19
二人が洗面所から出てきた。
柊音無の顔色はなお青白かったが、乱れていた呼吸は次第に整い、体の痙攣もゆっくりと収まっていった。
車で少し休むかと、井上翔太は柊音無に声をかけた。
要するに、この先の話に音無を同席させるつもりはないのだろう。
音無は光に目をやった。なにか言いたげだったが、結局、黙って頷いた。
喫茶店のドアを引き、外のむっとした熱気に触れた途端、音無は小さく身を震わせた。
間もなく迎えがやって来た。数人の男たちが見守るようにして、音無は車へと乗り込んだ。
ただ、喫茶店の犬はこの場の騒ぎなどどうでもいいらしい。
身じろぎすると、気持ちよさそうに、ふうとひとつ息をつく。
首輪の金属プレートだけが、これ見よがしに日差しを弾いて金色に光っていた。
「……おまえなあ、さっき大事な証拠品を持ったまま洗面所に駆け込んだだろ。俺がおまえを信用してなかったら、何するつもりだって疑ってたぞ」
そう言って、井上は光のポケットを顎で示した。
「で? あれを見せて、あいつのものかって聞くつもりだったのか」
「……」
光は言葉に詰まった。
自分でもさっきの行動は軽率だったと思って、無意識に髪をかき上げる。
だが、べつに深い考えがあったわけじゃない。ただ咄嗟に、重要な証拠品を確保しようとしただけだ。
むしろ、音無の身に起きたことには、井上よりも先にうすうす気づいていた。
朝には、いや、もっと前。松屋にいた頃から、そんな予感はあったのだ。
けれど、いちばん引っかかっていたのは、この首輪のことだった。
井上はすでに、これが大場が音無につけていたものだと決めつけていた。
だが光はそうは思わなかった。
昔の恋人の過去を、そんなふうに受け止めたくないから――そういう話でもない。
理由はわからない。ただ、どうしてもそう思えなかったのだ。
「……あれは演技じゃなかったんだろうな」
光はぽつりとつぶやいた。
「さあな。万引きだろうが殺しだろうが、事情ってもんはあるんだろうさ。
でも強姦だけは別だ。 あれだけは、俺は事情を聞く気になれねえ」
井上にしては珍しく、妙に重いひと言だった。
自分でも柄じゃないと思ったのか、眼鏡を押し上げると、すぐにいつもの平坦な声に戻る。
「話を事件に戻そう。こっちで集めた情報も、おまえに共有しておく」
井上と首輪の情報をすり合わせたあとは、新宿署の同僚と捜査を進めた。
以前の会議で顔を合わせたことのある相手だったこともあり、捜査は驚くほどスムーズだった。
いつもどおり、無駄のない午前だったとも言える。
昨夜の拳銃を持った男の取り調べに立ち会うことは許されなかったが、一方で大場の交友関係はしだいに輪郭をあらわにしてきた。
要するに、拍子抜けするほど単純だった。
警備会社に勤める前の経歴は、高校、大学、就職に至るまで、経歴は拍子抜けするほど真っ白だった。
交友関係も驚くほど狭く、二丁目のTrigonotisに遊びに行く以外、これといった娯楽もないらしい。
仕事に没頭し、性癖が少しばかり変わっているだけの、ごく平凡な中年男。
少なくとも、資料から受ける印象はそんなものだった。
唯一引っかかったのは、この男が自分と同じ高校の出身だということだ。
言ってしまえば、ただの先輩だった。
「やっぱりこの事件は、警備会社の資金の流れと現場分析のほうから攻めるべきじゃないっすかね。こっちで上がる証拠なんて、たかが知れてますし。まさか被害者の友だちが実は狙撃手でした、なんて展開にもならんでしょうし。
とはいえ、あの規模の警備会社なら、狙撃手のひとりやふたり知ってても驚きませんけどね」
同乗していた警官がハンドルを握りながら、冗談まじりに光へ話しかけた。
光は、一日かけて整理した資料をめくりながら黙っている。
その意見には賛同しかねた。だが、妙に引っかかるものはあった。
――主任が自分を、事件の核心から遠ざけようとしている。
その判断に不満があるわけじゃない。捜査とは、全員が現場に張りついて防犯カメラの映像ばかり洗っていればいいものでもないし、被害者の社会関係を洗うことも事件解決には欠かせない重要な一環だ。
それよりも気になるのは、取り調べに立ち会うその直前に、山葉課長に呼び出されて「話」をしたことだった。
今になって思い返すと、あのタイミングはどうにも引っかかった。
話といっても、光は音無の扱いについてなにか言われるのだろうと思っていた。
ところが山葉は、ごく事務的に事件の進捗をいくつか尋ねただけで、今後のことをどう考えているのか――このまま現場に残るのか、それとも別の道に進むのか――そんな話をしただけだった。
最後に「今夜、久々に飯でもどうだ」と付け加え、そのまま解放された。
肩透かしもいいところで、むしろ、わざと本題を避けられたような気さえした。
気にしすぎだろうか。
車はひとつ大きくカーブを描き、宙ぶらりんの疑問を抱えたまま警視庁へ向かった。
警視庁に戻ると、小林班で短い打ち合わせがあった。
事件そのものは着実に前へ進んではいる。
だが、以前の会議で話に上がった海外口座と不審な資金の流れについては、サイバー分野が絡むせいか、肝心のところでそれ以上ろくな手がかりは得られなかった。
むしろ分析は公安へと引き継がれていた。
そして、あの男の取り調べについては、ひと言も触れられなかった。
小林が浮かない顔で解散を告げたとき、時刻はすでに退勤間際だった。
光は頭のなかで音無の段取りを考えていた。いくらか金を渡して電車で帰らせるか、いっそ車で送ってしまうか。そんなことを考えていたところへ、井上から電話が入った。
「柊、今夜はこっちに泊まるそうだ」
なんだそれ、いじけたガキかよ。そういうことは本人が俺に言えばいいだろう。
光は顔をごしごしこすった。松屋で音無に言ったことを思い出し、さらにごしごしとこする。
電話を切ると、今度は音無にかけ直した。
コール音が長く続いたあと、ようやく意を決したように応答があった。
「……もしもし」
「ちょっと会えないか。すぐ終わる」
「……わかりました」
通話を切り、光はスマホの画面に目を落とした。山葉課長との約束の時間までは、まだ余裕がある。
小林に声をかけ、自販機をひととおり眺めた末、カルピスのボタンを押した。
音無はすでに入り口で待っていた。
光はなにも言わず、カルピスを軽く投げ渡した。




