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Myosotis 〜 過去は、まだ引き金を握っている 〜  作者: Bpch


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19/31

Side Myosotis 1

「君を愛せないなら、世界も愛せない」――


もしこんなセリフが青春恋愛小説に出てきたなら、きっと星空の下で涙を流しながら、主人公たちが想いを打ち明ける場面なのだろう。


けれど柊音無にとって、それは覆しようのない真実だった。


世界を恨んではいないし、もちろん愛してもいない。


ワゴン車に詰め込まれる前、柊音無の世界にはまだ色があったのかもしれない。


五歳のころには、甘えることだってあった。膝の皮を少し擦りむいただけで母の腕の中でいつまでも泣きじゃくったくせに、一人になるとズボンをぱんぱんと払って立ち上がり、すぐに次の遊びへ向かっていた。


幼稚園の運動会が楽しみすぎて、当日に高熱を出したこともある。苦い煎じ薬を飲みながら、その中には八咫烏の羽根が紛れているのかもしれないと本気で信じていた。


五歳までの世界が、何もかもを受け入れてくれるやわらかな「白」だったとするなら、五歳から先の時間は、白でも黒でもない「灰色」だった。


五月雨に濡れた朝顔の深紫をいっそう鮮やかに見せる灰色ではない。父の楽譜の音符の脇に残る鉛色でもない。


それは訓練場の壁のコンクリートの灰色であり、死後硬直で徐々に強張っていく死体を思わせる灰色、薬物投与が終わるたびに無影灯の残像が網膜に焼きつき、紫紅から淡い黄を経て最後に沈んでいく、息の詰まるような灰色だった。


白と黒とは、何が正しく何が間違っているのかを測るための基準だ。そしてその基準は、社会の秩序によって定められる。


けれど五歳を過ぎた音無の世界に、白も黒もなかった。


Styxそのものが基準であり、秩序だったからだ。


八歳で薬物投与が始まり、九歳で訓練が始まった。三十五歳、それが彼らに想定された廃棄年齢だった。


だが、そんな先のことを考える者はいない。そこまで生き延びられずに死ぬ者など、いくらでもいた。

どの子供もただ、生き抜くことに必死だった。





Styxの競争は、訓練場の的だけで終わるものではなかった。

薬物も、食料も、すべてが奪い合いの対象だった。


「それをちゃんと食べるか、それとも僕がお前の下を潰して口に詰め込むか。好きな方を選べばいい」


そんな言葉だって平然と口にした。


小柄な少年は、誰かに細工された食事を、いつも自分を見張っている相手の前へ置く。口調も態度も、むしろ穏やかなくらいだった。


人のよさそうな顔、そのうえ「勿忘草」というコードネームまで持っている。

誰が見ても、好きなように丸めてしまえそうな人間に見えるだろう。


だが、その印象が当てにならないことを知っているのは、柊音無だけだった。


愛も、同情も、善意も。それらは甘く優しい幻想だった。五歳の終わりの夕暮れ、夕陽とともに地平の向こうへ沈み、二度と手の届かなくなったものだ。


太陽は消え、コバルトブルーの永夜だけが残った。


世界とは、命という紙の上にボールペンで引かれた一本の線だった。その両端には訓練場と執行地がある。


彼は何度もその端から端へと往復した。


いつかは紙が擦り切れ、ペン先に破られる日が来るのだろう。

けれど、その先のことなどどうでもよかった。


生きることは呼吸のため。呼吸は訓練のため。訓練は人を殺すため。

もっともらしい理屈に見えて、その実、秩序と薬物に支配された慣性にすぎない。


その妙な名前も、いつか手術台の上で自分が空想したものではないかと、ふと思うことがある。誰かに「おとなしくしろ、暴れるな」と言われ続けて、それで自分の名前は音無なのだと思い込んだのかもしれない。


だが、世界のだれも彼が何者かなど気にしない。彼はMyosotisだった。


五歳でStyxに連れてこられ、八歳で薬物投与を受けた。九歳で訓練が始まり、十三歳で初めて実戦任務に出る。


そして十四歳で、S級にまで駆け上がった。


その頃にはもう、彼は鋭利な武器だった。

冷たい銃と、何ひとつ変わらない。


S級となった少年は、二つの権限を与えられた。一つは、自分に適した専用武器を選べること。もう一つは、社会適応訓練を受ける資格を得ることだった。


S級がその資格を得ること自体は珍しくない。だが、十四歳でS級に達する者は少ない。まして十四歳で外に出される者となれば、なおさらだった。



◇♪2014年(平成26年)春 泉上光(14)柊音無(14)



十四歳で初めて山吹に来た。中学二年の最初の授業は音楽だった。

教室の最前列に座り、背筋をぴんと伸ばす。StyxでPSSC学習を受けていた頃と、何ひとつ変わらない。

音楽鑑賞の授業だった。曲目はヤニーの『ナイチンゲール』。

主奏ヴァイオリニストの弓が躍り、透き通る笛の音がそれに応えるように重なり。紫禁城に囚われた皇帝と、自由に空を行き来する夜鶯。

その魂の対話を語る曲だった。


灰色の人生をなぞっていたボールペンが、ふと一瞬だけ止まった。

ためらうように震え、それまでとは違うどこかへ向かうように、ほんのわずかに線を逸らした。


おそらく、五歳の記憶がまだ褪せきっていなかったのだろう。Styxへ戻った柊音無は、もう一つの権限――武器選択権を行使した。


制式武器を手放し、数ある武器の中からWA2000を選ぶ。

特別な理由はない。ただ、小柄な自分にも扱いやすかった。


そして残ったポイントで、WA2000が収まる黒いバイオリンケースと、スズキのバイオリンを手に入れた。


そのときの柊音無は知らなかった。それが自分の世界に別の色を差すことになるのかどうか。

けれど、同じ線の上ばかりを往復していたペン先は、たしかに別の方角へ向かい始めていた。


もっと鮮やかな輪郭を描こうとしていた。


それからは、任務と薬物と訓練だけではなくなった。


山吹中学で人との付き合い方を学び、バイオリンを弾く時間ができた。


バイオリンは難しい楽器だったが、柊音無には困難を潰していくための時間も忍耐も、いくらでもあった。


MyosotisであることはStyxが決めたことだった。

だが、バイオリンとWA2000は違う。それは自分で選んだものだった。


少なくともStyxでは、開放弦が安定しないからといって射撃標的の前に立たされ、流れ弾の飛び交う中で三十分も生死を賭けさせられることはない。


永夜の世界に、音楽が小さな裂け目を作った。

差し込んだ光の下で、代わり映えしなかった灰色にも、似ているようで違う濃淡が生まれる。


世界を変える光ほど、スナイパーには遠ざけるべきものだと、柊音無は知っていた。

だが、自分の世界を照らした光が、一人の少年だったことを、柊音無はまだ知らない。


中二病を発症して、わざわざ屋上で宿題をし、陽射しにやられてふらふらになった挙げ句、聞こえてくるバイオリンの音にキレ散らかした少年だ。


「くそっ! うるせえ! ノコギリ挽くなら音楽室行けよ!」


黒髪をぐしゃぐしゃとかきむしりながら、少年は怒鳴った。


柊音無は弓を置き、バイオリンを下ろした。


「いまは放課後です。音楽室は部活で使われています。それに」


柊音無は首をかしげた。


「わざわざ屋上で宿題を? まだ日差しも強いのに。眩しくないんですか」


「お、お前には関係ないだろ!? ここは公共の場所だ!」


「なら、僕がここで練習するのも自由ですよね」


「はぁ!? なんだよお前!」


カッとなった泉上光は、手にしていたパックのカルピスを投げつけた。


ぶつけてやるつもりだったのだが、柊音無はひらりと身をかわし、そのまましっかり受け止める。


ついでにぺこりと頭を下げた。


「受け取ります。ありがとうございます」


泉上光の思考は停止した。


そんなロマンチックとは程遠い出会いだったが、泉上光はそれからというもの、やたらと柊音無に絡むようになった。


最初は、あのカルピス代を返せと言ってきた。

次は、ケースだけは立派なのに、肝心の演奏はひどいと文句を言った。

いつしか、柊音無とくっついて回ることが泉上光の習慣になっていた。自分もエレキギターを買いたいと思うようになり、リンキン・パークにも夢中になった。


そのことを父親に宣言したとき、泉上一は新聞からちらりと顔を上げて息子を一瞥し、再び紙面に目を落とした。


「金はない」


「嘘だ! 親父、ついこのあいだ課長になったばっかじゃん! ちょっとくらい息子に還元してくれたっていいだろ!?」


「本当にない。どうしても欲しけりゃ自分で一本盗んでみろ。それを俺がきっちり逮捕してやる。検挙実績の足しにもなる」


「……」





柊音無の存在が泉上光の中学時代に鮮やかな彩りを添えたのだとしたら、

泉上光は、柊音無の永夜に差し込んだ最初の光だった。


計算もなく、陥れ合いもなく、毒もない。誰かが傷つくこともなければ、死ぬこともない。ただ稚拙で命に関わらない挑発ばかりだ。すぐ怒るくせに、すぐ機嫌が直る。大雑把でやたら元気で、今日はこれ、明日はあれと興味を移していく。さっきまでNBA選手になると息巻いていたかと思えば、次の瞬間には甲子園を目指すと言い出す。そのくせ、その前にリンキン・パークのボーカルになるとも言い張る。

まぎれもない音痴なのに。


泉上光の隣で弁当を食べながら、そんな取り留めのない話を聞いている時間が嫌いではなかった。


数学と物理は得意だった。スナイパーだからだ。

だが日本史は苦手だった。スナイパーにそんな知識は必要ない。


一方で泉上光の成績は良く、ことあるごとに柊音無のところへやって来ては勉強を教えた。


「新選組ってさ、歴史にどれだけ貢献したかは微妙だけど、NHKにはめちゃくちゃ貢献してるよな」


「……?」


「え、大河見たことないの?」


どうやら本人はかなり上手いことを言ったつもりらしい。きょとんとした柊音無を前に、一人で腹を抱えて笑っていた。


そんなとき、柊音無はただ泉上光の答案用紙を眺めていた。


見事な点数。申し分のない評価。少し右上がりの筆跡。

どこまでも伸びやかで、ひどく彼らしい字だった。


深夜。


Styxから与えられたS級隊員用の個室で、柊音無はボールペンを手に取る。

デスクライトの下、泉上光の名前を綴った。


少し右上がりになるように。


筆先は迷わず、あの遠慮のない明るさをなぞるように。


その筆跡で、その名前を書く。


まるで彼自身をなぞるように。


充電式のスタンドライトがちらつき、力尽きるように暗くなった。柊音無は無言で充電器につなぐ。


ほどなくして、部屋は再び明るさを取り戻した。


途端に、目に映るものすべてが色を帯びる。


薄茶色のライト。浅緑のボールペン。『長距離狙撃技術と弾道学』、『高等偽装・潜入技術』、軍緑や土色の背表紙が並ぶ本棚。机の上には生成り色の紙。

銀色のペン先が落とした小さな影は、書き終えたばかりの最後の一画へとつながっていた。


泉上光。


泉上光。


突然、スマホが震えた。


画面を見ると、LINEの通知が入っていた。


【泉上光】


俺、泉上光!

これから連絡はこっちな!

今週末、一緒にどっか遊びに行かない?


音無はしばらく画面を見つめた。

デスクライトのやわらかな灯りの下、すぐに返信を打った。


【柊音無】


柊音無です。

お誘いありがとうございます。予定は泉上さんにお任せします。

今後ともよろしくお願いします。

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