探したらどうだ」——自分はそんなに頼りなく見えるのだろうか。もっとも、「どう見てもキャリア組には見えない」と言われたこともある。


「少なくとも今は、まだ現場にいたいと思っています。この先、捜査一課に残れなくなったとしても……」


「……師匠のことがあるからか」


「……はい」


三味線の音は、いつの間にかやんでいた。仲居も女中もとうに下がり、今はもう山葉と光だけだった。


回廊の下では浅い流れが朱塗りの小橋をくぐり、白石を敷き詰めた池へと注いでいた。


鹿威しが乾いた音を立てる。池に映った月影が、わずかに揺れた。


「……犯人の目星は、もうついているんだろう」


「ああ……」


「その程度のことは、俺にだってわかる。だが、あいつを好き勝手にのさばらせておくわけにはいかん。公安は一体、何を考えている……!」


山葉正人の声には、抑えきれない怒気が滲んでいた。


光は返す言葉を失った。


隠しているつもりはなかった。ただ、山葉が音無についてどこまで知っているのか、それがわからない。

音無は殺し屋でありながら、いまだ野放しどころか公安の顧問にまで収まっている。

山葉が腹を立てるのも当然だったし、光自身も気持ちは山葉の側にあった。


それでも、光は音無という男に興味を抱いていた。

あの男が、この事件のどこまで辿り着けるのか、どこまで暴けるのか。この目で見てみたかった。


光は曖昧に頷いた。


だが、その胸中は別のところにあった。


「……大場の件は、どうなっている」


これ以上聞き出せないと判断したのだろう。山葉は話を本筋へ戻した。

ようやく光の領分だった。


「被害者の人間関係については、一通り洗っています。表向きの交友関係ははっきりしていますし、仕事関係でも特に不審な点はありません。目立って恨みを買っていた様子もありませんし、多額の借金も出てきませんでした。ですが……」


「ですが?」


「……経歴がきれいすぎるんです。警備会社に入る前の職歴が作られたように整いすぎている。検証の難しい海外の小さな会社を転々としていたことになっていますが、確認できた会社もすでに登記が抹消されていました。逆に、警備会社に入ってからの経歴だけが、やけに目立つんです」


山葉は驚いた様子もなかった。


「それだけなら、さほどおかしくはない。その規模の警備会社の社長なら、多少手を尽くして過去を整理していても不思議じゃない。自衛隊あがりや、海外のPMC経験者だって、この業界じゃ珍しくないからな」


そう言って、山葉は光へ目を向けた。


「小林から聞いている。資金の流れも追ったんだろう。表向きは問題ないが、海外送金に不審な動きがあったとか。行き先もはっきりしないそうだな」


「はい。受取先は何枚もペーパーを噛ませていて、最後の受益者まではまだ追えていません。ただ、すでに公安にも協力を仰いでいます」


「ふん……今どきは、そっちが主戦場ってわけか」


山葉はお茶を一口すすったが、その声に感情らしいものは乗っていなかった。


光は、昨日小林に聞かされた話を思い出す。あの法案が通ってから、刑事部と公安のあいだでは微妙な綱引きが続いているという。


あのときは、せいぜい噂話のひとつとして聞き流していた。山葉の顔を見ていると、それも本当なのだろうと思えた。


「……ただ、課長。今日、改めて映像を見直してみたんですが、大場の実際の警備中の様子を見る限り、訓練を積んだ人間特有の動きがないんです。それに、決められた手順に従うより、その場の判断を優先するように見えました。軍人というより、現場で身につけた人間の動きというか。もしくは、どちらかといえば……」


山葉の眉尻がぴくりと動いた。


「――根拠は」


「……人を動かすときも、考えをまとめるときも、まずホワイトボードに落とし込むタイプだったんです。人の配置を整理したり、事実関係を時系列で組み立てたり。関係者の話だけじゃありません。社内の映像にも残っていました。時間軸で人間関係を整理して、『確認済み』『未確認』を分けて書いていて、その手つきがあまりにも手慣れていて…いや、その……」


山葉は何も言わなかった。

それがかえって、光には続きを言いづらかった。


「ホワイトボードを使うのは警察だけか」

「『確認済み』『未確認』なんて言葉は警察の専売特許か」

「それで『元警察に違いない』って話になるのか」


――そんなところだろう。


もし今もファミレスで向かい合っていたなら、とっくに山葉に一喝されていたに違いない。だが、この場で怒鳴るわけにもいかない。


もっとも、怒りを飲み込んでいるのは、光には嫌というほど伝わってきた。ひとまず話を切り替えた。


「……もうひとつ。大場は、何らかの犯罪組織と接点を持っていた可能性があります。こちらはまだ調査中ですが、次回の合同捜査会議で改めて報告します」


山葉は深くため息をついた。


「何らかの組織――柊音無のいる、あの組織のことか」


「――……」


光は言葉に詰まった。


予想はしていた。


それでも、山葉の口からその名が出た瞬間、返事が遅れた。


だが、山葉はすぐに視線を外し、再び窓の外へ目を向けた。


「Styxだな。元は東南アジアに巣食う、三流の犯罪組織だった。麻薬で足場を築いたものの、勢力を広げるほどの器でもなかった。密輸や密航で食いつなぎ、規模も小さい。統制も取れていない。少なくとも二十年前は、東アジアの捜査線上に上がることもなかった」


山葉は腕を組み、細めた目で満月を見据えていた。


「ところが、その後だ。おそらく二〇〇五年あたりから、組織そのものが、見えない手によって作り替えられたようだった。


無駄が削ぎ落とされ、統制の取れた動きをするようになり、勢力は一気に膨れ上がった。日本にまで勢力を伸ばし、東アジア全域へと広がって、ついには俺たちの前に姿を現した――しかも、いっちょまえの看板まで掲げてな。


政財界に食い込み、庇護と資源を手に入れ、挙げ句の果てには、柊音無みたいな化け物まで作り出した」


山葉は、そこで言葉を切った。


再び向けられた視線は重かった。


「――そして、当時捜査一課長だったお前の父親は、そいつの放った銃弾に倒れた」


光は目を伏せた。


山葉はそんな光をしばらく見つめ、やがて深く息を吐いた。


「俺は、大場がStyxに資金を流していたかどうかなんて、どうでもいい。何のためだったかも知ったことじゃない。あいつが何者だったのかも、今はどうだっていい。


俺が知りたいのは――誰が大場を殺ったのか。それだけだ」


「……もし大場がStyxの人間だったのであれば、今回の件は組織内部の粛清だった可能性が高いと思います。この線でさらに追っていけば――」


「柊音無が殺った可能性は」


「……え?」


「――あるのか、ないのか」


「……少なくとも時間的には、柊が直接手を下した可能性はきわめて低いです。事件当夜、柊は終始、私と行動を共にしていました。その後も現場に同行しています。犯行時間は一切ありません」


「なるほど。見事なアリバイだな。だから公安か。」


山葉は小さく頷いた。


光は頭皮が粟立つのを感じた。これ以上この話を続けるのはまずい。


「…ですから、少なくとも……柊本人が直接関わった可能性は低いと思います。これからは別の可能性――Styx内部の粛清や、大場と利害関係のあった別の組織に捜査の重点を――」


「――だが、もし殺ったのが柊音無なら、この事件の不可解な点はすべて説明がつく。現場処理が完璧だったことも、手口が酷似していることも、お前の言う粛清という線もな。全部、ひとつに繋がる」


山葉は、光の言葉を遮った。


「光、お前はひとつ、どうしても考えようとしないことがある。人を殺すのに、必ずしも自分で手を下す必要はない。柊音無がStyxを出る前に、誰に何を残してきたのか――どうして、お前にそれがないと言い切れる」


「――柊音無の奴は、なぜ真っ先に公安に身を寄せた。本当に、抜けたと思うか」

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