20
ふたりは人気のない場所を見つけた。
泉上光は、カルピスを両手で大事そうに持って、少し後ろを歩く柊音無を見ていた。
その用心深さと距離の取りかたは、十四歳のころとほとんど変わっていない。
「……悪かった」
「今朝のこと、本当にすみませんでした」
謝罪の言葉は、ほとんど同時だった。
一瞬きょとんとした音無に、光が「……おまえからでいい」と顎をしゃくる。
「…朝の件、本当にすみませんでした。ご迷惑をおかけしてしまって……」
「ああ、あれはおまえのせいじゃない。そもそもあれは井上先輩もちょっとやりすぎだった。とにかく気にするな。実際、ほとんど吐いてなかったし、ちょっと大事になっただけだ。
店員にもちゃんと謝ってある。とりあえず飲んどけ。腹に何か入れとかないと」
「朝、卵焼きひとつだけで済んでてよかったです」
「そういう問題じゃねえだろ……」
音無は手にしたカルピスに目を落とした。
「でも、光さんが謝るようなこと、ありましたっけ」
「昨日、松屋で。あんな言い方をした」
光は髪をかきながら西の空を見上げた。
夕焼けを睨みつけるような顔で、到底謝っているようには見えなかった。
音無はしばらくぽかんとしていたが、「ああ……」とようやく声を漏らした。本気であのことを忘れていたらしい。
苦笑まじりにカルピスを持ち上げ、軽く振ってみせる。
「これ、詫びのつもりですか?」
「そう思うなら、それでいい」
「十四のころと同じですね」
「どこが同じなもんか。全然ちがう」
音無は小さく笑い、光と並んで西の空に目をやった。
「今夜戻らないつもりなのは、光さんが松屋であんなことをおっしゃったからじゃありません。これから、大場の警備会社の海外口座や不審な資金の流れを追うつもりなんです。それも本業のひとつですから」
「おまえ、スナイパーじゃなかったのか。なんでそんな知識があるんだ」
「あの事件のあと、僕はスナイパーをやめました。とはいえ、他の人じゃ処理できない仕事を回されることはあります。Styxでやっていくには、表向きの仕事も必要だったんです」
「親父が殺された、あの事件のあとか」
音無は答えなかった。
また、意味もなく結露を指先で押していた。
なぞるうちに、水滴はひとつの大きな雫になった。
それを拭おうとした瞬間、涙のようにすべり落ちる。
親指の付け根を伝い、腕時計の下へ潜り込もうとして、そこへたどり着く前に、いつの間にか消えていた。
「……音無」
「はい」
「……どうしておまえは、俺が聞くのを待ってばかりで、自分からはなにも話そうとしないんだ?」
音無は濡れた指でもみあげのあたりをこすった。整っていた黒髪が数本、わずかに跳ねる。
「資格がないからって言いたかったんですけど……たぶん、勇気がなかったんだと思います」
「勇気?」
音無は指を止め、まっすぐ光を見た。
夕陽が、その瞳に落ちている。
彼は一語一語、区切るように口を開いた。
「あの一発は、光さんのお父さんだけじゃなくて、過去を見ようともしなかった僕自身も撃ち抜いたんだと思います」
「……」
「だって、光さんがお父さんを亡くされたあの年、僕もまた十六歳でした。恋人の父親を殺して、恋人を失って、そのすべての元凶だった人間に、もっと深い地獄へ突き落とされた。
……それを口にしてしまったら、自分のことまで可哀想な人間だと思ってしまいそうになるんです」
光の目をじっと見つめる音無の瞳に、涙がにじんだような気がした。
だが、それは錯覚だった。音無の目は、声よりもずっと乾いている。
「そんなことを考える時点で、僕は十分ろくでもない人間なんです。刃物を振るった側が、自分を哀れむ道理なんてない」
光はしばらく黙っていた。
それから、ようやく腹をくくったように、その問いを口にする。
「あの首輪……あれは、おまえのものだったのか?」
音無は長く息を吐いた。
「……よく覚えていないんです。……ああいう状況だと、僕は……っ、すみません。少しだけ……」
カルピスに口をつけ、何度か深く息を吸っては吐く。
胸元にそっと手を当てる。その仕草は、乱れかけた鼓動を鎮めようとしているようだった。
「…あのとき、あいつに直談判しに行きました。
僕のブリーフィングを改ざんして、光さんのお父さんを殺させた、あいつです。
でも、熱があって、頭もぐちゃぐちゃで……返り討ちに遭って」
「……」
「縛られて、もう抵抗もできなくなっていたんです。僕は意識を失いかけていたのに、そいつが僕の、このあたりを……」
言いながら、音無は鉄のかたまりでも飲み込むように、カルピスをもうひと口、無理やり飲み下した。
人差し指が、電子首輪の下――喉仏のすぐ脇をそっとなぞる。
「……ここを噛んで、無理やり意識を引き戻そうとした。気絶した玩具じゃ、少しも面白くないですから。
そういう状況で、自分がどんな色で、どんな形の首輪をつけられていたのかなんて、気にする余裕はありませんでした。
ただ、自分の魂だけが体を離れて、天井のどこかの隅に張りついていたような感覚だけは覚えています。全部見えているはずなのに、なにもはっきりとは見えなくて……」
「……じゃあ、首輪についていた血は、おまえのか」
「おそらく。喉仏の下を深く噛まれましたから。光さんも、今日触れたでしょう。けっこう深かったんです。いまでもそこに、小さな傷痕が残っています」
「でも、その男は大場譲治じゃないんだな」
「もちろん大場譲治ではありません。それくらいのことは、さすがに僕も覚えています。けれど、だからこそ大場がStyxの人間だった可能性は、むしろ強くなったんです。
結局、あの首輪は大場の手元に戻ってきているわけでしょう?
これが、僕が今日どうしても残って、あの警備会社の海外口座を洗い直すと言い張った理由です。もし大場がそいつとつながっているなら、僕にも心当たりがあります。ただ、まだ検証は必要ですけど」
それきり、ふたりのあいだに沈黙が落ちた。
「……で、おまえを傷つけたその男は、いったい誰なんだ」
その問いに、音無はふっと笑ってしまった。
信じられないことでも聞かされたみたいに、静かに光へ目を向けた。
「仇でも討ってくれるつもりですか。そんな怖いこと言って。
そいつに関しては、もう自分で決着はつけました。
結果として、光さんのお父さんの仇も半分くらいは、僕がとったことになるんでしょうけど。任務計画書を改ざんしたのはそいつなんです。」
「もし、あいつに任務計画書を改ざんされていなかったら……僕はたぶん、今でも何も分かっていなかったんでしょうね。僕はきっと、誰かの大切な人を殺した次の日にも、何事もなかったみたいにヴァイオリンケースを背負って桜咲に行って、『昨日の続き、しませんか』なんて笑っていたと思います。それがどれだけ残酷なことなのかも、知らないまま」
……それはそれで、駄目なんだけどな。
そう思ったとき、スマホのアラームが鳴った。
山葉課長との約束の時間が迫っている。光はもう動かなければならなかった。
「今夜は、お約束でも?」
「ああ。ちょっとな」
光がぼそりと答える。
「そうですか。じゃあ、僕は戻ります」
音無はそれ以上追及しようとはせず、手にしたカルピスを軽く示した。
「カルピス、ありがとうございました。おいしかったです」
「……音無」
「はい」
「俺は……だからって、おまえを許すつもりはない。同情してるわけでもない。
でも、おまえがあんな目に遭ってよかったなんて、俺には思えない。 あんなこと誰にだって起きていいもんじゃない」
光はうつむきがちに言って、一度言葉を切った。
「万引きでも殺人でも、事情ってもんはあるんだろう。でも、強姦だけは俺にはそう思えない。だからといって、おまえをかばうつもりもない。」
光はスマホのアラームを止めると、背中越しにひらりと手を振った。
「……だからさ。まだ言いたいことがあるなら、直接俺に言え。聞いたうえで判断するだけだ。……まあ、そんなところだ」
そのまま振り返ることなく、歩き去っていく。
音無はその場に残ったまま、光の背中を見つめた。
夕陽に長く伸びた、その影を。
やがて、こらえきれずに笑みがこぼれる。
あの人は、きっと今、自分ですごく格好いいことを言ったつもりなんだろう。
でも、あれはたぶん、またどこかで仕入れてきたんだろう。
中学のころから、こういうところは変わらない。
そう思いながら、音無は手にしたカルピスを軽く揺らした。
再びビルへ向かって歩き出す。
足取りは決して軽くはなかった。
ずっと張りつめていた肩の力だけは、ほんの少しだけ抜けた気がした。




